ケネス・バーク『動機の修辞学』 36

.. 位階の隠喩的な見方

 

 もう一度試してみよう。(直接にあたることはしない。最上のやり方は、どんな機会でも捉えて、同じ中心に向かい異なった接近方法を試してみることにある。)

 

 「高次」と「低次」の存在による位階の原理、ダーウィンの進化論やマルクスの社会進化の教義に見いだされる原理による神話を想像してみよう。この神話によれば、あらゆる生物は海からでてきたのであるから、海が彼らの故郷である。言うなれば、彼らは海に対して郷愁を抱いている。生理的には、この切望は「栄養不良」にあらわれる。つまり、海にあり海から取れる食物だけが海から生じた生を養うことができるというわけである。それゆえ、鳥や陸生動物、とりわけ内陸に住んでいるものは、完全な「生物学的飽満」を得ることは決してない。これに従い、できるだけ生の海産物で生活しようとする教団が生まれる。しばしば海に入り、身体の穴という穴を海で満たそうとする。えら呼吸によって海と同化する能力を失ってしまっている陸生動物は、その部分的な補償として、常に波しぶきを吸い込むようにし、海水を血に混ぜる実験をし、海の生物からつくった乳液や膏薬で怪我を治そうとするだろう。

 

 この神話は二重に「退行的」である。この神話に従えば、子供の胎内回帰願望はそれに先行する動機、海への回帰願望の写しに過ぎない。子宮は胎児に対してある種の内的な海の環境をつくりだすことができるが、海が内的な子宮をつくりだすことはない。子宮は海をもつことなく、海をつくりださねばならないのである。ここにも欲求不満があり、身体の「原理に従って生活する」試みに対する生物学的な干渉がある。というのも、位階の原理はどちらの方向にも同時に働く限りにおいて完全なものだからである。それは単に、高次から低次への、低次から高次への、前から後ろへの、後ろから前への関係ではない。例えば、位階原理は、それぞれの地位が下の地位にとって重い負担であり、下の地位はそれに更に重い負担を重ねるといった社会の仕組みでは完全ではない。それぞれの地位が「等級の原理」を受け入れ、原理を「普遍化し」、実際の物質的な等級と同じくらい意味深い精神的な<逆方向の>等級をつくって始めて完全なものとなる。

 

 最初が最後で、最後が最初だというキリスト教の教義は、しばしば、神学的な用語によってほのめかされた社会改革だと解釈されている。しかし、いまの観点から見ると、その修辞的訴えをより迂遠な弁証法として解釈することができる。つまり、最初と最後は天上にあり、<原理の>領域にある。この状態では、(<論理的に先行する>ということが神秘的に言い換えられ)社会的地位の逆転は、実際の世俗的な秩序と同じくらい意味がある。このレベルにおいては、すべてが位階の、水準の、発達の、展開の、それら<そのものの>原理に帰せられる(弁証法的原理一般は、発達のいかなる個別例にも「先行する」ものであり、世界が始まる前の、世界が終わった後の、あるいは時間の外側にある天上の社会のものとして神話的に言いあらわされる)。固有の性質をもつ世界にこうした逆転可能性を導き入れることは政治的、社会的な革命を意味し、普遍的原理が支配する「エデンの」世界が皮肉にもばらばらの性質と財に分解した<現状>を凍結することを選ぶか、「液状化」によって秩序の反転を選ぶかの選択に直面することになる。我々は「失墜」のうちにあり、科学技術によるバベルの塔の建設には意思の不通が伴っている。

 

 こうして、海から子宮が生まれ、子宮から子供が生まれ、子供が分業をおぼえ、分業から位階が生まれ、位階から社会的所有についての新たな刺激が生まれる。そしてこのことから様々な姿勢が生まれる。まず、理想的には、愛、博愛によって分裂を克服する試みがある。次に、緊張が高まると、愛からの様々な離反が生じ、僅かに皮肉の入り混じった気後れから始まり、(社会的性的階級が関係する)宮廷作法にまで変容していく。そして、「より高次のレベルで」憎しみを愛に変えようとする悲劇的試みがなされる。そして、最終的には、憎しみと戦争が組織され、分裂が最も進むが、それを補償する新たな統合、党派の<陰謀による>統一が生じ、そこでは「スパイ」が「知性」として通用する。(ここには三位一体の悪魔的な戯画がある。三位一体では神が力の源であり、息子が光をもたらし、聖霊が愛を贈るが、陰謀による党派の統合では、戦争兵器が力であり、密偵が光を運び、戦士と陰謀家の共同作業が愛なのである。)

 

 しかし、我々の神話は物事の半分しか言っていないのではないか。海そのものが分裂の寄せあつめではないだろうか。その最初の住人が海の向こう側の海からの、海の分裂に携わった者であり、既に「原罪」のしるしを受けているのではないだろうか。そして、自分たちの特異性に誇りをもち、郷愁に駆られながらも陸に住むことを選んだ者たちは、住みかである海が争いの場となっているために、海からの別れが新たな渇望となり、海からの進化が約束されたものに思われたがために陸に上がったのではないだろうか。海の迷宮から啓蒙に向かっているとき、どうしてそれがデトロイトの工場の効率を上げ、原子爆弾や細菌戦争に向けての第一歩なのだと知ることができよう。彼らは、分裂が「愛」という名の下に理想によって覆われる、あるいは、様々な補償作用に結びついて反語的にあらわになったり、あるいは連続性が絶たれ、戦争や憎しみや陰謀が生まれ、陰謀者同士の分裂を覆い隠す新たな用語として「愛」が生みだされるといった「修辞的状況」にまだ直面していないのである。

 

 こうして、社会が子供に帰り、子供が子宮に帰る、子宮が海に帰るという神話は更に遡り、あらゆる分娩に先立つ力の神話に行き着く。分裂した存在は、分断によって生みだされた個別の財にまだ誇りをもてていない。分断はいまだ「啓蒙」の段階に過ぎない。

 

 光をもたらす神の子という考えは、その本質において、全体の部分への分裂は啓蒙であることを示唆しており、その原理を弁証法的に述べれば次のようになる。分割は<関係>をもたらす。各部分が互いを注釈するようになる。「愛し合う」関係は敵対的な関係に「失墜」することもあり、それは弁証法的に「より高次の」関係に還元されるまでは解消されない。(位階や対立する体制が共通の地盤に還元されるときに反転は可能になるが、通常見うけられるのはぞんざいな議論で、対立する者同士がところを変え、それぞれ自分の立場を支持するために相手の議論を乗っ取ろうとする。)

 

 さて、我々はどこにたどり着いたのだろうか。最も根源的な革命を経験するまでは、源泉への回帰がない限りは、人間は所有を巡る局地的な戦いを解決することができないということだろうか。所有を巡る戦いと分裂は我々に固有の性質であるから、こうした神話によって<現状維持>を正当化し、個別な戦争が「不可避」である論拠として援用しようというのだろうか。我々にはそんなつもりはない。しかし、こう言う程度にはこの神話を真面目に捉えている、つまり、それは<弁証法的人間>がいかにたゆみなく遡るかを我々に思い起こさせてくれるし、功名心の批判の上に人間社会全体が打ち立てられるまでは、所有や位階についての我々の洞察がいかに不可欠であるかを示唆するのである。

 

 例えば、そのパターンから見ると、マルクスの社会革命についての見方は、アレオパゴスのデュオニシオスの天上地上の秩序についての考察よりも位階的ではない。そして、<いかなる>位階の原理にも最高と最低が逆転する可能性が含まれているので、地位を道徳化することは革命的な表現、スケープゴートをつくりだす。スケープゴートは、同一化と疎外という相反する原理が一つの形象に結びつけられ、弁証法的に訴えかけるものとなっている。また、位階原理を党派に分割するので、儀式として満足のいくものとなる。それぞれの党派が他の党派を非難の言葉を盛ることのできる不潔な容器、<カサルマkatharma>として使うことができるからである(それによって自らを道徳的に「守ろう」というのではなく、他の党派を「口説く」ことができると密かに気づいているとき、その行為はより熱狂的になる)。このことが行き渡ると、人間を分け隔てているのは相違だけではなく、「美徳」であれ「悪徳」であれ<彼らが共有する要素>であり、同じ動機が称讃にも非難にも使われ得ることとなる。

 

 位階の原理そのものは体系的な思考に不可欠なものである。それは成長の過程にも具体化され、若者と年寄り、強者と弱者、男性と女性、見習いから熟練を経て親方となる職人の段階とも同じ意味をもつ。しかし、最後の例は、階梯の「自然さ」が修辞的に特権を守る助けとなることも示している。本質においては発達していくはずのものが、次第に固定した社会的階級に変わり、その存在理由である発達の過程そのものが干渉を受けるのである。

 

 位階が不可避だと言うことは、なんらかの個別の位階が不可避だということではない。位階の崩壊はその形成と同じく位階についての真の事実である。しかし、位階の原理がよく発達した人間の思考に固有だということは、弁証法的対称の修辞的な訴えかけについて非常に重要な事実を述べている。そして、事態が別な方向に動いたときの可能性を問うことなく平等について語られるのを聞くとき、我々が自問するのは、「この平等において、位階の原理はどう働いているのだろうか」ということである。

 

 <位階>は排他的だが、位階の<原理>はそうではない。すべての地位はそこに「同じように加わる」ことができる。しかし、それはまた目的論的な傾向をもっており、「頂上」や「最高点」は完全な「観念」を最もよくあらわす「イメージ」として扱われる。これは分裂状態を覆い隠す「神秘化」に導くもので、というのも、位階の「普遍的な」原理は、位階の最もかけ離れた者でも、世俗的な所有の領域において、固有の特権を享受できるという原理でもあるからである。宮廷作法と悪意の間には中間の反語的な領域がある。直截な反対の立場にあるとき、それぞれは相手と共有していた要素を否定し、抑圧し、祓い落とそうとするだろう。この試みがスケープゴートへと導かれる(自分自身の特徴を非難の言葉として使うことで、「異なった」階級をあらわす)。