ケネス・バーク『動機の修辞学』 37

.. ディドロの「パントマイム」論

 

 我々の神話の観点から、ディドロの『ラモーの甥』で「私」と「彼」の間に交わされる、ほとんどヒステリー的とさえ言える才走った対話の「謎めいた」性質についてみてみよう。この混乱と鮮やかなまでの倒錯の理由はすぐに明らかになるのではなかろうか。社会哲学者として、ディドロ政治的主張の対立にとどまることでは満足できなかっただろう。王制からブルジョア的自由への動きに好感をもっていたが、全盛期における封建主義的位階の原理を体系的な哲学として締めくくりたいとも思っていただろう。だが、彼はあまりに啓蒙されていたので、そうした形に最適な現実的場を考えることができなかった。それゆえ、最も深いところで、彼は欲求不満を感じていただろう。王が対称的な言葉によって「飾られている」限り、王に対立するディドロは幾分<自分自身>に対立することになる。

 

 もちろん、より実際的で複雑な事情もある。彼は投獄の脅威のもと執筆していた。この意味において、対話形式の選択は修辞的に動機づけられていたと言える。自分の考えを「彼」と「私」に分けることで、著者は「彼」の声に明敏で危険な意見や態度をまかせ、「私」はそれになんとかついていくが、説得力をもって論駁することはできない。しかし、ここには検閲の裏をかくといった実際的必要によって説明できる以上の、より深い、食い違った目的の働きがある。そこには<内なる衝突>があり、あまりに規律から外れているので、次の文章につながりがつかない場合もある。

 

 対話の分裂は隠されてもいれば明らかでもある。隠されているというのは、著者自身が彼と私の役割に分裂していて、互いに率直でもありよそよそしくもある曖昧で洗練された関係で向き合っており、その「立場」の相違にもかかわらず近しさを示していることである。次に、「彼」のなかにも分裂があり、そのため「彼」の芝居っ気は極限にまで増幅され、感情の振幅は常に役者のように過剰に表現される(この本には同時代のオペラについての論争が編み込まれており、遠回しにであるが、革命の意味合いを含んでいる)。分裂は、役所を変わるごとに衣装を変える官僚について考察する段になると更に増幅される。「彼」の犬は<家畜一般の>習いとして忠実だが、<司法大臣>としての「彼」を見ると怯える(恐らくは犬も階級の「神秘」を感じとることができるのだろう)。そして、著作は、カーライル的ヴィジョンの反語的なレプリカでもって終局を迎える。しかし、この作品では階級のシンボルとして、衣装の代わりに<身ぶりの姿勢>が使われている。

 

 そのスタイルについてのエッセイで、ド・クインシーは初期の英国社会を活気づけた喜劇の仮装について述べているが、そこではすべての職業がその衣装によってはっきりと区別されていた。このことは、カーライルの「衣装」とディドロの「身ぶりの姿勢」とを橋渡ししてくれるだろう。しかし、その至る所に「神秘」のしるしがあるにもかかわらず、ディドロはそれをむしろ教会での笑いのようなものとしてあらわしている。「身ぶり」ということで彼はほぼ追従を意味している。しかし、いかに反語的ではあっても、こうした上品な言葉を選んでいることに「宮廷風な」戦術の痕跡がある。

 

 身ぶりについての議論は、対話の終り近くにあらわれる。「彼」は感覚的欲望一般、そのうちでも特に空腹について語る。次に「彼」は貧困について語り、遠くから「人間という種族の様々な身ぶり」を眺めることについて語る。半ば理性を失った即興的な言葉で、「彼」は見事な結論を導きだす。「Voila ma pantomime,a peu pres la meme que celle des flatteurs,des courtisans,des valets et des gueux.」著者はこの点を引き継いで言う、「私は高位聖職者にパンタローネを、首相にサテュロスを、修道士に豚を、大臣に駝鳥を、官吏に鵞鳥を見る」と。(この個所は、「組織的な感覚の錯乱」がいかに物事を幻視に変えるか記されたランボーの『地獄の季節』と興味深い対比をなしている。ランボーでは、歪曲はより気ままであり、より「美的」に思える。社会への言及は背景にまで退いている。しかし、ディドロでは、「神秘」の社会的意味が体系的に明らかにされる。)

 

 「彼」は言う。「まっすぐ立って歩いているのは一人しかいない。国王だ。残りはそれぞれの姿勢をとっている」と。「私」は答える。

 

 他人を必要とするものは貧しく、なんらかの姿勢をとるものだ。王だって奥方の前や神の前ではある姿勢をとる。ちょっとした身ぶりをね。大臣は王の前ではご機嫌をうかがい媚びへつらい、従者とも下男ともなる。大臣の前ではもっと忌まわしい、野心に満ちた無数の身ぶり手ぶりが行なわれるのさ。

 

 

 

そして次のように結論される。「Ma foi,ce que vous appelez la pantomime des gueux est le grand branle de la terre.」

 

 「私」が言うように、「彼」は様々な役割で踊っている。続いて「私」は、ディオゲネスのような身ぶりなしでやっていけた哲学者について述べる。しかし、「堕落した身ぶりで踊り、これからも踊り続けるであろう」「彼」はディオゲネスのようではない。「彼」もそれを認め、身ぶりの世界からの避難所であり、そこから最もかけ離れた「一種の哲学者」であり「ああ、あのお尻」をもった亡き妻のことを涙ながらに思いだす。

 

 ディドロが「彼」と名づけた人物のこの側面は、間接的に王をあらわしていると言える。というのも、「彼」は位階原理の無秩序をあらわしているが、それは王をあらわすことでもあるからである。多分「彼」には「ルイ」の地口が隠されている。いずれにしろ、「彼」には<ルイ>金貨の貢ぎ物があり、「私」が「<ルイ金貨>に深く侵された」存在について語り始めると、「彼」はそれを遮り、「わかっている。我々はそれには目を閉じねばならない」と言うのである。

 

 自分に課せられた条件について批判をまったく受けつけない限り、ピラミッド型の調和への欲望を満足させられないのであれば、「彼」もまた、ディドロの内部の無秩序をあらわしているに違いない。そして、実際がいかに悪かろうと、晩年のコールリッジのように、ディドロはそれを観念的に捉え、教会や国家を「それぞれの観念に従って」解釈している。彼は不完全なイメージの背後に完全な形式の喜ばしいヴィジョンを作り上げることができた。こうした仕組みがディドロの特殊な<身ぶり>であり、王、枢機卿、王の大臣、王の大臣の書記長の前での踊りであったのだろう。こうした状況でそうすることは、ある意味堕落であろう。しかし、それを拒むことは、社会哲学者として自らの想像力がうち建てたものに不満を抱くことであり、別の意味での堕落となる(多分、百科全書の仕事が、この対話編のようなわがままな作品の良き代用品として役立ったのだろうが)。

 

 要約すると、「彼」の性格には、無秩序の「王に由来する」<原因>とそれによる堕落の<結果>が収斂している。彼は堕落しているが、想像的に、とりわけ<貴族的に>堕落している。彼は見事に<知性の放蕩devergodage d'intelligence>(ある編者によれば、精神の「溢れだし」)、悲惨さ、王をいただき病んだ社会の紛れもない身体的飢餓を同時にあらわすことができる。混乱は、どれだけ倒錯していようと、貴族の「神秘」と混じり合う犯罪の美学において象徴的な統一に達する。「S'il importe d'etre sublime en quelque genre,c'est surtout en mal」と「彼」は言う。ここでは崇高な犯罪が語られている。君主制社会においては、社会的領域での高貴さは美的領域での崇高さに対応することを思い起こすとき、我々は階級の意味を見ることになる。「彼」はディドロのある側面をあらわしているにしても、ブルジョアジーや反王党派的「美徳」をあらわしてはいない。「彼」は貴族的な悪徳、<スタイル>に訴えかける罪をあらわしている。(<階級の>相違が<道徳の>相違になると言ったニーチェを思い起こそう。)同じ表現の異なった形は、スタンダールのジュリアン・ソレルに見いだされる。しかし、「彼」やジュリアンからアンドレ・ジイドの美的犯罪に向かうと、社会への関わりは「純粋な」風俗壊乱の背後にまで後退することになる(この変化は、ディドロの一節をランボーの一節と較べたときに見たのと似た変化である)。