一言一話 65

 

社会的ユートピアと内的ユートピア

イディオリトミックな「共生」のユートピアは社会的ユートピアではない。ところが、プラトンからフーリエまで、書物の上のあらゆるユートピアは社会的なものだった:権力を組織する理想的な方法の探求。私としては内的ユートピアの不在をつねづね残念に思ってきたし、そうしたものを書きたいと思ってきた:主体と感情、象徴とのあいだの良き関係を表現し、予言する理想的な(幸福な)方法。ところがこれは厳密な意味でのユートピアとはいえない。これは単に――あるいはそれを超えて、過剰に――「至高善」の表現の探求でしかない。ここでは:「至高善」にいかに住まうかの問題。ところが「至高善」――その表現――は、主体化のプロセスにおける主体のあらゆる広がり、深さを、つまりは主体の全個人史を結集するものである。そのことを明らかにできるのはただエクリチュールのみ――あるいはこういったほうがよければ、小説的行為(ないしは小説)のみである。極度の主観性を受け入れることができるのはエクリチュールのみだ、なぜならエクリチュールには表現の間接性と主体の真実のあいだの調和があるから――パロールの領域では(ゆえに、講義においては)不可能な調和、こちらはどうあがこうと、つねに直接的、かつ演劇的なものだから。

他の現代思想家とは決定的に異なる。小説的行為の称揚。