ケネス・バーク『動機の修辞学』 33

 

.. エンプソンの「牧歌的」同一化

 

 我々はいま、「宮廷作法は、いかに回りくどいものではあっても」と言った。ウィリアム・エンプソンの独創的な著作『英国の牧歌』(イギリスでのタイトルは『牧歌の諸変奏』)は、このほとんど知られていない修辞に関する考察として読める。彼の本は、「プロレタリア」文学の流行に対する珍しい対応であり、対照的な社会的階級の間に交わされる宮廷作法の修辞に深く関わっている。というのも、文学的<ジャンル>としての牧歌は、本質的に、「富者と貧者の美しい関係を含むと感じられた」からである。

 

 実際、「プロレタリア」の批評家が、「階級意識」を強調し、階級<闘争>の要素を持ちだすのに対し、エンプソンは、階級の違いについては十分意識的ではあるが、むしろ闘争を越えようとする種類の表現スタイルを考察している。彼が検証しているのは、典型的な社会的文体的技巧であって、異なった階級の代弁者が身分の制限を超える包括的な弁証法を目ざしている。この意味において、支配階級は<現状>を維持することで、他の階級以上の利益を得るであろうから、正統的なマルクス主義者は、階級の「神秘化」に寄与するとして彼を責めたがるだろう。確かに、今日のロシアで正統的な批評を書く者は、「牧歌」の観点から「プロレタリアート」文学を考察することは、ロシアの一般民衆とクレムリンの政治家との関係を貴族と羊飼いとの「牧歌」的関係としてみることになるという理由からそれに反対するだろう。

 

 しかし、我々の目的にとって重要な考察は、礼儀正しさや謙遜というものが恋愛詩の約束事からと同時に、社会的に劣等な者の模倣から生じるということにある。エンプソンは社会的内気さ(カーライルの「まがい物のつましさ」)から発達した文学的簡潔性、イロニー、偽の簡潔性の様々な変種を分析している。つまり、「神秘」はそうした表現にも存在するが、微妙な当惑に変わっており、それがあからさまな追従から反語によって隠された挑戦までをおおっているのである。あるいは、社会的特権への「崇敬」が尊重程度にまで弱められ、その尊重が、真意を明らかにしないまま無礼に向うこともあると言える。エンプソンが考察している文学的戦略においては、甘言をあらわす観念やイメージは、どれだけねじ曲げられようと、あからさまな攻撃や中傷をあらわす観念やイメージのために捨て去られることは決してないのである。そして、我々が感じざるを得ないのは、こうした妥協の背後にある衝動は単に優位者に対する潜在的な恐れではなく、むしろ位階的秩序の魔術そのものであり、それが優位者にも劣位者にも課せられ、両者をして身分の不一致を越えるような弁証法を目ざすよう導くのである。問題をこのように見ると、明らかな称賛とはまったく異なる様々な態度は、そうした目的に役立てられている。階級間の関係は、両者ともより大きな全体の一部だと感じさせることが目的の場合であっても、「称讃と嘲りが働くものとして」として扱える。

 

 多分、エンプソンの本で、「神秘化」の修辞的分析に寄与するもっとも明確な例は、グレイの『挽歌』の四行についての論評である。

 

暗く底知れない大洋の洞窟に

多くの宝石が純粋で澄み渡った光に満ちる

満ちあふれ赤く染まった花々は目にもとまらず

砂漠の空気に甘さは失われる

 

 

この詩句にどれだけ「ブルジョアイデオロギー」が存在するか言うことは困難だと認めた上で、彼はそこに「隠された政治的観念」を分析する。彼の観察は次の四点に要約される。

 

 1.詩句は、この詩人の学者としての才能を社会が無視していることをほのめかしている。

 

 2.そうした無視された才能は、処女の慎ましさによってあらわされる(赤く染まっていても摘み取られない花のように)。

 

 3.メランコリーの調子は、「貴族政治とは対立する諸状況」を認めたとしても、詩人は抵抗せず断念するだろうことを示唆している。

 

 4.教会墓地という設定、内省の普遍性と非個人性は「我々は避けることのできない死を受け入れるように、社会の不正を受け入れるべきだと主張している」。

 

 多分、この「詩的な」語句を修辞的に、<社会的>戦略として考えると、五つ目の観点をつけ加えることができる。というのも、この詩が完全な断念をあらわしてはいないと我々は感じるからである。処女である花が引き抜かれる可能性は全くないのだろうか。3,4のへりくだった姿は、(2にふさわしい性質をもつものとして)誰かに1の状況を正してくれるよう暗黙のうちに訴えかけていると受け取れないだろうか。この種の断念は、また、「神秘化の」言葉であり、抜擢のきっかけとして役立つかもしれない。表現された感情は、かくして、無視されても声を上げないので、頼りになるか疑わしい人間の性格を指し示している。パンチカードによる分類ではない微妙なところまでインタビューや質問によって探り当て、ファイルに記録する人事課を想像するかのように、詩人は問題に答えようとするのである。

 

 カーライルについて考えたとき、社会的関係の「神秘」は終始一貫神秘と同一視できることを見た。しかし、それを社会的な気後れといったものにまで弱めると、多分次のように還元されるだろう。富者と貧者が存在するところでは、気詰まりな次の四つの状況のどれかが存在する。

 

富者が富を称賛する

富者が貧困を称賛する

貧者が富を称賛する

貧者が貧困を称賛する

 

このように弱められると、修辞的な状況として得られるのは、エンプソンが想像力のもっとも豊かなあらわれにおいて研究したたぐいの神経質さをもたらすぎこちなさが、いかなる社会的不平等にも存在する、という主張である。

 

 こうした内気さのなかには、例えば、エンプソンが「滑稽なしかつめらしさ」と呼ぶものがある。滑稽なしかつめらしさ、あるいは「しかつめらしいイロニー」は、特権階級の人間がそうした現状に幾分の疑問を感じながらその特権を楽しむというような姿勢である。結局彼はそれを楽しむのであり、つまるところ、彼は放棄ではなく弁解的な反語的複雑さのなかで、疑わしい状況に従うことになる。

 

 文学的戦術としてあらわれたこうした姿勢の分析は、修辞的同一化のもと分類されよう。それゆえ、我々はエンプソンの本に新修辞学の重要な場所を与えることとなろう。とりわけ、牧歌とその変奏についての考察から、イロニーが階級的諸動機を反映すると同時に超越するそのやり方についての手がかりを得ることができる。こうした考察は、我々南部知識人のイロニー崇拝に重要な意味合いをもち、イロニーと非合理性との混合は、いかに「宇宙的な」見せかけをしていても、「白人優位」の諸状況に関連するものとも見なされるのである。

 

 『曖昧の七つの型』でのエンプソンの文学批評は修辞的で、曖昧さに詩的な効果があると分析している。それは「雄弁」についての研究である。しかし、多分、我々はド・クインシーが修辞と雄弁とを<区別した>ことを思い起こすべきだろう。修辞のもとに彼は純粋に文学的な、巧妙な効果のすべてを分類した(修辞的戦略そのものの愛好、単に技術を見せびらかすことに向いがちな「誇示」)。そして、雄弁を感情や情念の切迫に帰したのである。(かくして、オウィディウスの遊戯性に満ちた誇示は修辞の理想的な例であり、デモステネスはその弁舌において雄弁の度合いが高いので失格とされる。)「牧歌」についての本は別の意味で修辞的である。つまり、優位性についての考察という点で。

 

 マルクスとカーライル、カフカと偽ディオニシウスをつきあわせると、エンプソンの本は両者の橋渡しとして役立てることができる。しかし、エンプソンの本にも対となる本を提示することができよう。ヴェブレンの『有閑階級の理論』である。前の章でその社会学的側面を取り上げ、通常考えられていない修辞的動機について明らかにしようと努めたのだが、ヴェヴレンの本は、優位性についての純粋に<象徴的な表現>を中心においているために、厳密に文学的な意味での修辞にも適用される。つまり、エンプソンは階級間の恋愛関係を扱い、カーライルは結婚を、マルクスが離婚を、ヴェヴレンはある階級と自身への魅了を扱っている。