ブラッドリー『仮象と実在』 161

[それらは因果的に結びついている。]

 

 現象は物理的な系列と心的な系列の因果的な関係を指し示す。だが、この現象は次のような形で生みだされるしるしとしてしか可能ではない。どちらの側も、我々のみるところを逃れてはいるが、他方の条件となっており、それによって各系列の変化を考えるには十分であるかもしれない。我々はこの想定をさらに一歩進めることができる。どちらの側の系列の内部にも、出来事間の因果的関係など存在しないかもしれない。どちらかの側に、未知の条件が働いていて、系列という現象をあらわしているのかもしれない。継起的な事実とは、この場合、整った順列を示すが、実際には一つに結びついた諸系列の成員でも結び目でもない。こうした考えがどうすれば不可能だと証明できるのか私にはわからない。しかし、それを事実と見なす根拠がないのは確かである。二つの合致する系列という観念に戻っても、同じ結果に導かれる。この観念は根拠がなく、この点についてこれ以上関わる必要はないと思う(1)。

 

*1

*1:(1)もちろん、これらの仮定に基づいてさえ、もしこの結び目を残り の宇宙との関わりとしてとるなら、系列のある結び目はそれに続くもの の原因となろう。それゆえ「機会原因論」についていうなら、あらゆる 原因は多かれ少なかれ人為的に制限されねばならないので、それゆえ、 あらゆる原因は「機会」と呼ばれうると言える。条件をさらにさらに遠 くまで探り、部分的な原因が重要ではない、それゆえ影響をもたないと ころまで行くこともできる。ここで我々は完全な間違いのなかにいる。 もし「機会」が全体としての原因と分けられ、結果についての影響なし に捉えられるなら、それはすぐさま擁護しがたいものとなる。