ケネス・バーク『動機の修辞学』 29

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.. ベンサムの修辞的分析

 

 説得の研究についてのベンサムの偉大な貢献は、そのほとんどが彼自身の意図に反してなされた。形象の暗示を真に越えることのできる議論の方法を奨励しようとして、彼はいかに我々の思考が形象に支配されているかをあらわにした。もっとも抽象的な法学用語を調べ上げ、「法的虚構」という点から弁論や判決はなにを意味するのかと自問し、彼は「原型」の秩序だった探求を提起した。「原型」ということで、彼は抽象を使用することのうちに潜むイメージを意味している。(彼のお気に入りの例をひとつ引用すると、「服従」という言葉は、実際には関係ない、<縛る>というイメージを暗示し誘発する。)

 

 ベンサムはここで、通常は詩の正反対だと考えられている法律の専門用語に隠されたある種の詩を発見している。それは、詩的原料を判決、決定、つまりは姿勢と行動に影響を与えるために使用しているので、<応用詩学>あるいは修辞学である。『文法』でリチャーズとミードを論じたときに記したことだが、姿勢あるいは初発の行為という考えは曖昧である。例えば、同情の姿勢は、眼に見える親切になるかもしれないし、「文字どおり」親切な行為の<代用物>になるかもしれない。リチャーズが現実の行為ではない詩の「想像的な」行為を強調するとき、ベンサムの本質的に修辞学的な関心を彼がいかに「再詩化」しているかを見て取ることができる。詩を実際的なものを越えた想像的な示唆力をふるうものだと考えるとき、再びキケロからロンギヌスへの道が開かれる。ある表現は、聞き手をあれこれの決定に動かす力があるためではなく、それ自身において独力で「動く」イメージを使用していることで称賛される。想像的なものを行動への誘いではなく、行動の精妙な宙づりだと考えると、修辞学において<恐るべきもの>が詩においては<楽しむべきもの>となりうる。

 

 「原型」や隠されたイメージを探るとともに、ベンサムはまた王の代わりに王冠や玉座と言い、聖職者の代わりに教会や祭壇と言い、法律家の代わりに法、裁判官の代わりに法廷、富者の代わりに財産と言うような言語の操作について怒りを感じている。彼に典型的なひねくれたスタイルでこう言っている。

 

 この操作によると、対象とその影響力、ある人物や階級の観念にたまたま結びついていた聞き手や読者の心にある不愉快な観念がばらばらにされる。多かれ少なかれ不快な個人の代わりにあらわれるのは、詩におけるように、想像力の戯れであり、空想の産物である。個人や階級はこの幻影の力をまとうことで、敬意や尊敬が払われるものとなる。

 

 

 彼がここで攻撃しているのは、言語の観念性だが、コールリッジはそれを『それぞれの観念に応じた教会と国家の制度』で、大いに修辞的利点のあるものとして使用している。というのも、「それぞれの<観念>に応じて」制度と社会的階級を扱うことによって、コールリッジは、いわば同時代の社会の不完全さの背後に完全な原型を発見し、現実の状況よりもそうした完全な精神に重点を置くことができたのである。ベンサムはこうした敷衍を「アレゴリカルな偶像」と呼び、それを<想像物への>訴えかけと診断した。

 

 ベンサムの作品は長い間絶版になっていた。しかし、彼の「原型化」についての主要な考察はC.K.オグデンの『ベンサムの虚構理論』に再録されている。ベンサムによる他の二つの修辞学に対する重要な貢献は、『行動の源泉目録』と『謬見の書』である(『謬見』はショーペンハウアーの『議論術』同様鋭く、『目録』は、多分、人間関係を扱う記述的、「中立的な」用語を開発しようとする現代の努力の源となっている)。

 

 『謬見の書』での「論点先取の名称」についての議論は、『行動の源泉』において三幅対の原則として詳細に述べられている。彼が考えている点は、間違いなく言葉の戦争において基本的な武器であるので、ここでよく考えてみるべきである。彼が言うには、「論点先取の名称」とは「道徳科学の領域の対象を指すために」用いられる「混乱の謬見」である。「道徳」という語に「政治的」なことを含めることができるなら、我々はここで現代のジャーナリズムの基本的な修辞技巧を得ることになる。

 

 論点先取とはアリストテレスによって数え上げられた謬見のひとつである。しかし、アリストテレスはその謬見がもっとも大きな影響力をもつものであることを指摘せず(それがこの章で明らかにしようとするところである)、よく探るほどの危険も認めなかった。——つまり、たったひとつの名称しか取り上げなかった。

 

 

 

 かくして、我々は欲望、労働、気質、性格、習慣(これらはみな、彼の考えによれば「中立的な」言葉である)について語るのと同じく、勤勉、栄誉、寛大さ、感謝といった称賛の(「頌徳的な」)言葉や、情欲、強欲、贅沢、貪欲、浪費といった非難の(「誹謗の」)言葉を用いる。ベンサムは、「苦痛、喜び、欲望、感情、動機、愛情、性癖、気質やその他の道徳的領域」の言葉は本来みな「中立」だったと信じている。しかし、「徐々にそのうちのいくつかが称賛の、いくつかが非難の形をとるようになった。<道徳感覚>(いい加減で人を惑わす言葉が使わせてもらうなら)が成長するに従い、変化も広がっていった。」

 

 「称賛」と「非難」という「検閲官的な」両極の中間に「中立の」言葉をおくことは、アリストテレスの『倫理学』における美徳の分析と著しい対照をなしている。アリストテレスでは、美徳とは両極端(どちらも悪徳である)の適切な中庸である。かくして、「勇気」とは、どちらも悪徳である臆病と向こう見ずの両極の中間にある美徳である。気前の良さは、浪費とけちの中間にある。気だての良さは短気と怠惰の中間に、友好的は追従と不作法の中間に、正直さは自慢と猫かぶりの中間にある、等々。ここでは、中間項が、両極にある「非難」すべきものの間で均衡を保つことで、それ自体において「称賛」されるものとなる。ベンサム的な意味における「中立の」言葉など存在しない。

 

 『目録』でその輪郭が描かれているベンサムの企図は、異なった原理によって成り立っている。「金銭への関心」には「生計、豊かさ、利益、獲得」のような「中立な」表現があろう。そして、「検閲官的な」両極とは、「節約、質素、倹約」(称賛)と「けち、しみったれ、強欲、金に汚い、儲け主義」(非難)である。あるいは、「好奇心、探求的、知識欲」といった「中立的な」言葉は修辞的に重心を移すことで、「知識愛、文学や科学への情熱」など(称賛)や「詮索好き、でしゃばり、おせっかい」など(非難)になる。公的な信用を得たい、あるいは悪評を恐れるという(中立的な)表現は、称賛的にいうと栄誉、良心、節操、誠実さとなり、非難としていうと虚栄心、虚飾、高慢、うぬぼれ、尊大となる。神に対する恐れや神への希望は、敬虔、信仰心、高潔、清浄として称賛もされ、迷信、偏狭、狂信、聖人ぶる、偽善として非難されることもある。十四の異なった「関心」すべてにおいてそうなのである。

 

 アリストテレスも同じような事柄について議論している。(『修辞学』I、IX、28−29を見よ。)しかし、ベンサムの分析はより詳細にわたる。ニーチェの『道徳の系譜学』についての研究は、キリスト教の美徳をこの種の修辞として鮮やかに解釈している。14節では「この世界でいかに<観念>が<捏造されたか>」と問われ、不能が善と呼ばれ、懇願が柔和と呼ばれ、臆病に待つことやかしこまることが忍耐と呼ばれ、憎むべき権威への従順さが神への服従と呼ばれ、復讐する能力のないことが寛容さと呼ばれ、最終的な復讐への期待が正義の勝利と呼ばれることをあげている。その少し後で、転倒した翻訳をより説得力のあるものとするために、天使博士【トマス・アクイナスのこと】が引用されている。「天上の王国において祝福された者は地獄の苦しみを見やり、祝福されていることが彼らをより楽しませるのである。」

 

 用法がすでにかなり変化し、ベンサムのリストの対称性が崩れているところもある。かくして、彼は「利己的な関心」に称賛的な表現を与えることに困難を覚えていたが、功利主義的な思想を繰り広げるにあたって、「啓蒙的利己心」という語を得たのだった。彼はまた性的欲望の称賛的言葉を見いだすことができなかったが、当時のイギリスには禁欲的な制限があったようである。(少なくとも、「姦通」を引き立てる言葉として「色事」が使えるとは主張している。)しかし、リストは個別例よりも「原則自体」に価値がある。『謬見の書』で、「偏見混じりの利害」が反映した検閲官的言葉の選択が考察されているところなどがそうである。

 

それは必要とされるものでもないし、教えられることが認められてもいない。人はごく自然な成り行きとしてそうなるのである。自然で自由であればあるほど、羞恥心のようなそれを制限するものの力はより弱くなる。最大の困難とはそれを学ばないことである。この場合、他の多くの謬見と同じように、より慎ましやかな努力とは、それを教えないように教え込むことにある。

 

 

 

 この最も自然発生的で、至る所に存在する修辞的実践の説得の働きは(語を強調して使用するのことで人は詩人になり、修辞家になる)次のように分析される。

 

<形式>なしに、前提の<力>だけで説き伏せることで——聞き手や読み手が同じような前提をもっていたら、対象もその結果も眼に見えているわけだが——問題となっている主張がいかに間違った根拠の上になされたものであろうと、それは隠蔽され、単純でそれにふさわしい形式で表現されるときよりも説得力があるものになりがちである。特に、<検閲官的な>言葉に<情熱的>主張の性質と傾向が加わると、暗示された情熱が感染し広まりやすい。この場合、称賛であれ非難であれ、<一般的な>意見に助けが求められ、また見いだされるので、その支持によって主張が伝えられ、証明されたかのように働くのである。

 

 

 この文章は魅力がなく、それほど生き生きとした力はない。しかし、よく考えるに値する。そして考えると、それが<論理的>謬見(あるいはごまかし)、<先決問題要求の虚偽>による「想像力」への訴えかけを分析していることに気づく。ある主調に則って、証明すべきことが前提されているのだと言える。ベンサムが言おうとしているのは、検閲官的用語は、前提の<形式>はなくとも前提としての<力>がある、ということである。前提の<形式>は、語り手がはっきりと「私はここで証明済みの判断を前提とする」と言ったときにのみ存在するものだろう。明らかに、このような形式では、検閲官的主調にある暗示の力は失われていることになろう。しかし、それと名づけることなく、検閲官的前提に基づいた発言をすることで、語り手は聞き手の心に<まさにその前提を確立する>機会をもつことになる。

 

 もちろん、聴衆の利害が強く反対の前提に結びついている場合、明らかにそうした<主調>(我々はベンサムが使用したのではない言葉を挿入している)の使用は聴衆をむしろ反発させる。かくして、『ジュリアス・シーザー』で、マーク・アントニーは、シーザーの殺害者たちを「高潔な方たち」と「称賛的な言葉」を使って表現することで、群衆を前にした演説を注意深く始めている。そして、徐々に反語的な曖昧さを橋渡しにして非難の言葉に変えていったのである。非難めいた主調を用いて始めたなら、彼は群衆を決定的に敵に回してしまったかもしれない。

 

 我々はベンサムの企図に、神秘的な思考法とでもいうべきものを見て取る行き過ぎに陥っているのだろうか。というのも、神秘主義弁証法というのは、現象の世界から体系的に撤退し、日常的判断を超えた領域に入り、しかる後にそこから帰還することで成り立っているからである。上方への道は下方への道と釣り合っている。亡命の、撤退の、否定の時期は新たなヴィジョンによって終わりを告げ、幻視者は再び世界との交渉を再開することができ、世界を新たな光のもと、亡命を通じて求めていたヴィジョンのもとに見る。現象の世界に帰ってきた彼は物事をまったく異なったふうに見るので、以前は軽視していたものを探し求め、以前に探し求めていたものを軽視する。称讃と非難は、その中間にある<中立的な移行の時期>を経て場所を変えるのである。

 

 かくして、我々はベンサムの三幅対の言葉の背後に潜む、<否定的なものを経た>ある種の希釈化され世俗化された弁証法を見るように思う。同じように、シェークスピア劇の筋の急変では、アントニーが中立的言葉の代わりにイロニーを用いたのと同じことを劇作家がしていると我々は信じる(イロニーの曖昧さは中立性に向う弁証法的運動と劇的に等しく、純粋な中立性は劇を超越するだろう)。

 

 しかし、多分我々はここで、必要以上の荷を背負っている。いずれにせよ、科学的に中立な語彙という考えに対するベンサムの貢献がどれほどのものであれ、彼自身は決して偏った用語を否定しようとはしなかった。実際、彼の基準にあった動機に関する限り(「最大多数の最大の善」に関わるものであれば)、開けっぴろげに称賛の言葉を使ったのだった。間違いなく、前提を不当に使っているわけではないと彼は弁明するだろう、というのも、彼の見解では、彼自身はなぜある行為が称賛されまた非難されるのか、常に喜んで示そうとしているからである。つまり、ある称号は、<それ自体>、前提の形式はなくともその力はもつものだが、<文脈>において、明快な議論に用いることによって、それを正当化するのである。かくして、君主制が最大多数の最大善には有害な力だという根拠のある前提に基づいて、彼はためらいなく「王権の影響」(中立的あるいは称賛の表現である)と言うのではなく、「王権の堕落」と言うべきだと主張する。また、彼の時代において、「革新」という語は立法上の変化に対する「非難の意味を込めた称号」として一般的に使用されていたので、最大多数の最高善を測る物差しとして彼の好んだ中立的ではない称賛の言葉とは「改善」である。

 

 行動へ誘うということに関しては、本当に中立的な言葉はその目的を達することがないだろう。というのも、そこにはどんな行為もないからである。条件を整えるための教えは十分に与えてくれるが、なにを条件とするべきかについは言ってくれない。しかし、我々の世界のように、金銭に固有な諸目的によって生産と配分の体系が完全にできあがっているようなところでは、動機づけの「中立的」用語が比較的高い割合を占めていても、強い野心と共存しうる。というのも、いかに「中立的な」用語だろうと、どうにかして金銭的利益に使用できる限り、行動への修辞的な誘いかけとして働き得るからである。

 

 事実、「中立化」は、人知で可能な限り、金銭的動機とは本質的に異なる哲学的、宗教的、社会的、政治的、個人的な見地といった多くの異なった領域で働く多様な検閲官的傾向を排除するだけなのかもしれない。例えば、投資の用語は「中立的」だが、債権者は、個人的には、財産処分するかもしれない債務者者に偏った意味をもつ「称号」を使いたいだろう。債務者が財産を処分できるにもかかわらず、良心のとがめからそれを取りやめたとすると、財政的な論理に限られた純粋に「中立的な」立場とは異質な検閲官的意味に従っているのである。

 

 我々は、ベンサムの中立的な用語への関心が金銭的動機の反映に「過ぎない」と言おうとしているのではない。明らかに功利主義の「最大多数の最高善」という原理は利益を目ざす純粋に個人主義的な理論を越えている。しかし、正統的な資本主義が、ある特殊な歴史的条件において、競争−協力の一般的な弁証法の過程を制度化したものだと言えるなら、厳密に金銭だけに関わる功利性もベンサムの広範囲にわたる功利主義の図式の一つの還元だと考えられる。ベンサムは観念化を嫌っているが、社会的功利性に関する彼の原理は金銭的功利性の修辞的仮装として役立ちうるのである。両者の密接な関係(利益は大衆的な市場をねらった事業によってもたらされる)は二つの動機の体制を織り交ぜることを可能にする。それ故、非功利的動機を中立化する提案は、いかなるものであっても、金銭的動機がすでに他の動機づけを超越していることに影響されてしまうだろう。

 

 こうした用語の中立化は金銭的な誘因に限られたことではないが、金銭によく当てはまるは、もともとの洞察が金銭の「開放的な」働きに多くを負う<いた>からに他ならない。行動を金銭という根拠で強化することは、より古くからある倫理的用語とは異質な動機を好むということであり、他の諸動機に根ざした検閲官的称号に対して相対的な立場をとることをより容易にする。

 

 すでに記したように、その他にも純粋な弁証法の道があるのは確かであり(<否定を経由する>神秘的探求に近い)、そこでは修辞にある検閲官的意味合いは超越されうる。金銭経済のなかでは、そうした純粋な弁証法的過程が金銭体系によって<制度化>されると我々には推測できるが、超越の神秘的過程は、伝統的には非金銭的な言葉で語られ、その弁証法は金銭とは関係がないの。だが、神秘的な中立化と一般的見解の超越という<組織的な聖職者の技術>が金銭経済の外側で生じるものなら、社会的階級の広範囲で多様な社会的階級が、金銭の媒介なしに、同じく多様な職業から生じたと結論しなければならないだろう。我々はその可能性を強く疑っている。僅かな金銭だけで、金銭がつくりだす多様性についての洞察を与えてくれるに十分である。理解を得るのに、現代の金融財政のような発達が必要なわけではない。社会は、その職業によって階級間を媒介する聖職者階級の支えるだけの金銭があれば十分であり、それによって、単なる階級ではない中立的な場という「観念を得る」ことができる。

 

 あらゆる寓話のうちでも、修辞の失敗をもっともよく示すのはロバを引いて市場に行く父子の話だろう。父親が歩き息子がロバに乗るか、息子が歩き父親がロバに乗るか、二人とも歩くか、二人ともロバに乗るか、いずれにしろそれを間違いだと指摘する者と出会う。結局、できる限りの反対意見を聞こうとでもいうのか、二人でロバをかついでいこうとするのだが——それもまた解決にはならない。アリストテレスが体系的に示したように、どんな立場に対しても反対意見は存在する。「問題なのは、それが哲学だからだ」といって哲学に反論するときのように、それがまさに主張していることを根拠に攻撃することさえ可能である。

 

 特に修辞によって優位を得ようと懸命な場合には、断片的になりやすく、便宜的で、強引な反論となる。「新しくできた国では、素早く行動するのが賢明だ」——という言葉に匹敵するのは、古くからある国ではニュースのあるごとに態度を変えるのが修辞的賢明さだということである。多様な動機が言い争っているような世界では、自分の言葉の検閲官的意味合いを正当化してくれるような包括的な、哲学的、科学的、神学的な根拠が存在しているというのは、単に思い込みであることがほとんどなのである。

 

 始めて出会った人の、様々な論議のある問題について発せられる<最初の>言葉が、あたかも<最終的な結論>であるかのような口調で語られることがある。確かに、彼の口調はデモステネス風に大声でアクセントをつけ、感情への訴えかけで議論を終えるというものではない。むしろそれは気持ちを引きつけるあらわな声の変化であり、間違いなく、「正しい見方をもっているというなら、君もきっとこの見方だろう」という言外の言葉が含まれている。これは、特に教師たちによって用いられる技巧である。生徒たちが、落ち着かない困惑した態度で、「正しいこと」に導いてくれる人物を密かに見つめているようであれば、状況は教師にとって好都合であって、巧妙な口調によって、自分の立場を確立し守るような判断を<示唆する>のである。もし彼が自分の立場を守るための議論をあからさまにかき集めるようであれば、生徒たちは自分に課せられた制限を批判的に認めることができ、彼らを制限から<自由にする>危険を冒すことになろう。

 

 理性的な議論より、こうした口調で新聞も説得する。議論の方は社説にあり、比較的読者が見ない場所である。口調は見出しにあらわれ、どんな読者も避けることはできない。見出しは「ただ一言の名称」だが、それを「口調」と呼ぶのは、そこにある種の声の調子があり、その語調はある種の結論に適したものだからである。それはまさしく「身振り」「姿勢」「態度」と言える。巧妙に、彼らは感情移入の原則によって行動する(キケロが言っているように、単なる感情の表出であっても、そこには、参加を誘うなにかがあるからである)。そして、<示唆的>であることで「論点を避ける」(「示唆性」というのは多分、ベンサムの定式、「前提の『形式』を欠いた前提の『力』」を一語であらわしたものだろう。——あるいは我々が述べたように、欲せられる<結論>に見合った主調によって<始める>こと)。

 

 それ故、ベンサムの原理の重要性は、修辞の分析のためだけではなく、修辞家によって使用されることにある。ベンサムが提示したのは、自然発生的で、不可避的でさえある言語行為に対する体系的な用語だった。かくして、それぞれの例においてどの資源が使用されるべきか、我々は自問することができた。(それがベンサムにもともとあった目的でないことは我々も認める。彼の言語分析は自分の意志に反した修辞となり得たのである。)

 

 次に、修辞を攻撃するための修辞、敵対するイデオロギーが互いに「暴露」しあうときの「暴露」の問題がある。この問題の基礎を築いたのは<覆いtegumen>と<覆われるものres tegenda>を方法的に探求した際のベンサムで、<覆い>とは、それ自体は言語外的な利害を言語によって覆うことである。(彼の分析は言語に中心をおいているが、同様に、修辞的な状況における言語外的な要素を示そうともしている。)『目録』で、彼はどんな行為にも通常いくつかの動機が含まれている、と説明している。しかし、こうした「諸動機の結びついた行動」では、語り手はある動機を意味あるものとして選択し、他の動機を無視する。どんな決定も複雑な動機の総計であるから、こうした成り行きは避けがたい。修辞的に言えば、もし語り手が自分や仲間の行為に同一化し、もっとも好都合な動機を選び、それを最優先のまたは唯一の動機(あるいは全体の色合いを決めるもの)として提示すれば、容易に利益を得ることができるであろうから、検閲官的名称を用いていることになる。逆に、もっとも不都合なものを選んで敵の動機の本質だと言うこともできる。しかし、ときには「十分尊重するにたるだけの動機が見いだされない」ことがある。ベンサムによると、そのとき、実際の動機の代わりに、語り手は「実際の動機と近い関係をもち、区別することがもっとも難しいような」動機を選択しうる。彼はこうした変更を「代理の」動機、あるいは動機の「覆い」と呼んでいる。彼はこう説明する。

 

政治的な論争では、二つの党によって実行される政策はあり得ず、ある政策は<同じ>党の人間には<いい>動機とされ、<反対の>党の人間には<悪い>動機が帰される。——どんな<競合>でもそうであり、(そのほとんどにおいて)なんらかの敵意がある。そうした場合、現実には支え合っていたいくつかの動機から一つの動機が、あるいは<代理の>動機が選択される。さらに進むと、実際の動機が現在の目的のために最適と言えないような場合、それを覆い隠す<動機の覆い>となる名称が用いられることもあろう。

 

 

 かくして、「<味覚の快楽>に匹敵する欲望」をもたらすことができるのは、飲食につきものの社交や交際を強調する「称賛的覆い」としての「共感」という動機である。「性的欲望」は称賛的覆いとして<愛>を使うことができる。利殖の欲望は<勤勉>によって称賛的覆いをされうる。<権力愛>は<郷土愛>として称賛されうる。<罰や悪評への恐れ>は<義務への愛や義務感>と呼びうる。友人たちの口利きを得たいという欲望は<共感>あるいは<感謝>という覆いをとりうる。<反感>や<敵意>は<公共心>あるいは<正義感>という名で称賛的に覆いうる。こうした欲望や動機は、飾らない形では「<人間精神の品の悪さ>と考えられる」ので、彼は「それを覆うために普通用いられる隠蔽物」の見本を提示している。

 

 同様に、『誤謬の書』において、ベンサムは「曖昧な一般化」が覆いとして使用しうることに注意を向けている。かくして、「体制」は個々の体制よりも包括的な言葉で、よい体制も悪い体制も含むことができ、専制も体制の一種であり、体制への要求が<専制>への要求を覆い隠すこともありうる。(多分、そうした技巧の現代の変種としてド・ゴールによるフランス人民の再結集があって、<政治なし>という名目のもとに<政治的>統一を果たそうとしている。)ベンサムの考えによれば、人は英国の政体に多くの反社会的な要素をつけ加えて用いているので、すぐれた点には言及しないままでいることができ、政体そのものへの、「比類のない政体」への熱情が涵養されることになる。かくして、「曖昧な一般化」への攻撃が最高潮に達する地点で、彼は書いている。

 

政体をめぐる団結。つまりそれは、浪費をめぐる団結、略奪をめぐる団結、圧政をめぐる団結、堕落をめぐる団結、詐欺——政見発表における詐欺、議会における詐欺、裁判の詐欺——をめぐる団結である。

 

 

 

 『謬見の書』の最後で、この偉大な暴露の方法家(ギリシャ人なら彼のことを<Rhetoromastix>鞭をもった雄弁家と呼んだことだろう)は、ある未来像を描いている。左側を狙い砲撃すれば、敵は調べもしなかった右手を無傷で進むといった、人を間違った場所で戦わせるよう誘い込む様々な仕掛けが分析され、「筋違いの、ごまかしの議論のない技術や誠実さのなかで無防備になり」誰もが危険となるような日が来ることをベンサムは予見する。無防備となった瞬間、こう言う者がいたとしたらどうだろう、「体制!体制!という声に代わって聞こえてくるのは、ある声、なんなら、多くの人の唱和による『陳腐だ!陳腐だ!権威の謬見というやつは!不信の謬見というやつは!』等々という声だろう」と。

 

 彼が言うには、それは「文明の歴史の一時期を画することになろう」。この未来像については、簡潔にして洗練されていると言うにとどめておこう。