一言一話 55

 

 

批評の責務

批評の責務(それがその普遍性の唯一の保証だ)は純粋に形式にかかわるものだということができる。それは、考察される作品もしくは作者のなかに、いままで気づかれずにいたらしい、「隠された」、「深い」、「ひそかな」何かを発見することではなく(どんな奇跡によって?われわれのほうが先行する者たちよりも目が利くとでもいうのか?)、ただたんに、ある複雑な家具の二つの部分を手探りで「もののみごとに」くっつける腕のよい家具職人のように、時代が批評に提供する言語(実存主義マルクス主義精神分析)を、作者が彼自身の時代に従ってねりあげた言語、すなわち一連の論理的拘束の形式上のシステムに当てはめることなのである。批評としての「証し」は「真偽にかかわる」次元にはない(それは真実に依拠してはいない)、というのも批評的言説は――論理的言説も同じであるが――同語反復以外のなにものでもないのだから。結局のところ、批評的言説は、遅れながら――とはいえそれはこの遅れのなかに全面的に身を置き、まさにそのことによって遅れは無意味なものではなくなる――次のようにいうところに存している、ラシーヌラシーヌだ、プルーストプルーストだ。批評としての「証し」は、もしそうしたものが存在するとしたら、問われている作品の覆いを取り去る能力ではなく、それとは逆に、自分自身の言語活動によってできるかぎり完全にそれに覆いをかぶせる能力に拠っているのである。

職人としての批評家。