ブラッドリー『仮象と実在』 154

[魂とはなにか。298]

 

 そして、魂が身体以上に自律的だといえないことは明らかである。こちらもまた、純粋に現象的な存在であり、不完全で不整合なあらわれであって、独立した「事物」として自らを維持する力はない。第一巻の批判は、自己が真の実在である、あるいはそれに対応するものであるというあらゆる主張を破壊した。そして、ここでの我々の仕事は、この結果を受け入れ、魂の意味を明らかなものにしようと試みることにある。私はまず簡単な所見を述べ、それを説明し、反論に対して擁護しようと努めよう。魂は(1)、直接的経験の限定された中心であり、ある種の存在の時間的連続性、またある種の性格における同一性を有している。そして、「直接」という語が強調される。魂とは、心的な出来事が時間において生じるものととられる限りにおいて、そうした出来事の特殊な集合である。それはその内容(それが思考だろうが意志だろうが感情だろうが)が出来事の連続的な存在を超えた何かを性質づけるものである限り、その内容について考えることを無視する。時間において変化し連続する経験におけるある瞬間、「いまここ」の全体を取り上げ、生じたことだけの性格を、さらにはそれ自体の変化の過程に影響するものだけを考える――おそらくはこれが魂を定義するもっとも容易な方法だろう(2)。しかし、私はこれを抽出し、簡単に説明してみなければならない。

 

 

*1

 

 

 魂が、それ自体では真の実在に到達することはできない何かだという意味で現象なのだと明らかにしても十分ではない。というのも、ある程度いかに宇宙の他の側に対しているかを知らなければ、結局完全に途方に暮れることになろうからである。頻繁に起きる誤りは、いかなる合理的な結果をも排除するほど幅広く「心的なもの」を定義することにある。というのも、私の前にあるあらゆる対象、目的はある意味において私の魂の状態だからである。それゆえ、もしこの意味が排除されないなら、私の身体と全世界は「心的な」現象となる。そして、この混乱のなかで、私の魂自体理解できない場所を探し求めることとなる。もっとも重要なのは魂の存在とそれが満たすものとを区別することで、それについてはほとんど指摘されず、おそらくは無視されるのが普通になっている。問題は次のようにいえるだろう。もし我々が(第二十七章でのように)宇宙のなかで諸魂を超えるものが何もないと仮定するなら、それらの魂のなかで同じ問題が解決を求めることになろう。我々は身体とも世界の諸側面とも区別される魂の存在する場所を見いださねばならない。

*1:

(1)『マインド』XII,355(No.47)参照。

(2)私はしばらく身体との関係をなしで考える。いくつかの理由から魂を「ある有機体内部での直接的経験に関わる諸事実」と定義しないほうがいいからである。この点についてはのちに立ち返ることになろう。