ブラッドリー『仮象と実在』 152

第二十三章 身体と魂

 

[それらは現象であり、反論に対してなんの根拠も与えるものではない。]

 

 この章の問題については、我々は希望のない難題に達するように思える。身体と魂との関係は、経験が示すように思えるある問題を提示するが、それは事実上解決されうるものではない。そして、私はこの結果を受けいれると同時に支持もする。最終的には、正確にどのようにしてこれら二つの存在の形が共存しているのか説明するのは不可能であると思える。しかし、この不可能性において、実在の本性に関する我々の一般的な教義を追認するものが見いだされる。というのも、身体と魂は全体のなかでは区別され、ばらばらにされる単なる現象だからである。そして、それらの関係を十全に理解するとは、結局のところ、それらがどのようにしてひとつのものとなるかを理解することだろう。そしてそれは我々の知識では不可能であるので、それらの関係についてのいかなる見解も不完全なものにとどまる。

 

 しかし、この理解に失敗することは、我々の絶対への反論の根拠を与えるものではない。「いかにして」という問題を前にして口を閉ざすことを強いられるのは、(繰り返さねばならないが)ある理論についての反駁となるものではない。というのも、不整合を見いだすまでは、ある見方に疑問を投げかけることはないからである。もし一般的な考察が、この、あるいはあの問題を解決することに拘束されているなら、そうした問題を放りだしてしまうのは深刻な反論となろう。そして、実質的にそれが主要な結論と衝突する点があるなら、事態はより悪くなる。しかし、反論の根拠となるものは、どちらも我々に対しては有効に働かない。我々が絶対について真であると見た見解においては、我々はいかにして、またなぜ幾つかの問題は答えを引きだすことができないのか理解できる。そして、特に、身体と魂の関係は我々の一般的な教義と不整合なところはなにもない。ここでの私の主要な反論はこの最後の点を保持することになろう。そして、我々は身体も魂も、また両者のつながりもなんら我々の絶対に対する反論の根拠を与え得ないことを見いだすことになろう。

 

 生じてくる諸難点は主としてひとつの原因からきている。身体と魂は独立した実在として提示されている。それらは事物と受け取られ、その種類は異なり、それぞれが独立した存在で、独自の正当性をもっている。そのとき、もちろん、それらのつながりは理解不可能なものとなり、我々は一方が他方にどう影響することができるのか理解するのに無駄に努力することになる。そして最終的に、自分たちの失敗にうんざりして、おそらくはそうした影響の存在をすべて否定することを決心する。我々は二つの無関係な出来事の系列に逃げ込み、それらは互いに影響しているように思えるが、実は単に隣り合って進んでいるに過ぎない。それらのつながりが単に偶然の一致で済まされないなら、結局のところ、なんらかの種類の関係を認めねばならない。その関係は間接的なもので、どちらの系列もが属しているなにか別のものに依存している。しかし、それぞれが自らの実在を有し、自律しているなら、もちろん、それらはともにあることはできない。他方、もし両者がともにあり、それがどちらも変容されていることによるなら、それらは事物ではなく、あらわれでしかない。この最後の部分は我々の多くが予期していない結論である。魂と身体が二つの「事物」でないなら、間違いは完全に魂の側にあるように我々は思う。というのも、身体はいずれにしても事物のように思え、魂は非実体だからである。そして、相互の影響を考えないなら、魂は身体によって支えられるある種の従属物となる。あるいは、結局、従属物は実体を性質づけねばならないので、魂はある種の非物質的な分泌物、排出されるものであり、というのも、「外へ出る」ことは器官になんの相違ももたらさないからである。「物質」そのものが単なる現象だと発見されても、この観点を離れることはない。身体は単に感覚と観念であり、魂とは完全に独立したものと扱え、魂は非物質的で無関係な分泌物にとどまるというのが共通して認められている。

 

 しかし、私は、ほとんどなにも学ぶことができない身体と魂の本性と諸関係に関する多様な理論を述べようとするつもりはないし、いくつもの見方を詳細に批判するつもりはない。先行する諸結果から、身体も魂も現象以上の何ものでもあり得ないことを明らかにしよう。これからすぐにそれぞれの特殊な本性、そして、互いにどう関係し、影響し合っているかを指摘しよう。第一の問題を明確にする努力をするまでは、第二の問題に触れても無益であろう。