ブラッドリー『仮象と実在』 156

[絶対の観点から示す。]

 

 先に進む前に、同じ問題を全体の側から見ることは助けになるかもしれない。議論のために、全体において、なんらかの魂の状態でないものは存在しないと仮定しよう(第二十七章)。このことから、我々はそれらの魂は実在であるか、少なくとも真実に違いないと結論づけたく思う。しかし、魂は現象と誤りの領域のなかにあるので、この結論は間違いであろう。それらは実在をもつかもしれないが、今のところ実在をもっていないだろう。それらはその個別性が変容し、吸収されるような解決と再構成を必要としている(第十六章)。というのも、すでに見たように、絶対は内容と存在との融合だからである。それは区別や関係などからなる感情の不完全な統一が消散してしまうような上位のレベルにあるものと理解される。「いまここにあるものの存在」あるいは直接的な経験の非限定的な多数性を基礎であり出発点であるものととり、他方において、最終的なものを絶対として、第一のものから第二のもににいたる過程を見てみよう。それは内容が存在との統一から離れ、再びそこに戻ろうとする戦いの場となるだろう。(すでに見たように)直接に与えられたものはすでにして不整合なので、部分的には我々の仮定は間違っているだろう。(1)しかし、自らを導くために、経験の「事実」が真であり、繰り返しではあるが、その上に絶対がより高い実在を有しているとするなら--魂はどこにあるのだろうか。ある瞬間に与えられるのであるから、魂は直接的な経験ではない。魂はまた、あらゆる存在と内容が完璧に統合したものでもあり得ない。それは明らかであり、もしそうなら、魂は誤りと現象の中間にあるはずである。それは一方に到達しようとするある極端なものの観念による制作であり、非常に低い段階にとどめ置かれ、なんの防御もない根拠の上に宙づりにされている制作物である。それゆえ、絶対における魂の多数性は現象であり、その存在は真性のものではない。そして、内容が観念的な完璧さに這い上がろうとし、魂はそれ自体においてたかまり、それを超えようとするが、そのものにおいてはより低い現実のレベルに近い。存在と内容との最初の一時的な統一は、魂においては、それほど深く壊れ破壊されることはない。それゆえ、時間系列に位置づけられる諸事物としての魂は、事実であり、実際に存在すると言われる。いや、ある意味において、すべての現実はその存在に依存しているのである。より高次の過程は、こうしたより低次の結果との特殊な関係によって働いている。かくして、それ自らの過程を動くことによって、魂独自の道筋に影響を与えているのである。かくして、あらゆるものは魂において生じ、あらゆるものは魂の状態である。この経過は必然的だと思われる。しかし、他方において、これを絶対の側面から見ると、自己矛盾が容易に見て取れる。一貫性と真実を得るためには、その特殊性を消し去り、融合と再構成がなされねばならない。身体と同じように、魂はそれ自体では、現象以上の何ものでもない。

 

 

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 このことをより明確に理解するには、円環の迷路に入り込むことになる。身体が自然に対してあるように、他方において自然は身体と関係をもち、違ったやり方ではあるが魂とも関係をもっている。思考は魂の状態であり、それゆえ魂からできているのであるから、この側面においては、魂は思考の産物である。時間において存在し、「諸状態」を有する「事物」は、観念的な構築物によってできあがっている。しかし、この構築物そのものが心的な中心に依存し、単にその「状態」として存在するように見える。これは悪循環のように思える。身体は魂に依存しており、というのも、その全体は感覚を通じて得るもので成り立っており、同一性は観念的な構築物によってできている。だがこの制作物は魂における出来事として生じ、さらに、魂は身体との関係においてのみ存在する(1)。しかし、我々がこうして円環のなかを回り、探求が元のところに押し戻されたところで、我々は未知のものと未知のものとの関係しか見いだせない--この結論は確かである。我々は現象の領域におり、そこでは内容と存在が分裂し、ある配置はあらわれているかもしれないが、それは実在ではない。こうした理解の仕方は宇宙の本性によって強いられるものであり、絶対に対して自らの価値を持っていることは確かである(第二十四章)。しかし、それ自体においては、我々にあらわれてくるときには、それらは現象以上の何ものでもない。我々の知る限り、不整合な構築物でしかない。そして、我々の知識を超えたところでは、それらはすぐさま自らを乗り越える。根底にあり上位にある実在、どちらの場合でも、それを身体や魂と呼ぶ権利はない。というのも、より以上のものになることで、それぞれがそうした称号を得る権利を失っているからである。端的に言って、身体と魂は現象的な配置であり、出来事の構築された系列のなかでふさわしい場所を得ている。こうした性格においては、それらはどちらも擁護しうるし、必要でもある。しかし、どちらも最終的には真ではなく、現象でしかなく、他方を助けを借りなければ事実を名乗る権利もない。

 

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*1:

(1)第十五章、十九章、二十一章参照。

 

*2:(1)ここでは身体のない魂の可能性については否定している。340ページを見よ。