ブラッドリー『仮象と実在』 160

 

[身体と魂の関係。それらはひとつではない。]

 

 我々が反対しなければならない見方を指摘することから始めよう。魂と身体はひとつの実在の二つの側面である、あるいは同じものを二回、その存在の二つの面から捉えなおしたものだとみられるかもしれない。ここではこの結論にいたるさまざまな理由についてはなにも言うつもりはないし、それらに反対する多様な反論についても論じるつもりはない。提案された同一性に私が反駁せざるを得ない根拠について簡単に述べよう。第一に、たとえ我々が関心を現象だけに限るとしても、魂と身体を残りの世界から分離することが正当化されるか私にはわからない。さらに先まで行くと、この教義に対する致命的な反論がある。最終的に、魂と身体が一つのものであるなら、どんな正当化によっても、絶対の内部での有限な実在の複数性を結論することになる。しかし、すでに見たように、そうした結論はまったく擁護され得ない。魂と身体が実在でともにあるなら、各自の特殊な性質がなぜ保持されているのかいかなる理由も見て取ることはできない。現象のいかなる要素、あるいはいかなる側面も絶対のなかで失われることはありえないと確信することはある。しかしそれは、あらゆる現象がそれぞれの違った性格を保ち続けると主張することとは別のことである。分解され、融合されたより高次にある要素が身体と魂というものの性質だということになる。

 

 このことによって、我々には周知の、さんざん論じられた問題がもたらされる。物理的なものと心的なものとの間に因果的な関係は存在するのか、一方の系列は他方の系列に影響していると言えるのだろうか。私はそれ自体で自明だとされる見解について述べ、次にいくつかの間違った教義を簡単に論じ、最後に擁護しうると思われる結論を提示するよう努めてみよう。第一に、なんの偏向もない観察者にとっては、魂が身体に働きかけ、身体が魂に働きかけていると信じられている。このことで私はありのままの魂がありのままの身体に働きかけていることを意味しているのではない、こうした区別は、さらなる反省の結果としてのみ生じてくるものだからである。私が意図しているのは、なんの理論ももたない者が事実をみたとき、一方の系列(それがどちらであれ)の変化が他方にも変化をもたらすことがしばしばあることを見て取るだろうということである。心的なものと物理的なものは、どちらも同じく、互いに相違をつくりだす。魂の変化が有機体における運動から生じることは明らかであり、後者が前者の結果であり得ることもまた明らかである。特別な理論をもたずには、意志においては精神が物質に影響をもたらすことを否定する者はいないだろう。苦痛や快楽ではそうした否定はそれほど自然でもなくなってくるだろう。個別の快楽や苦痛を固定しておいて、単なる役に立たない同伴者だとし、過去の発達においてそれらが何ものにも相違をもたらさなかったと主張するなら――ごく普通の観察者はそれを故意につくりだした逆説だとみることは確かである。私自身も、一般的な教義を受け入れる者のほとんどが十分にその意味を理解しているかどうかについては疑問を持っている。

 

 身体と魂が互いに影響し合っているという自然な見方については、最終的にはそれに反対する証拠をみることになろう。しかし、いまのところは、いくつかの対立する結論へと向かわねばならない。いかなる意味においても身体と魂との相互活動を否定する者は、残された可能性のなかから選択せねばならない。彼は二つの系列が独立して隣り合っているか、一方が他方に従属している、あるいは他方の形容なのだという立場をとるかもしれない。私は平行する系列についていくつかのことを言おう。しかし、この見解の歴史的発展は無視し、今日提示されている観念だけを扱わねばならない。

 

 第一に、因果関係の肯定や否定は、もしその例示を主張するなら、ほとんど証明され得ない。我々の知るあらゆる細部が一つの結論を目指し、この結果を間違いと見なす特別な理由など見いだせないことを示すかもしれない。そして、それを十分に行うことで、結論を証明することになるのは確かである。しかし、その後でさえ、なにが可能なのかについての疑問は残る。他のすべての可能性を処分できない限り、例示に失敗したことになる。我々の前にある特殊な教義において、我々はある点にある事例をもつ。魂と身体の単なる偶然の一致が不可能だと示すことはできない。しかし、他方において、この単なる可能性は、事実の偶然の一致を想定する十分な根拠ではない。