ケネス・バーク『動機の修辞学』 38
.. ロシュフーコーにおける一般的、特殊的、個人的動機
文化によっては「観念」の構成要素が異なると論じることができる。あるいは、すべての要素は常にそこにあるのだが、異なった比率にあると論じられるかもしれない。かくして、物々交換の社会の原理は、金銭による社会の原理と重なる部分があると言えるが、それは物々交換の対象が金銭の発端となり、金銭によって合理化された交換が遠回しな物々交換の一種というばかりでなく、どちらの取り引きにも双方に先行する諸原理が含まれているからである(なにが取り引きされるのか、性質、「誰のものか」に数がこだわらないのは、社会的に基礎づけられたのではなく、生物学的に基礎づけられている)。
しかし、ある文化の構成要素がどうで、特有の動機と普遍的な動機との正確な組み合わせがどうで、その多くがいかに「生産力」との関係によって決定づけられていようと、ある組み合わせの統一感は、それが独自の「新しいもの」だという観念や直観である。文化的組み合わせ全体の骨子を例証する芸術家は、ある要因に還元されないような観念を具体化するのであって、というのも、「観念」は諸要因をまさしくこの組み合わせのこの比率において捉えるものだからである。
イデオロギーは経済問題だけから演繹することはできない。それはまた、「シンボルを使用する動物」としての人間の本性から発している。分岐しながらも求心性のある独特な神経組織をもつ人間の身体は「本来的な経済装置」なので、神学者のエデンや「失墜」についての関心は修辞的問題の中心に近づくのである。というのも、神学の背後には、あらゆる人間に共通で、普遍的な事実である一般的分裂は、社会的階級が原因である分裂に先立つという認識があるからである。ここに修辞学の基礎がある。ここから言語的説得への動機が生じる。そして、<二次的に>、経済状況に特有の動機を得るのである。
分娩において神経組織の求心性が働き始める。異なった神経組織は、言語や様々な生産を通じて、多様な利害と洞察をもつ共同体、その性質や範囲も様々に異なる社会的共同体に働きかける。そして分裂と共同体から「普遍的な」修辞状況が生じる。
こうしたことを心にとめ、ラ・ロシュフーコーの箴言を見てみよう。彼の<利害、自尊心、自惚れinteret,origueil,amour-propre>に向ける関心に注目しよう。数多くの説得の手段、率直、友好的、反語的、間接的、外交的手腕、紛れもない偽善などを彼はこの特質から引き出している。彼の考えは著しく修辞的であり、その「身ぶりに満ちた」道徳性はほんの僅かな利点にも油断を怠らないのである。
かくしてラ・ロシュフーコーは謙遜を、策略、他人を従属させるための偽りの従順、自己称揚のための、自尊心の「第一戦略」としての卑下として語る。彼は、女性が恋人の死を悲しむときの涙、「彼を愛していたからではなく、自分が愛される価値があったことを示すため」にある涙の修辞を吟味している。あるいは、善意にあるねたみの要素、人々が公に敵の不運を嘆くとき、心からの善意ではなく、同情のしるしを見せることで、敵よりも自分が優れていると見せつけることを示している。あるいは、称讃を引き出すために自らを責める。あるいは、大きな間違いなどしていないと説得する(彼の使った言葉)ために小さな間違いを告白する。あるいは、<自惚れ>から人は「自分自身についての馬鹿げた確信」を引き出す。あるいは、道徳的性質の<外観>について様々に語っていて、「本当の悔恨など知りうるものではない。虚栄心が他人を安心させる」と言う。とりわけ、ラ・ロシュフーコーの教えにおいて修辞的要素の強いのは両性間の関係で、それを媚びと武勇【コケットリーとギャラントリー】、つまり、説得と優位の点から論じている。
特に、王子への献身的愛情は、第二の自己愛だと言っていることに注目しよう(la devotion qu'on donne aux princes est un second amour-propre)。
ここには、マルクスが「イデオロギー」に見たのとは正反対の側面がある。というのも、ロシュフーコーが記していることが、廷臣としての動機に強い影響を受けているなら、「自己愛」はその性質の多くを「王子に捧げられた献身的愛情」から引き出しているだろうからである。つまり、宮廷が社会的制度である限り、社会的動機は個人的動機に「先行する」だろう。しかし、ラ・ロシュフーコーは社会における人間の基本的動機としてまず自己愛を挙げ、それが形成される要因として宮廷作法を細かく調べているわけで、問題を別の方角から捉えている。彼は、自己愛が王子たちへの献身から生じていると言っているのではなく、王子への献身は第二の自己愛だと言っているのである。
しかしながら、我々は自己矛盾に陥っているように思える。我々はあらゆる階級的凝集に先立つ個人の分裂に修辞的状況を位置づけたにもかかわらず、ラ・ロシュフーコーが個人的な動機(自己愛)から社会的動機(王子への敬意)を引き出したと言っているわけだから。しかし、ラ・ロシュフーコーの記した自己愛を人間が本来もつ生物学的な分裂(「神経組織の求心性」)と混同すべきではない。むしろ、ラ・ロシュフーコーは<宮廷の>道徳を描いているのであり、彼の論じる「自己愛」は王子への敬意に集約される個人の意識である。かくして、マルクス主義的な分析に従うなら、ラ・ロシュフーコーは「イデオロギー的には」正反対の二つの動機をもっていることになろう。しかし、同時に、社会に先行する個々人の分裂によって正当化される個人主義的解釈をすることもできよう。反語的なのは、「自己愛」は個人の分裂についての<社会的な>用語だということにある。ラ・ロシュフーコーの箴言は宮廷の修辞学であり、個人は制度における立場によって定義される。
その過程を次の6つの契機に分けることができるだろう。
(1)「神経組織の求心性」、曖昧に分裂しているがそれとともに合一への条件が備わっているものに固有な個人的な優位へ向けての動機づけ(そしてそれに応じた修辞)が存在する。(2)個人にはその社会的階級に特有の考えが植え込まれている(共同体における立場は労働の分化から生じた所有権の伝統によって制限を受ける)。(3)そうした限定的な考えはある原理や観念に還元できる。いまの場合には宮廷作法の観念である。それは「王子に捧げられる献身」というイメージや論題に要約される。(4)個人の自己同一性はこの同じ原理のもと考えられる。(ついでながら、「プリンス」と「プリンシプル」の語呂合せに注目されたい。それは単なる偶然以上のものがある。ここにも、ある部類の原理は「最高度の」潜在力があるものによってあらわされるという、我々が「目的論的」思考感情様式と呼んだものの一例がある。こうした思考様式が社会的階級の言葉に翻訳されると、王子、社会的階段の最上段にあるものがそうした位階的秩序の一般的原理をあらわしていることになる。)そして、ある人間が自分の動機を王子への献身として考えるなら、彼は自分を修辞的に、<宮廷風に行動し宮廷化されたもの>として考えていることになる。両者が入れ子状になり、究極的な原理となって、自己愛を得る。(5)この地点から、ラ・ロシュフーコーは彼の本を始めている。彼は社会における人間の動機を「自己愛」に還元する(「自尊心」と「利害」は同じものとなる)。そして、彼はあらゆる情念、感情、見せかけ、自己欺瞞をこの語の光のもとで見る。(6)この鍵となる語を精査しているうちに、彼はその背後にある王子の原理に行き当たった。しかし、彼は既に「第一の」用語を自己愛に選択しているので、それは彼の用語では「第二」のものとなった。ロシュフーコーがこの発見をヘーゲル的なイデオロギーの用語で語ったなら、第二の自己愛に原自己愛といった名称をつけ、宮廷へ向かう生得的、「前歴史的な」傾向を示すものとし、その「観念」が自己意識へと向かう進化のなか、歴史のある段階において王子への献身と<自惚れ>として自らをあらわにしたとでも言うことだろう。
しかし、「自己」と「王」では一連の過程に締めくくりはつかない。究極的な場面であり、あらゆる可能性の土壌である神はどこにいるのだろうか。我々の解釈によると、神に関する語は、我々がラ・ロシュフーコーの箴言を分けた6つの契機のうち最初の条件に当てはまるだろう。それは社会的立場に限定されず、普遍的な人間の状況に特徴的な、あらゆる人間に備わった修辞的動機を扱うものである。神学的に言えば、あらゆる人間が共有する分裂は「原罪」と呼ばれるものである。そして、こうした言葉で神の(あるいは究極的な共同体の)問題に取組むことで、ラ・ロシュフーコーは自己愛はもう一人の神を、分裂にいらだち悩む神を呈示する、と言う。
Dieu a permis,pour punir l'homme du peche originel,qu'il se fit un dieu de son amour-propre,pour en etre tourmente dans toutes les actions de sa vie.
これで締めくくりがつく。身分による共同体に先行する究極的な分裂に行き着くことになる(共通の利害、共通の財産があるため、ある身分やある階級として共同生活が行なわれ、他の身分や階級と争うことでまとまりが生まれる)。
自尊心、利害、自己愛は貴族主義的で、動機としては非難の意味合いで使われるので、ブルジョアの用語法は、それを「野心」、「進取の気性」、または「個人の尊厳」や「人格の尊重」といった称讃的な言葉に言い換えている。「名誉」が貴族主義的図式においてはそれに対応するような称讃的言葉だった。我々は自尊心という観念と修辞に含まれる判断を考えるには三つの異なった道筋があると考えている。
1.その言葉はより劣った階級(成り上がりのことも意味している)からのあり得うる侵略に対する抑止に用いられたと考えられる。そして、この党派的な使用が普遍的なものとなり、この警告は貴族の成員によって、自分たちの階級で他を威圧するためにも使われるようになった。
2.あるいは、老人の若者に対する訓戒が集約された言葉として使用されるとも考えられる。世代間に普遍的にある階級戦争では、特に、<現状>の永続化を賛美する支配階級によって用いられる。
3.あるいは、自尊心にまつわる恐れを、イロニーの普遍的な劇的原理、運命の急変が最大の効果をあげることを知っている劇作家の形式的な源泉として位置づけることもできる(築きあげた後の失墜、やがて押し潰されてしまう自信や期待)。「驕れる者は久しからず」ということわざにあらわれているこの形式的なイロニーの土壌は、普遍的で、社会的生物学的な類の階級支配での使用に先立っている。