ケネス・バーク『動機の修辞学』 39

.. ド・グールモンの「分離」

 

 多分、同一化と分裂という問題、それが説得に及ぼす影響について最も鮮やかで、根源的な取り組みを見せたのは、レミ・ド・グールモンのエッセイ「観念の分離」であろう。(『デカダンス、その他諸観念の文化についてのエッセイ』という翻訳に収められている。)フランス象徴派の紹介に力のあった文芸批評家であるド・グールモンは、観念とイメージとの間で不定型に形を変える領域に専門的に取組む最も優美な「イデオロジスト」の一人だった。

 

 そこでは<分裂>に大きな力点が置かれている。ド・グールモンは分離を、彼のお気に入りの美徳である知性に特徴的なしるしと見ている。「離別は」と彼は言っている、「自由な愛情の世界である観念の世界の永遠の規則である」と。

 

 彼が言うには、人は古くからの観念連合を受け入れることもできるし、新たなにつくることもできる——あるいは、彼が支持するような知性を使いこなせるほどの稀なる熟練者なら、「独創的な分離」(あるいは解離)をつくりだすことができる。しかし、彼のエッセイをより詳細に見てみると、<分裂>の強い強調が<同一化>についての我々の理解を鋭敏にする助けとなっていることに気づく。実際、言語において同一化がいかに働くかを示すテキストをなにか一つ選ぶとするなら、我々はサディスティックと言っていいほど同一性の分解に従事しているこのエッセイを選ぶであろう。

 

 彼は、観念は「使い古しのイメージ」でしかなく、連合とは、人間の思考で働く特殊な利害関心があるために分離に抵抗する修辞的な決まり文句だとしている。通常、そうした「真理」は「事実と抽象」から成り立っている。彼がここで使っている「真理」は「意見」の意味であり、人々が疑うことなく受け入れている連合である。例えば、もし我々が経済活動が本質的に善だと仮定するなら、経済制度という「事実」を抽象物である善に自動的に結びつけている。善は「純粋な」観念であろう。それをなんらかの条件、時間、場所、人物、作業などに常套的に結びつけたものが「真理」(我々の用語で言う意見)であり、通常人々はそれによって生活している。

 

 しかし、観念を純粋に奉じることは実際的必要には関わりがない。その完成にだけ責任がある。実際の生が規則通りに進むことがあり得ないとしても、その問題に自由な探求をする専門家が関わる必要はない。恐らく、そうした探求が論理的帰結にまで行き着くと、人類の終焉を意味するのではないだろうか。だとしても、芸術への愛のために観念を分離し、心を柔軟にして「尊大な高貴さ」(noblesse dedaigneuse)を手に入れる知的修練ならどのようなものでも認める、素晴らしく自由な知性にとっては関わりのないことである。彼の分離の方法は、その文体にある種軽い分裂病的な顕著な特徴を与えており、その結果、恐ろしいことを楽しげに語ることができる。最終的な結論に至るまで特殊化の論理を運用し、公言する原理に対してだけ責任を認める。彼が物理学者で、悪魔的な破壊の機械を作動させるとしたら、できる限り効率的に悪魔の働きをさせるよう努めるだろう。実験における彼の「工程道徳」は、厳格な清教徒風であろう。かくして、彼はリベラルな専門主義にある種の芝居がかった身ぶりを与え、懐疑的に、またニヒリスティックに「諸真理」をばらばらにし、その事実の側面が抽象的観念的側面と論理的必然的なつながりをもっていないことを示すのである。

 

 エッセイで、彼は人間が生きるに際して頼りにする様々な決まり文句を「自由に」している。つまり、抽象的な観念が具体化される条件が、本来その抽象的観念と同一であるという仮定を組織立てて疑問に付している。かくして、純粋な観念分析の専門家として、彼は観念論批判を完成させる。最終的に彼は、個々のイメージや世俗的な条件を抽象的原理や観念に結びつける決まり文句にあらかじめ潜んでいる神のパターンを発見するのである。(抽象とは、決まり文句や論題と同一視される経験的条件に具体化される「純粋性」あるいは「神性」である。例えば、ある経済的構造を「自由」と同一視するような論題があるとすると、「自由」は神−語であり、純粋な抽象である。そして、ある経済構造が「事実」として論題化されると、純粋な神性が地上に降り立ち、特殊な経済的構造に具体化したということになる——ド・グールモンはこうした神学的なアナロジーを使いはしなかったが、彼の分析が意味するところはそうである。)

 

 ド・グールモンによってこうした問題への知覚が鋭敏化されると、彼が表向きは古い連想を「自由にする」ことだけが目的だと言いながら、次々といかに多くの「新たな連想」を打ち立てているかを示す反対エッセイが書けるように思える。(既に記したように、自由思想家として、彼は理想的な知性の仕事を離別と見なしている。)「自由に」裂け目を入れながら、彼は密かに新たな連鎖を持ちこんでいる。しかし、彼自身は、自分の発言を制限することになるような吟味を推奨している。

 

 彼の方法の一例として、正義の観念への取り組み方を考えてみよう。ベンサムなら「原型」と呼ぶであろうものから始め、彼は正義の観念に天秤、あるいは釣り合いのイメージを見分ける。そして、自由な即興によって、伝統的な正義と罰との連想を「自由にし」、試験的に、より多くの正義があれば、詐欺師を罰するだけではなく、欺された側の愚か者をも罰するのではないかと問いかける。次に、このエッセイでだけのことだが、存在と不釣り合い、不正義とを等しいものとし、あらゆるものは互いの存在を奪い取ることによって存在していると述べる。(ここで彼は、所有権は盗みだというプルードンの命題を普遍化しているのではないか。)幾分ラ・ロシュフーコー的な精神によって、彼は次に、正義の観念がいかに憎しみや羨望の動機によって汚染されるものであるかを指摘する。ベンサムならここで、「正義」とは、社会的にあきらかにし得ないものを多く含む諸動機の「称讃的覆い」になりうると言うだろう。ヴェブレンなら正義の「ねたみ」の側面に注意を向けよう。マルクスなら、それが資本主義の正義を条件づけるものであり、ド・グールモンの知的ニヒリズムが文化における後期資本主義段階の鋭いあらわれと解釈される限りにおいて、彼の遊戯的な専門的禁欲主義に完全に同意するだろう。そして、「特権という観念の著しい堕落」というド・グールモンの自由の定義についても同じような受け取り方をするだろう。

 

 方法論的に言うと、ド・グールモンは、正義の<観念>を<イメージ>としての正義(釣り合った測り)として扱ったとき、誤りに直面することになったとも言える。彼はこの特殊な「原型化」を用い、形象が法的倫理的「虚構」において気づかれぬうちにいかに働いているかを示した。だが、公言されていないイメージを暴露すること自体、それが分析においてあまりに大きな部分を占めると、印象主義的になりうる。「正義」のような抽象的な観念は、唯名論的に<弱められたイメージ>として解釈するよりも、実在論的に<言葉>として扱った方がその意味をより明らかにすることがあろう。

 

 実在論的に、抽象の言葉の要素を調べると、「英雄主義」が英雄になる方法を示し、「緑性」が緑であるあり方を示すように、「正義」は生の正しいあり方を示すことがわかる。かくして、『文法』で我々は「正義」にあたるギリシャ語が「あり方」という語から来たことを指摘したのである。『国家』での論議を見ると、異なった社会階級には異なった生存の条件とそれに見合った判断があり、「正義」の意味もいかに異なっているかに気づく。方法論的に、言語的実在論はド・グールモンの過度なイメージ偏重を正すだろう。それはよりマルクス主義に近い分析を要求することとなろう。というのも、ド・グールモン流の原型化は観念とイメージとの間の往復で満足するのだが、抽象に対する実在論の取り組みは、それを場面における行為者の行為と考えるよう促すからである。イメージには個人的姿勢を示す内容が存在するのは確かである。それゆえ、充分突き詰めると、言葉としての性質に行き当たる。しかし、これは、唯名論実在論に既に道を譲り渡している限りにおいて真なのである。

 

 いずれにしろ、行く、走る、見る、置く、運ぶといったよく使われる語の意味は実際には「抽象的」であることを心に留めておくべきである。あるものはここやそこにあり、大きいか小さく、丸いか四角等々だが、「走っている」あるいは「置いている」というのはなんだろうか。あるいは、「かもしれない」、「ねばならない」、「であろう」、「べきである」は。ここにあるのは真の普遍であり、ある動物が走っている、といった不完全な例との混合によってのみあらわすことができる。実際、プラトンが多様な個々の家の物質的具体化に先行するものとして扱った原型的な形相、イデアとしての「家性」についていえば、そこで求められたのは「家である」という動詞、個々のすべての「家である存在」が分かちもっている普遍ではなかったろうか。

 

 しかし、我々が修辞学の観点からド・グールモンの分析に保留をつけるにしても、ド・グールモンの機敏な心的曲芸に精通することはいいことである。エッセイで表明されている説をすべて受け入れる必要はない。分離の議論そのものが一つの連想によるのだから、分離が究極的な知的武勇を示すと考える必要もない。しかし、話題になっている問題を実験的に分解したり、自分の愚直な修辞の犠牲にならずにすむ方法として強力であることはわかる。

 

 ド・グールモンには、ベンサムに見られたような、神秘主義に近い要素が含まれているように思える。従って、我々は分離を段階的な移行のうちに、自動的に形成され「幼児期」に奴隷にされる古い連想から、実験的な解放の時期を通じそこから「撤退」したのち合理的に採用される新しい連想に移る浄化の過程に位置づけたいと思う。特に、ある連想が世界を全般的な惨禍に追い込むように見られるとき、我々はそれを、ド・グールモンが推奨したような芸術への愛のためだけではなく、そうしたイデオロギー操作をもたらした原因を見てとるために、分離してみようとするべきである。

 

 かくして、愛国主義軍国主義は常に実験的に分離してみる必要がある。(あるいは、最新の状況を鑑みれば、愛国主義を「冷戦」から分離する必要があって、というのも、老人たちは冷戦のことを話しているのに、若い者たちは威勢よくそれを「実戦」に翻訳して語る傾向があるからである。)そうしなけらばならないのなら、この自滅的な連想(あるいは「同一化」)に戻るがいい。しかし、少なくとも分離による検証をし、自由な調査の結果選択し、確信すればいいことで、つまらない戦争屋のレトリックに動かされることはない。個人の自由をあらゆる観念の解放と同一視するのは錯覚である。正しいものであれば、連想にも自由はある。しかし、たとえ不注意によるのだとしても、人口の大部分が、愛国主義と軍事的増長とを同一視するよう余儀なくされている限り、この世界の誰も自由ではない。