ブラッドリー『仮象と実在』 159

[(3)出来事ではないような心理的な事実は存在するのだろうか。]

 

 3.しかし、出来事の系列としての魂という考え方は、心理学そのものの根拠から攻撃されるかもしれない。出来事以上の心的事実が存在し、そうした事実は我々の定義に反駁すると主張されるかもしれない。私はこの反論を簡単に扱わねばならないが、答えは次のようになろう。出来事以上の心的事実は存在する。しかし、それらもまた出来事ではないなら、事実でもないことになる。二つの命題を順番に取り上げることにしよう(1)。

 

*1

 

 (a)私の心的状態、私の個人的経験は、同時に、あるがままでありながら、それ以上のものでもありうることを見てきた(1)。現前する事実、あらゆる内容、「この存在」から解き放たれた「何という性質」に対してなされるあらゆる区別は、同時に、単なる出来事以上のものである。いや、時間的系列の一成員である出来事そのものが現前する存在を超越することによってのみそれ自身となる。そしてこの超越は、同一の性質が変化する系列において変わらずにあるときにより明らかである。私の精神には、単なる出来事以上であるものに関する存在についてなんの疑問もない。そして、それについて争うどころか、時間におけるあらゆるものはそれ自体を超える性質を持つという結論を主張しようと努めさえする。

 

*2

 

 (b)しかし、もしそうなら、我々は反論の力を認めたことになるのだろうか。時間における出来事ではない事実が存在することを認めたのだろうか。これは重大な誤解となるかもしれず、それに反対するために我々は第二の命題を主張しなければならない。事実、あるいは出来事は常にそれ自体を超えている。そして、それ以下であるなら、もはや正しくは事実と言えない。「この存在」から自由になった内容と捉えられ、その限りで、単なるある側面であり抽象となる。だが、他方において、この抽象は存在をもたねばならない。時間的な系列に場所と持続を与えられ、何らかの形で、特殊な出来事においてあらわれねばならない。つまり、切り離された諸側面は、出来事ではない。だが、それらの側面は心的な存在のなかにあらわれねばならない。

 

 反論は事物のこの二重の性質を見損ない、それゆえ盲目的に悪循環のなかに落ち込んでしまう。我々の生には、出来事以上のものが存在するので、この「以上」は心的な事実でなければならないと性急に論じられる。しかし、もしそれが心的な事実であり、経験され得ないものなら、それがなにを意味することができ、どんな不思議な方法で我々はそれを得たと思うことができるのか私にはわからない。他方において、心的な系列において生じることなしに経験される、あるいは、諸出来事のなかのひとつの出来事であることなしに生じる、というのは意味のない文に思える。我々が経験するのはある内容であり、それは特殊な心的状態とともに、あるいはそうしたものとして生じる。またその同じ内容は、観念として、その状態から切り離せるが、そこにしかあらわれない。それ自体では、それは事実ではない。もし事実なら、観念的であることをやめ、それゆえ、諸出来事のなかのひとつの単なる出来事となるだろう。

 

 物理的なものであれ心的なものであれ、もしある系列の同一性を取り上げるなら、そう考えられる同一性はたまたま生じた出来事ではない(1)。それでは、経験の事実と呼べるのだろうか。厳密に言えば、あらゆる同一性は観念的であるので、そうは言えない。それは、そうしたものとして、諸事実のなかで起こるにせよ、それに沿って、あるいはその間で起こるにせよ、直接に経験されるのではない。それは切り離しては存在できない形容であり、その本質は区別のうちにあると言える。しかし、他方において、この区別は、そして再び、系列の構築は出来事である。それは魂のなかで起きなければならない(2)。それ以外のどこに存在しうるだろうか。単なる内容以上の心的状態として、それはまた心的系列のなかに場所と持続をもたねばならない。さもないと、経験の一部でありえないことになる。しかし、同一性そのものは諸出来事、あるいは出来事の一側面に過ぎず、観念的なのは確かである。

 

*3

 

 「いいや」と言われるかもしれない、「魂の同一性と連続性はそれ以上のものに違いない。与えられたものはすべて不連続であるから、与えられたものではありえない。そして観念的な内容のなかにもありえない、というのも、それでは実在ではないだろうからである。それゆえ、何らかの形で現象に付随し、心的な系列内部の出来事として生じるものではないのでなければならない。」しかし我々がこの主張を考慮するやいなや、その不整合は明らかとなる。与えられたものとともに、いまあるいは常になにかが経験されるなら、それは(何であれ)系列のなかにある場所を、あるいは複数の場所をしめる心的な出来事なのは確かである。他方において、それがいかなる意味においても私の歴史において場所や持続をもたないのならば、それが私の経験の部分をなすことをほとんど説得できないことになる。つまり、どちらの側からか、それが入りそこに場所を得ることが準備されていないなら、どうして何かがそこにありうるのかわからない。そして、それが経験における一要素でないなら、それは何ものでもないだろう。この先入見による教義のため、それを擁護するために、かくも自滅的で不条理な主張をする者がいるかどうか私は疑う。時間における現象は実在ではないから、時間的なものを超えたなにかが存在しなければならない。しかし、もしそれが事物として存在しないなら、何ものも実在ではないと我々は誤って仮定しているので、時間を超越した要素はどのようにかそのそばになければならない。この要素はある世界、あるいは魂、あるいは自我で、我々の系列にまで決して降りてくることはない。我々はそれが働き、それ自体感じられると言わざるを得ないにもかかわらず、決して我々まで降りてくることはない。しかし、この不合理な影響や位置は単に我々の間違った仮定からくるものである。我々は系列を超えようとしているが、結果的には、その一員でないような実在が存在することを否定している。というのも、時間的な出来事をの傍らに存在する我々の他の世界、我々の魂、我々の自我はそれ自体有限な事物に過ぎないものと捉えられているからである。それは単に現象を二倍にし、仮象の世界を二重にしているに過ぎない。それらは以前に我々を困惑させた問題を未解決のまま我々の手に残し、さらなる難点に我々を導く。我々はいまや、最初よりわかりやすいとは言えない別の存在ばかりか、それらの一方が他方にどう向かい、どう働きかけているか説明せねばならない。その結果はあからさまな自己矛盾あるいは無思慮な曖昧さである。救済策は、根拠のない偏見を投げ捨て、事物の存在以上の至る所に実在を探し求めることだろう。連続性と同一性、他の世界と自我、はそうしたものとしては存在しない。それらは観念的であり、その限りで事実ではない。しかし、にもかかわらず、少なくとも時間的な出来事に劣らない実在を有している。我々は十全な意味において、観念も存在も実在ではないと認めねばならない。しかし、ある面における否定から別の面における肯定へと移ることはできない。その試みは間違った二者択一に基づいており、どちらの場合にも自己矛盾に終わるに違いない。

 

 おそらく、退屈ではあろうが、自我についてもいくつかのことを付け加える必要があろう。連続性と同一性が観念的なものであることを理解できないと、現実的な事実として存在する自我を見いだそうと努力することになる。一方において、この自我はどういう具合にか事実として経験されるが、他方においては、出来事のひとつ、あるいは数多くの出来事としても存在するはずはない。この試みは当然ながら、無益である。というのも、すでに見たように、自己が限定されたものであることはほとんど確実だからである。それは常にある内容によって性質づけられている(1)。自我と非自我はいつでも一般的なものではなく、特殊な性格を持つものとして経験される。しかし、そうした仮象は明らかに、系列に場所を与えられた心的な出来事である。それに基づき、次のようなジレンマが主張される。自我が内容を含まないなら、それは何ものでもなく、それゆえ経験されない。しかし、他方において、なにかであるから、それは時間における現象である。しかし、「そんなことはない」というのが答えかもしれない、「自我は系列の外部にあり、単にそれと関係し、おそらくは働きかけているだけなのだから」と。これが我々を助けてくれるとは思えない。繰り返すが、もし自我が内容をもたないなら、どこにあるのであろうと、それは無である。何ものかとこの無との関係、また無の何ものかに対する働きかけはまったく無意味である。しかし、他方において、この自我が内容をもつなら、議論のために、お望み通り、それが存在するとしてもいい。しかし、どんな場合も、それは経験の外部にあり、経験に入ることはない。「いいや、それ自体としては入ってこないだけだ。言ってみれば、個人のうちには決してあらわれない。しかし、現象との関係、現象に対する働きかけは確かに経験される、あるいは少なくとも知られる。」この答えでは立場が変わっているように見えるが、実際には同じであり、我々の古くからあるジレンマにしか行き着かない。いかなる意味においても、関係においてはある項とそれに関連する項もまたもたない限り、知ることも、知覚することも、経験することもできはしない。このことは考えてみさえすれば、自明であることは確かである。となると、現象と何ものかの関係などなにも得てはいないのか、あるいは、他の項、自我は残りのものと一緒にあるかである。それは心的出来事のなかのもうひとつの出来事ということになる(2)。

 

*4

 

 間違った根っこから、(すでに見たように)欠点のある二者択一に基づいて枝葉の方をたどっても無益なことだろう。出来事以上のものは、別の側面からみても存在せねばならず、時間的な系列のなかに、あるいはその一員としてあらわれねばならない。しかし、それが時間を超越する限り、観念的なものであり、その限りでは事実ではない。それがどのようにしてか、時間的なものに沿ったどこかに存在するととることは、それを有限な個物の領域に押し戻すことになる。こうしたやり方でもがいてみても、我々は決して出来事の世界を超えることはならず、出発点のあたりを無益に回り続けることになる。もし我々が全系列を一度に把握し、その細部にまで分割されない全体性を見て取るなら、確かに無時間が事実として経験されたことになろう。しかし、この場合、一方に観念性が、他方に出来事があり、それぞれが存在のより高次の様態において終結を向かえるということになろう。

 

 我々が論じてきた反論は、すべて誤った論拠に立っていることが示された。出来事にそれを超えるものが存在することをみたとしても、出来事でないものはなにも経験されないことは確かである。あらゆる連続性は観念的であり、心的な系列がひとつであることに反対する議論は、すでに見たように、正当なものではなかった。魂を現象的にみて、有機体に依存する形容に向かっても正当性を見いだすことはできない。というのも、有機体そのものもまた現象だからである。魂と身体はどちらも現象に過ぎず、その関連は単に現象の関係に過ぎない。我々が次に論じるのはこの関係の特殊な性質である。

*1:

(1)心にとどめておかねばならないいくつかの区別がある。(厳密な 意味での)存在によって、私は出来事や事実の時間的な系列を意味して いる。この系列は全体が直接的に経験されるものではない。現前するも のを基礎にして観念的に構築される。しかし、部分的に観念であって も、系列の全体がそうなのではない。というのも、その内容は諸個物の 形式のなかに残され、存在と性質との直接的な隣接が完全に壊されるわ けではないからである。端的に言って、出来事の系列に必要とされるも の以外の、直接的な存在、あるいは無関係な文脈は保持される。そし て、出来事の系列全体が現実に知覚されるわけではないにしろ、その性 質においては知覚可能なものとして捉えられねばならない。

 いかに長いものであれ、時間的な系列のどの部分も、出来事、あるい は事実と呼びうる。というのも、それは知覚可能な持続からなるある断 片、あるいは量としてとらえられるからである。

 事実によって、私は出来事か、直接的に経験されたものを意味してい る。直接的経験、あるいは出来事のどの側面も、それを性質づける形容 を考えない限り、緩やかな意味での事実や出来事にしかなり得ない。

 最後に、ある継起の直接的経験は、区別されると、一つの出来事以上 のものを含みうる、区別されると、出来事を超えた側面をも含みうるこ とに留意しよう。しかし、付け加えておかねばならないが、私は上述の 言葉をすべての場合において厳密に使っているわけではない。

 

*2:

(1)上述300ページ、また第十九章、二十一章と比較のこと。存在と 思考の関係については、さらに、第二十四章を参照のこと。

 

*3:

(1)系列全体は、場所と持続をもつので、ある意味で、ひとつの出来 事となるかもしれない。しかし、経験された事実全体とはならないだろ う。

(2)魂の同一性はある魂に対して存在する限りにおいて認められると いうのは、我々がすでに指摘した循環論法のひとつである。

 

*4:

(1)私は自我が派生的な産物であると確信していることを付け加える べきだろう(『マインド』47号)。しかし、上述の議論はこの結論とは まったく関係ない。

(2)自我に行動が割り当てられるようになると、事態は一層悪くな り、というのも、活動は時間における継続を含むことが示されてきたか らである(第七章)。ここで読者は、現象と実在との関係を語ることが まったく不正確であることを思い起こされるかもしれない。厳密に言う と、有限の事物の間にしか関係は存在しない。別な具合に語るなら、放 埒だということになろう。