ブラッドリー『仮象と実在』 157

[反論を論じる。(1)もし現象的なものなら、魂とは有機体の単なる付属物なのだろうか。連続性と配置の問題。魂の理想的な構築。]

 

 我々はここまで、魂と身体がどちらも現象的な構築物であることをみてきたが、次に両者の関係を追わなければならない。しかし、根拠を明瞭なものにするために、最初にいくつかの反論を処理しておこう。(1)魂を現象ととらえることには、魂がそれによって独立した存在を失ってしまうという反論があろう。それが心的な出来事の系列に過ぎないなら、不変の身体の付属物となろう。心的な系列については、のちに示すように、連続性をまとめるような固有のものなど存在しない。事実は、連続的でもないのである。また、我々が「傾向」と呼べるようなものも示しはしない。それゆえ、現象的なものだとすると、魂は身体の形容物へと沈み込んでしまう。(2)別の側面から見ると、心的な系列はその条件として、超越的な魂や自我を必要とし、それがなければ理解不可能になるとも論じられる。(3)第三には、心的事実は現象以上のものを含み、我々が下した魂の定義は間違っている。この三つの反論に何らかの形で答えねばならない。

 

 1.のちに魂を単なる身体の形容として扱うことが不可能なことは示すつもりであるから、その点についてはいまはなにも言わないでおこう。「しかしなぜ」と私は問われるだろう、「少なくとも身体に助けを求めないのか。なぜ魂を心的なものに限定して定義するのか。魂は、その時々ある有機体の内部で経験された心的な事実とといった方がいいのではないか。」私は否定的に答えざるを得ない。そうした定義は、心理学においてはおそらく我々を間違った方向に導くことはないだろうが、にもかかわらず不正確で擁護しがたい。というのも、低次の有機体では特に、単一の有機体の限界を定めることは容易ではないからである。さらにまた、我々はおそらくは単一の魂との関係において有機体を定義することを望んでいる。もしそうなら、悪循環のなかに落ち込んでしまう。繰り返しになるが、魂と身体の同一性が一致することは確かでさえない。我々はひとつの魂がいくつもの連続した身体をもちはしないことも確信はされないのである。いずれにしろ、我々はひとつの有機体がひとつの魂だけで有機的に働くことさえ知らないのは確かである。同じ身体のなかであるときひとつ以上の心的な中心があることもあり得るし、いくつかの身体がより高次な未知の魂の諸器官であるかもしれない。たとえこうした可能性を単なる理論的なものとして無視するとしても、精神的な病という事実を扱わねばならない。少なくとも、ある場合には魂が連続的な統一をもっている、あるいはそれは厳密に単一と呼べるものだということは疑わしく思える。そして、最終的に疑問は残り、有機体は魂が存在するあらゆる場合に必要なのかという問題に戻ることになる。これでおそらくは、魂の定義に身体を導入することを拒む我々の論旨が正当化されただろう(1)。

 

 

*1

 

 しかし、この導入部がないとすると、魂はどうなるのだろうか。我々は問われることだろう、「魂が存在すると言えるときそれは何であり、特になんら心的なものが存在しないときにはなんなのか。魂の性質や獲得された傾向はどこに位置づければいいのだろうか。というのも、第一に、心的な系列は途切れないものであり、第二に、性質とは心的な出来事ではないからである。身体を連続した下部の層として無理矢理に戻そうというのか。」これは深刻な反論であり、我々の答えは十分に満足できる証明でなければならないだろうが、どんな答えも満足できるものではないと思われる。

 

 私はまずある原理、あるいは私にはそう思われる連続性に関する偏見を否定することから始めねばならない。真の存在は(と我々は認めねばならない)、存在するかしないかである。それゆえまた、時間のうちにある場合は、消え去ることも再びあらわれることもできず、連続的なものでなければならないことを私は認める。しかし、他方において、我々は実在は時間のうちに存在するのではなく、単にそこにあらわれるのだと証明してきた。我々が時間のうちに見いだしたのは単なる現象である。そして、現象に関しては、なぜそれが同一性を手放して消え去ったり再びあらわれたりするべきではないのかその根拠はわからない。ある現象Aはある諸条件によって生みだされるが、その条件は変更される。そこにおいてこのAは全体的あるいは部分的に存在から離れるが、別の変化においては、部分的あるいは完全な形であらわれる。諸条件のなかに消え去ったAは自らの存在に固執する必要はない。ふさわしい条件が再び整ったときに、Aはまた存在することになる。もしそうなら、我々はAの同一性は消え去ったのだと主張しているのだろうか。それがどんな原理によっているのか私にはわからない。あるいは、少なくともある期間において、Aが存在するとは言えないと主張すればいいのだろうか。しかし、それがなにを根拠にしているのか明瞭だとは思えない。虹、滝、水が氷へと変化することなど一般的な例を取り上げてみても、便宜的以上のどんな原理を見いだそうとしても無駄に終わる。我々は、物質的な諸原子とその運動が変更することなく続き、もしそれが壊されれば、存在も完全に破壊されてしまうだろうことは確かだと感じている。しかし、誤ってそうした原子とその運動が究極的な実在だととることがないならば、ここでも実際的な効用性以上の根拠はないのである。ここでも、「潜在的」といった安易な信念に落ち込もうとするものがいるだろう。しかし、原子が背後に残されるやいなや、我々はなにか原理をもっているふりをすることさえ可能なのだろうか。我々はその諸原子が存続していることを想定しないにもかかわらず、ある有機体を同一だとする。その性質が(多かれ少なかれ)同一であり、その性質が(多かれ少なかれ)いつでもそこにあるゆえに、同一だとされるのである。しかし、なぜそこに間隔のあくことが致命的となり、明証性から遠く離れることになるのだろうか。事実、我々はいかなる合理的な根拠もなく議論し結論することを強いられている。時間における存在が現象として知覚されるや、なぜそれが終わり、再びつくりだされてはならないのかなんの根拠も見いだすことはできない。物質でさえ存続するとは想定されていない有機体では、我々はいかなる原理からでも離れることができるように思われる(1)。

 

 

*2

 

 先に進む前に、注意しておいた方がいいさらなる点がある。我々は前の章で、自然の部分はほとんど現実的な存在をもっているとは言えないことを見た。その幾分かは(少なくともあるときには)単に仮定的である、あるいは潜在的でしかないように思える。私はここではこの考察を有機体に関して追求してみようと思う。私の身体は連続的に存在しているために実在である。しかし、他方において、存在が現実的なものに違いないとすれば、それを連続的と呼べるのだろうか。私の身体の本質的な諸性質は(それがどのようなものであれ)、我々の知るかぎり、常に知覚されているわけでないことは確かである。しかし、もしそうなら、ときに知覚によって存在せず、思考にしか存在しないとき、それがそうしたものとして存在しないことがあるのは確かであり、それゆえその連続性は途切れることになる。かくして、我々はもうひとつの非常に重要な承認を余儀なくされる。我々はなぜ時間における連続性が本質的ではないのかについて無知なばかりでなく、有機体があるかぎり、それがそうした連続性をもっていることを知らない。むしろ、潜在的に、単にその条件においてのみ存在しているかに思える場合もある。これは次の章で我々が論じることになるたぐいの存在であり、いずれにしろ現実的、また厳正な意味での存在ではない。 



 こうした一般的な発言の後で、我々の魂についての見方に反対の難点に向かうことができる。我々は魂を心的な出来事の系列と定義し、もしそうなら、我々はある時点において魂とは何であるか言えないと反対される。しかし、ある時点における魂とは、心的事実という現在の資料と、現実にあった過去と仮定的な未来を加えたものだと答えられる。あるいは、最後の一節が説明されるまでは、魂とは現在あり、これまであった心的出来事であるということで満足される。そして、この考え方では、現在ない、究極的な真理に関して表現し形容される性質はまったく擁護されないことになろう。しかしそのとき、魂はそれ自体は究極的な事実ではないと繰り返さねばならない。それは現象であり、そのいかなる記述も不整合な部分を含んでいるに違いない。そして、たとえば、何かある対象を一定の割合で進む物体であり、過去や未来だけで現在については触れることなしに定義するよう求められるとしよう。もしそうしようとしても、おそらく彼は確信をもてないだろう。

 

 しかし我々は、「気質」として意味するもののことをいっているのではない。結局のところ、魂は生まれつきのものではなくとも、少なくとも獲得された性格を持っている。それは我々が期待したものであり、現にあるとおりのものであると言えることは確かである。魂の習慣と傾向はその本性に本質的であり、他方において、心的な出来事たり得ない。それゆえ(反論が続けば)それらは心的なものでは全くなく、単なる物理的事実となる。この点については、まず、ある気質は「物理的な」ものでもありうること、にもかかわらず、現実的な事実ではないかもしれないと答えられる。いかなる過去や未来との関わりも排除され、仮定的あるいは潜在意味合いから自由なものと定義されるまでは、それを物理的事実として翻訳することは許されないだろう。そして、その場合でも、我々は便宜上どこにおいても「仮定的であること」を使う権利を持っていると私は考えているので、この翻訳を受け入れないだろう。この言葉の正確な意味を探るのは次の章になろうが、ここでは簡単にそれが魂にどう適用されるか見てみよう。魂がある種の傾向を持っているというとき、我々は現在と過去の心的事実を主体と見なし、この主体に結びつく可能性のある心的な事実を述語として加える。現在の魂とは、それ以外のすべてを与えると、ある心的な出来事を生みだすかもしれない諸条件の一部である。それゆえ、暗闇のなかの対象が色彩の可能性であるように、魂はそうした出来事の真の可能性である。もちろん、こうした語り方は最終的には不正確であり、便宜上という意味においてしか擁護できない。事実が現在こうであり、過去にこれこれであるとき、未来においてはこうなるだろうと端的に言うのは便利である。しかし、我々は魂の現実的な諸性質として傾向について語る権利はない。そうした試みは、主体により多くの条件を取り入れることになり、最終的には宇宙そのものになることを認めることになる(1)。魂であるとは言えないが、それについて判断だけはできるものを述語づけることが任意の行為であり、不整合であることを私は認める。しかし、現象を扱ういたるところにおいて、我々は不整合や任意性から逃れられないことを見いだすのである。我々がある心的傾向を心的出来事のあり得べき行程以上の意味ととるなら、そうした悪徳を減らすどころが大いに増加させることとなろう。

 

*3



 しかし魂は、心的な系列に間隔や断裂があるので、時間において連続的ではないことを思い起こすことになる。このことを否定するつもりはない。確かに、無意識的な感覚に立ち戻り、いかなる場合でも常に、それらはある広がりをもってそこに存在すると主張できる。そうした仮定は、ほとんど真理ではないと示すことはできないだろう。しかし私は、どんな十分な根拠に基づいてそれを正当化できるのかわからないし、心的な系列は現に断裂しているか、いずれにしろ断裂する可能性があることを認めるだろう(1)。

 

*4

 

 しかし、他方において、裂け目を認めることはまったく重要なことではないように思える。私には、魂の存在が途切れて再開するにしても、なぜ同一のものであってはならないのかその理由を見いだすことができない。記憶の問題は別としても、そうした分裂した存在が同じ性質を示すとき、我々はそれを同一と呼ぶだろうし、もしそれを拒否するとしても、それを正当化するような理由を見いだすことはできないだろう。いずれにしろ、断裂の間にも魂はどこかで生きていたのか、ともかくこの中断はさほど長いものではなかったと主張することになろう。しかし、私の見る限り、どちらの場合も根拠なしに主張することになろう。他方において、質的な同一性は、心的な同一性を欠いていても、どんな原理においても固定されないように思える(第九章)。そして、我々が引きだしうる唯一の結論は、時間的な系列における断裂は、それを単一の魂と見なす我々の見方に反対する議論とはならないということである。

 

 「その合間には」と私は尋ねられるかもしれない、「魂は何であるというのか」と。私としては、それがあらわれていないときには、あるということは全くないだろう、と答える。私が厳密に主張できることのすべては、それはかつてあり、再びあらわれるかもしれないが、現在のところ魂は存在しないということである。こう主張するだけで、我々は非存在の合間にたいする確かな反論を見いだすことはできない。しかし、厳密には語らないのだとすると、実際的な便宜のことだけを見ると、それらの合間にも魂は存在し続けることを肯定できる。それは諸条件のうちに消え去り、また再生産されるだろうとも言える。そして、身体はこうした諸条件の主要な部分なので、我々は「潜在的な」魂を身体と同一視するのが便利だとわかる。それは便利かもしれないが、実際には不正確であることを覚えておかねばならない。というのも、第一に、諸条件はひとつのことであり、現実的な事実は別のことである。そして、第二に、身体は(どんな仮定に基づくものであろうと)魂を必要とするような諸条件ではない。それは状況の動きを完全に排除することは不可能である。そして、第三に、強調しておかねばならない考察がある。魂はそれを修復するものに変じ、消え去るのだとすれば、身体についてもまさしく同じことが言えないだろうか。魂が「仮定的」であるような合間に、身体も後にそれを再生産する諸条件のうちに溶解するとは考えられないだろうか。しかしもしそうなら、我々が想定する現在の魂が存在する隠された諸条件は、厳密には身体では全くないことは確かである。事実を言えば、疑いもなく、この出来事は我々の知識のうちでは生じない。身体が消え去り、再びつくりだされるのを見ることはない。しかし、この根拠においてだけでは、我々はそれが可能であることを否定する権利はない。そして、それが可能なら、次の結論も主張するかもしれない。便宜のためという以外に、魂の諸条件と身体とを同一視することはできない。そして、身体の連続的な存在が、魂の同一性と統一に本質的に必要だと主張することもできない(1)。

 

*5

 

 我々は魂の連続性の問題について扱い、その「心的な傾向」についても幾分か述べた。別の種類の反論に移る前に、ある誤解を未然に防いでおこう。魂は観念的な構築物であるが、誰による構築物なのだろうか。我々は魂はそれ自体のためにのみ存在すると言えるのだろうか。魂は記憶が存在する前にもあり、いまだ記憶の働きがないときにもあると言えるので、それは確かに間違いであるかもしれない。魂は常にある魂に対して存在し、常にそれ自体のためにあるのではない。それが観念的な構築物であるのは、心的だからではなく、(私の身体のように)時間においてあらわれる系列だからである。同じ難点はあらゆる現象的な存在に付随している。過去や未来、それに自然は、何人かの主体がそれを考えるだけであり、誰も知覚はしないものであっても(第二十二章)そのようなものとして存在している。しかしこのことは、その究極的な実在が思考されることから成り立っている、あるいはそれらが有限な魂の外側に存在することを意味するものではない。また、実在が実際の現前に単に思考を付け加えることでできあがることを意味するのでもない。時間における直接的な経験と思考とは、虚偽のあらわれだけで互いに似ており、一緒のときには、どちらも自分に特有の性格を先立たせねばならない。絶対においては、ある瞬間における単なる存在も、観念的な構築物も存在しない。それぞれがより高次のすべてを包含する実在に融合されている(第二十四章)。

*1:

(1)ここで、なぜ私が「個人的な」あるいは「個人的な視点」という一節を「魂」の定義に使うことができないのか言っておいた方がいいだろう。個人的な視点から経験のある中心を見るとは、それを心的な出来事の系列としてみることを意味するだろう。しかし、もしそうなら、その意味は単に意味されているだけで、言明されていないことは明らかである。「個人的な」という語は欠けたところがあると同時に過剰なところがある。というのも、それは「モナド」や「自我」を意味しうるからである。その場合、魂は再び現象以上のものとなり、その多数性と一つのモナドとの関係を手にすることになる--すでに見たように、その難点は超えがたい。他方では、「個人的」は魂の内容が、いかなる意味においても、その個人的な存在を超えないことを意味している。端的に言って、この語は、それを使って定義する対象と同じく、定義が必要とされる。

 

*2:

(1)同一性の問題については以後の部分も参照のこと。また、第九章と比較せよ。

 

*3:

(1)このことについては後の章で説明するつもりである。

 

*4:(1)無意識の状態を「心的傾向」を説明するのに用いるのも、私の意 見によれば、擁護しがたい。付け加えれば、適切な限度内において、心 理学は無意識的な心的事実を用いるべきだと私は思う。

*5:(1)魂が単なる身体的条件の帰結であるとどこまで言い得るのかにつ いては以下で考察している。