ブラッドリー『仮象と実在』 158

[(2)この系は超越的な自我を含むのだろうか。]

 

 2.我々は魂を現象としてみる見方が、それを身体に依存する隣接物にまでおとしめることにはならないことを見てきた。他の根拠に基づく反論にも答えられるだろうか。心的な系列は、その条件として、なにか超越的なもの、系列の上位にありそれに統一を与える魂や自我が必要だと言われるかもしれない。しかし、そうした魂は、我々が以前に直面した難点にさらなる難点を付け加えることにしかならない、と答えよう。現象である諸系列は疑いなく実在の仮象であるが、そのことから実在が自我あるいは魂であるという結論はほぼ導きだされない。すでに見たとおり(第十章)、そうした存在は有限であるので、他の有限物との関係で汚染されている。そして、多数性が単一のうちに一緒になることを拒むので、出来事の系列に統一を与えることからはほど遠い。それゆえ、一なるものは、さらなる有限な一団として多なるものの外部にあり続ける。諸系列が魂のなかでどうやってひとつの体系になるのか示すことはできない。できたとしても、ある有限物が他の有限物と関係するという困惑した立場から魂を自由にすることはできないだろう。つまり、形而上学的には、魂や自我は混乱の塊であって、我々はずっと以前にそれを処理し終えている。そして、単なる作業仮説として用いられているだけで、真実であることを主張しないというなら、すでに見たように、この概念は形而上学では働かないだろう。申し立てられている働きは心理学や経験科学に限定せねばならず、それゆえそのさらなる考察はここでは関係がないことだろう(1)

 

*1

*1:(1)別の場所でなら、この問題に立ち入る用意はできている。心理学 において、魂、自我、意志など出来事の背後にある活動がなにも説明し ないと示すことは困難ではないと私は思う。それは間違った説明を生み だすだけであり、実際には説明されないままになっているものをぼやか すだけである。