ブラッドリー『仮象と実在』 162

[一方が他方の無駄な従属物なのではない。]

 

 それゆえ、我々は魂と身体が因果的に結びつくと見なさざるを得ず、問題はその結びつきの性質となるように思える。それはすべていわば、一面的であり得るのだろうか。魂は身体に形容詞的に依存しており、決してある効果以上のものではないのだろうか。あるいは、また、身体は魂に由来する単なる付随物なのだろうか。どちらの問題も、力強い否定に出会うはずである。どちらの場合も、想定された関係は不整合で不可能である。そして、身体的な変化についての観念は常に魂に由来し、しかも決して反応を示さないことにもっともらしさはないが、私はそれについて考えることをやめないだろう。一見したところよりもっともらしく思えるが、同じように不条理な正反対の一面に移ることになろう。

 

 この観点によれば、心的な変化は決して原因ではなく、単なる結果である。それらは身体に形容詞的に依存するものであり、同時に、それと完全になんの相違もない。それらは身体的な変化によって生みだされたことは確かな出来事であり、因果関係の外側にあるわけではない。しかしそれらは、あるひとつの性格を持ってのみ因果的系列に参入する。それらは自分自身を生みだすが、他方において、何ものもそれから帰結しない。このことは、ある種の目的のために、二次性質には影響されない一次性質を取り上げ、一次性質から発する無益な形容として二次性質を考えようと意図しているのではない。それは、あらゆる心的な変化が、現象の継起には絶対にいかなる影響を与えることもない物理的なものによってもたらされる結果だということを意味している。広く受け入れられているが、私はこの考え方が正確に表現されているのをみたことがないといわねばならない。これに固執する者は、隠喩で満足し、半ばは比較に終始している。彼らの説明で私にとって明らかなのは、その根本にある混乱である。

 

 この教義の間違いは、二つの観点から示されうる。それには、本体においてはなんの相違ももたらさない形容の矛盾と(1)、結果ではあるが原因ではない時間における出来事の矛盾が含まれている。簡潔に済ますために、ここでは二番目の批判に限定しよう。最初に、私自身のやり方で、唯物論的な教義に合理的な形式を与えるよう努力しなければならない。その上で、その不整合は固有のもので、取り除くことはできないことを指摘しよう。

 

*1

 

 心的な出来事が「二次的な」ものであることに同意するなら、想定されるつながりは次のような形であらわすことができる。

 

   A――B――C

   |  | |

   α  β  γ

 

 A、B、Cは一次性質の継起であり、真の因果的な系列と捉えられる。二次的な産物であるα、β、γの間には因果的なつながりはなく、CからB、BからAという継起があったとしてもなんの相違ももたらさない。それらは各々偶然生じた形容であるが、なんの帰結ももたらすことはない。しかし、その継起が実際には因果的ではないとしても、にもかかわらず、規則的ではあるので、因果的に見えるに違いない。因果関係によって変更できないように固定されている系列に依存しているので、それは規則的でなければならない。このようにして、不整合に思われたものは避けられ、すべてが調和的になる(と主張されるかもしれない)。我々はまったく同じ原因が二つの異なった結果を生みだすことができるという結論を無理強いされてはいない。Aに続くのは単なるBではなく、

   B

   |

   βであり、αは事実上、Aから取り外すことができないからである。A――Bという継起がそれ自体であらわれなければならないと想定する必要もない。というのも、事実上、αはAにともなっており、βは常にBとともに生じるからである。この分離不可能であることは、一般的な原理の結論であり表現である我々の結論になんの影響も及ぼさないだろう。A――B――Cが現実的で唯一の因果関係の糸であり、α、β、γはそれを無駄に装飾する形容である。それゆえ、それらの文字は現実にはそうでないもののように見えているに違いない。それらは常にあるいは通常は建造物の一部のように見られるが、実際には、装飾である。

 

 これが私の反抗的な依頼人に対してできる最良の擁護であり、次にはこの擁護が批判に耐え得ないことを示さねばならない。しかし、おそらく私の擁護には行き過ぎた一点があった。A――B――Cという継起がそれ自体では存在しないと認めることは、より一般的にもたれている見解と反対するように見える。だがこのことを認めないと、不整合はよりたやすく示されうることになろう。

 

 因果関係の法則とは、継起的なものに適用された同一性の原理である。継起を含む言明をすると、必然的に、もしそれが真なら、常に真であるようなある別の言明もしている。BがAに続くことが普遍的に真だとするなら、この順列は我々の言う因果的な法則に従っている。他方において、この順列が普遍的に真ではないなら、因果的法則もまったく真ではない。というのも、この場合、BはA以上、あるいは以下の何ものかに続かねばならないからである。それゆえ、A――Bという判断が誤りなのは確かである。かくして、言明された継起という事実は、因果関係の事実として捉えられるまでは真ではない。そして因果関係の事実は、普遍的であり、普遍的でなければならない真理である(1)。常に誤りか、常に真である抽象化された関係である。それゆえ、BがAに続くと言えるなら、この命題A――Bは永久的な真理である。しかし、さらにいえば、ある真理がそれ自体であると同時になにか別のものであることはできない。それゆえ、(いってみれば)どちらの場合にも同じAを保持しているなら、一度A――Bを主張しながら、同様にA――Bβを主張することはできない。というのも、βという出来事が続き、なんの相違も生じないなら、「――B」と「――Bβ」のどちらにも単なるAを主張せねばならないからである。しかし、この二つの主張は両立し得ない。同様に、Aαが結果として単なるBをもたらすなら、ただのAが同じ結果をもつことは不可能である。でないとすれば、Aが単なるAではないか、αがなんの関係もないかである。他のどんな結論もBに関して二つの両立し得ない主張を含むことになろう(2)。

 

*2

 



 かくして我々は魂について無益な形容をつくりだす見解について最初の結論に達することができた。そうした形容がどちらにも生じ、また生じないなら、まったく論理的ではなく、物理的な順列がそれらがなくともあってもまったく同じだというなら、そうした考え方は単に自己矛盾している。というのも、それはいかなる差異ももたらさない差異を想定しているばかりではない――この想定は不条理である。またそれは、あるときには構築物とともにあり、別の時には離れているような装飾物、どちらの場合にもなんの根拠もない出来事を信じている(1)。おそらくこのくらいで先に進むことができよう。

 

*3

 

 よりもっともらしく思えるような発言に戻ろう。次のような継起が存在し、

   A―B―C

   | |  |  

   α β γ

ここで二次性質は一次性質から分離することはできない。A―B―Cは、事実、それだけでは決して見いだされることはなく、にもかかわらず、真でかつ唯一の因果的順列である。しかしながら、こうした発言は以前は明らかであった同じ間違いを隠しているだけだとわかる。上述の継起において、実際に我々がそこに加えたと思っている以上のものがないなら、α、β、γが外部のなにかとつながっていないなら、我々は古くからの不整合をいまだにもっている。もしA―B―Cが真実なら、我々のもっていた継起は実際には不可能である。そして、順列が変更されるなら、A―B―Cが真であることはありえない。もしそれが真なら、仮定によってαはAと分離できないのであるから、少なくともそれが発見され得ないことはなかろうと主張しているのではない。我々は証明できないことや観察できないことを仮定することがあることは私も認める。そうした仮定はここでは自己矛盾であることを示したいのである。αがAと分けることのできない形容であり、同時に存在についてなんの変化ももたらさない形容だと仮定しよう。あるいは、αは、少なくともAの行動にはなんの相違ももたらさず、完全に自分ひとりの力では動くことができない。しかし、もしそうなら、以前と同様に、Aは互いに両立し得ない二つの述語をもっていることになる。実際、以前と同じように、事実上は、最初には単なるBが続き、それから再びBβが続くのだと言うことはできない。しかし、にもかかわらず、我々は衝突する主張に同意している。AはBを生み、AはBβを生むとしている。どちらかの判断は間違いでなければならない。というのも、Aが単なるB生むなら、Bβは生まないはずだからである。それゆえ、βはいわれのない偶然である出来事か、αがどうにかして(直接的にか間接的にか)Bにこの相違をつくりだしていることになる。しかしもしそうなら、αはなんの働きもないものではなく、Bの原因の一部になる。それゆえ、単なるAからBへの順列は間違いである(1)。我々の発言のもっともらしさは幻影であることが証明された。

 

*4

 

 私は実際それ以上進むことのできない微妙な問題にかかわっているのは好まない。この問題を避けうる方法を考えてみよう。二次性質は、一次性質に依存しているのではなく、むしろそれらの間の関係の形容であると言える。それらはある種の関係に加わるが、それに続くものにはなんの相違ももたらさない。しかし、ここには古くからの未解決の矛盾が残っている。ある関係(AとEの関係としておこう)が、関係(BとFの関係としておこう)を生んだとして、そこで生みだされたのがそのままの関係でありつつ同時に、形容するものβを伴っているというのは真ではありえない。どちらかひとつの主張は間違いでなければならず、それとともに結論も間違っていることになる。端的に、ひとつの違いもない、あるいはそれに続くものになんの違いももたらさない差異は不可能である。この試みにはあからさまであれ隠されているのであれ、矛盾が含まれており、どちらの場合でも、それを採用した理論に破滅をもたらす。



 我々はこれで間違った見解についての議論を終えよう(1)。身体と魂との実際的なつながりを否定することは危険であるか、不可能であることを見てきた。自己矛盾に陥ることを覚悟しない限り、魂を身体に影響を与えない単なる形容として扱うことは不可能である。他方、合致し平行する二つの系列を受け入れることは、現象の大部分と対立する結論を受け入れることになる。そうした可能性を捨て去ることに正当性が見いだされるわけではない。魂と身体が互いに異なっているという一般的な見方が、最終的には反論に対する証拠となる。それではそれを擁護できる形で述べるよう試みてみよう。

 

*5

 

*1:(1)魂の唯物論的な見方でとられているのと同一の間違った原理は、 同じように実在の現前についての唯物論的な教義にもあらわれる。

*2:

(1)「非条件的な」と付け加えることは余分であろう。『論理学原 理』485ページ参照。

(2)「BはAに続く」と「BはAαに続く」という判断は、純粋にとれ ば、調停し得ない。「原因」という言葉を緩くとらない限り、同じ結果 が二つの原因をもつことはありえない。ボサンクエットの『論理学』第 一巻第六章を参照のこと。この問題については第二十四章でさらに述べ る。

*3:(1)もし根拠があるなら、単なるAはBとBβ双方の原因とはならない だろう。この点については後で立ち戻る。

*4:(1)読者は、βが(仮定によって)αから直接に続くことはありえな いことを思い起こしてほしい。それはただBにのみ依存する。

*5:

(1)この関連において、エネルギー保存の法則についてなにか述べる ことが期待されるかもしれない。私にはもっとも気が進まないことであ る。私のようにこの観念が使用されている科学の外側にいる人間にとっ て、それを正しく理解することに成功する望みはほとんどない。彼は常 に単なる作業概念と事実についての言明を区別することに失敗する。た とえば、「位置エネルギー」や「潜在的エネルギー」は実際に採用する と有益で正確なことは間違いない。しかし、厳密に言えば、それらはナ ンセンスである。もしある事物が諸条件のなかに消え去るのだとすれ ば、それはすぐ後で生みだされることもあろうし、その間それが存在し ないことは確かである。それを非存在と呼べるのは、「保存の状態」に あるという保証がある限りにおいてなのは確かである。それゆえ、先に 進み、エネルギー保存を、ある瞬間において、現実の物質と現実の運動 が量として変わらないことを意味しているととろう。この恒常性はいく つかの物理体系にとっても、自然全体にとってもうまく働く(第二十二 章)。もしこの観念が作業用の仮説としてのみ用いられているならば、 私は自分の分を超えたものとして、なんの批判もするものではない。し かし、他方において、事実に関する言明として提示されるなら、私はす ぐさまそれを真として受け入れる根拠はないということだろう。それが 証明されないことを私は確信している。しかしながら、議論のために、 物質と運動の量的な恒常性を受け入れたとしても、それは魂の位置につ いて何も語ってくれないことがわかるだろう。精神が身体に影響し、身 体が精神を変えるとしても、全体の量はまったく同じであるかもしれな い。心的、物理的双方の得失は、互いに補い合い、全体として均衡を 保っているかもしれない。かくして、体系の物理的エネルギーは全体と して保存される。しかしながら、運動は常に運動の結果としてあらわれ ねばならないと主張する者が、心的出来事は原因ではないという結論は 避けようとするかもしれない。彼は関係していると見えるだけの二つの 平行した系列という形式に立ち戻るかもしれない。あるいは、その因果 的なつながりをいまだに主張するような仮説を採るかもしれない。魂と 身体が互いに異なり、それぞれに継起があり、独立したものとして扱う ことができるような配列は可能である。因果的な順列のなかでのそれぞ れの側の得失は、互いに補い合うことができるかもしれない。それらは 互いに邪魔しつつ助け合い、最終的には何もなかったかのように、それ ぞれの系列が固有の過程をたどっただけに見えるかもしれない。そうし た配列が可能なのは否定しがたいが、それが事実であると示唆すること はとうていできない。というのも、いかなる根拠もなく、そうした精妙 な働きを我々に強いるような原理を私は却けるからである。

 結論として述べることを許してもらいたいのは、「保存」の教義をも ち、それによって魂に関する我々の見解になにかをもたらしたいと思う 者は、ある種の努力を期待されても致し方ないということである。心的 出来事の継起と因果関係の法則を調停しようとすることは義務のように 思える。科学の範囲外で理解可能なものに束縛されるような人間はない と私は思っている。しかしそうした弁解は、その内部にとどまりたいと 思っている者が口にしてこそ有効である。私は敬意を払ってではある が、断固としてこの点をあえて主張しなければならない。