ブラッドリー『仮象と実在』 151

[自然が偶然的であるのはいかなる意味においてか。]

 

 自然についての他の問題は後に取り組むことになるので、ここでこの章を閉じることにしよう。我々は自然自体は実在をもたないことを見いだした。それは絶対の内部での現象という形でしか存在しない。感情と経験の全体から孤立したものは、真実ではない抽象である。生命においてこの狭い自然の見方は(既に見たように)、首尾一貫した形では維持されない。しかし、物理科学においては、全体からひとつの要素を切り離すことは正当化されうるし、必然的でもある。空間における現象の共存や系列を理解するためには、それらの諸条件は独立した研究の対象となる。しかし、そうした諸条件をそれ自体で自律した堅固な実在だと見なすことは非批判的で野蛮な形而上学に逸脱することになる。

 

 絶対から離れた、その外にある自然は何物でもない。現象の世界全体を通じて、その内部で分裂していく過程にその存在はある。そしてこの領域において、諸側面がばらばらになり、存在が思考から、自己が非自己から区別されるところで、自然は極限的なものとなる。それは自己独立的な統一とはもっとも反するような側面である。それは独立性とはもっとも離れた個別なものの世界であり、外面的で偶然の支配する領域と呼べる。外側からの強制、自分のものではない運動は、諸要素の法則である。それらの出来事は内的な意味を欠いているように見える。存在し、偶然に身を任せ、いまだ終端を理解せず、なんらかの理想的な全体に役だつ成員でないことは、既に見たように(第十九章)偶発的なものとなることである。単なる物理的世界においては、この性格にもっとも近づくような道筋を見いだすことができる。しかし、こうした問題は後の文脈に従えばよりよく扱うことができる。これから魂と身体との関連、自然における諸目的の体系の存在について議論することになろう。この章の仕事は、全体のなかでの自然がその一要素であり、従属的なものであることを示せれば終わったのである。