ケネス・バーク『動機の修辞学』 41

.. マキャベリの「行政的」修辞

 

 マキャベリの『君主論』は、<聴衆に影響を及ぼそうとした>ものである限り、修辞として扱うことができる。君主の臣下が聴衆だったこともあるし、外国の支配者や住人が聴衆だったこともあり、国家の特定の党派が聴衆だったこともある。結局のところマキャベリは、政治的公衆を考慮するなら、目的に達するためにはそれを動かさねばならない、と言っている。そして彼は、説得の原理を次のように考える。懇ろに扱うか叩きつぶせ。弱き隣人を守り、強きものを弱めよ。混乱が起きそうなときには戦争を引き起こせ。他者に力をつけさせるな。君主として、秩序を守る厳格な統治者を任命せよ(統治者が、君主の希望を実行することで民衆の憎しみの的となったら、その残虐さに死の咎を与えることで君主は民衆の喝采を得ることとなる)。必要な悪は一度期に行ない、利益は少しずつ与えよ。ときには、最悪の日はもうすぐ終わると市民に保証し、ときには敵の残酷さを恐れるようにし向けよ。自分や臣下たちの財産は倹約し、他人の財産については気前よくせよ。力と抜け目のなさを(獅子と狐を)結び合わせよ。状況によって必要とされるときにはいつでも、<外見上は>慈悲深く、信頼でき、信心深く、公正でありながら、現実にはその反対であることも辞するな。だが、多くの人間は外見で判断するのだから、美徳へのリップサービスを常に欠かすな。それを叩きつぶす印象を与えるために抵抗を挑発せよ。「敬虔なる残酷さ」として許されるから、宗教を征服の口実として使え。「非難を浴びるようなこと」は他人に任せ、「名誉なこと」は自分の手で行え。どんな才能も支援し、祝祭を布告し、見せ物を与え、各地方の組織に対して敬意をあらわせ。しかし、常に身分の差を明らかにせよ(それが支配の「神秘」と呼ばれることとなろう)。人々の尊敬を失うことなくよい忠告を得るためには、専門家に率直に話すことを許しながらも、尋ねられたときにだけ話すよう命じよ。完全に腹を割って話し合える数人の側近を置き、充分な報酬を与えよ。

 

 利用できる人間もいれば、抵抗も予測しなければならない。かくして、新たな利益があるからといって、名士たちが古傷を忘れるわけではあるまい。民衆を説得するのは容易だが、説得されたままにしておく必要がある。貪欲さは自然なものであり、獲得する者は称讃されこそすれ、責められるものではない。貴族は民衆を圧迫し、民衆は貴族による圧迫を避けようとするだろう。公平な扱いによって民衆は満足させることができるが、貴族はそうではない。民衆と君主は、民衆がもたらす利益と同様民衆が受ける利益によって縛られている。傭兵は卑怯であることを恐れ、勇気を頼みにする。武装していない者は軽蔑される。しばしば、我々が美徳と呼ぶものは国家を滅ぼし、悪徳と呼ぶものが助ける。残酷さが和解と統一をもたらすこともあり得る。人間は一般に<恩知らずで、移り気、不誠実で、臆病で、貪欲>なものである。あらゆる人間に悪があるので、君主は常に約束を破るうまい口実を得られる。民衆は恐れる者よりは愛する者を攻撃しやすいので、愛されるよりは恐れられたほうが安全である。だが、君主は恐れられるべきであっても、憎まれるべきではない。最悪の罪は財産に対する罪であり、人は家の財産を失ったことより父親の死のほうを早く忘れるものである。民衆は欺されたがっている。君主が臣下の財産や女たちに手を触れぬままなら、「僅かな野心で満足している」ことになる。支配者の最上の砦は、民衆に憎まれないことである。国家内のいかなる党派も、常に海外に同盟者を期待できるからである。

 

 これら二つのリストの相違は主に文法的なものである。例えば、動詞的形容詞を使って、「傭兵の豪胆さは恐るべきものである」と言えば二番目のリストに入る。しかし、それは単に命令形に変え、「傭兵の豪胆さを恐れよ」と言うだけで第一のリストに移すことができる。どちらのリストも、アリストテレスの言う意味での「論題」に還元することができる。

 

 マキャベリよりも何世紀も前に書かれたもう一つの「マキャベリ風の」作品について考えてみよう。それは「雄弁」の称揚であり、雄弁は民衆、元老院、女性を征服するのに役立つ。その第三の対象だけに専念したのがオヴィディウスの『愛の技術』である。政治的権力ではなく、男性の性的能力が扱われている。マキャベリが公国をいかに獲得し、維持するかについて語るところで、オヴィディウスは女性をいかに獲得し手元に留めておくかについて語っている。

 

 軍人、剣闘師、狩人、怒ったりさかりのついた動物などの姿を借りているが、形式的には『君主論』と同じく、教育のための手引き書である。しかし、実際は詩的な見せびらかし、誇示の実践、文学的芸の展覧であり、そのことがあって、ド・クインシーはオヴィディウスをレトリックの主要な使い手として選んだのである。それは包装の開け方の手引き書を読むように読まれることはなかろう(待ち望んだ子供にとって手引き書は異なった意味合いをもつだろうが)。むしろ、それを読むことで、形象や観念そのもの、愛という論題、「場所」に喜びを感じとるのである。

 

 しかし、詩人のいきいきとした助言がいかにマキャベリの思考に近いといっても、もちろんその調子は異なり、イタリア人は荘重で、ラテン詩人は遊戯的である。狩りには絶好の舞台を見渡すことから始めて、彼は次のように続ける。

 

 友情の名のもとに欺すこと。酔ったせいで快活になったふりをする。装われた情熱が本当になることがあり得る。称讃と約束とを機敏に使うこと。神々への信仰によって誘いこむ。欺く者を欺く。涙の有効活用。懇願が女性の虚栄心に資する危険に対して防衛する必要。まさしく愛の色である蒼白の顔での誘いかけ。賢明な方法の転換、上品さには抵抗する女性も荒々しさには従うかもしれない。屈服による征服。自由民としていかに女性の僕となるか。好意を得るためのリスク。召使いたちの助けを得ること。贈り物に必要な用心。奴隷たちをし向けて、自分たちをもっと丁寧に扱うよう彼女があなたに頼むようにすること。お世辞の抑制した使い方。女性に溺れること。こっそりと別の女性とも楽しみ、見つけられたら否定すること。嫉妬によって愛情を再燃させること。悲嘆にくれさせるにしても、限度をわきまえ、怒るだけの力が残らないようにすること(彼女が縁を切りたがっており、いつでも怒りが生じうるようなときには)。彼女があなたを欺している場合、それを知らないと思わせておく。彼女の失敗をだれもが好みそうないい性質の名で呼ぶこと。

 

 そして、女性たちに対しては、衣装、化粧、会話でのかわいらしい失敗の仕方、歩きぶり、詩、踊り、姿勢、抑揚、遊び、公的な場面での振る舞い(夫の葬式で新しい夫を見いだすかもしれない)、欺しに対抗する欺し、宴会に遅れること、テーブルマナー、飲み過ぎた際にも手際よく扱われるようにすること、といったアドバイスを与える。

 

 マキャベリは戦争について、「支配者たちにふさわしい唯一の芸術である」と言う。同じように、オヴィディウスの愛に関する誇示的な指南書は、「愛は戦争の一種である」(militiae species amor est)という原理に基づいている。「傷ついたときにのみ愛することができる」(non nisi laesus amo)と詩人は告白している。そして、マキャベリは、その政治学を、運命に関しては用心するよりは冒険的であった方がよく、というのも、運命とは女性であり、「彼女を従わせておきたいと望むなら、ひっぱたいてこき使わねばならない」と締めくくっている。

 

 実際、どちらの本も優位に立つための修辞に関わるものであり、恋愛のおける説得の原理は、力よりはむしろ欺瞞に依っている。しかし、我々の目的にとって注目すべきは、どちらのレトリックにも、強い「行政的な」要素が含まれていることにある。説得は厳密に言語的なものには限定できない。シンボリズムと範囲の限定された経験的操作の混合である。例えば、スタンダールの恋愛論は少しも修辞的ではない。スタンダールの恋愛の修辞ということでいえば、むしろ『赤と黒』に赴くべきだろう。そこでは、オヴィディウスのように、恋愛は戦争の一種だという原則にのっとって作品が展開している。しかし、スタンダールの『恋愛論』の根底にある基本的な原理は、「結晶化」という「相手に向ける」ことのほとんどない純粋に「内的な」概念であり、最愛の人という観念から生じる一種の融合(意識的にも無意識的にも感傷的な)を名づけた完全に「象徴」に属するものであって、説得の目的のための策略よりは、恋人の心のなかに花開くことで伝えられる。

 

 我々は次のように言えるかもしれない。恋愛する者と支配者が扱わねばならない非言語的、非象徴的条件は、それ自体、説得の効果をもつ一種のシンボリズムと見ることができる。例えば、軍事力は実際の戦闘における使用と同様に、それのもつ「意味」によっても説得ができる。この意味において、非言語的な行為と物質的な道具にも象徴的要素が含まれる。この観点は、ある政党が大多数の投票者の好みに合わせようと努める際の、官僚的修辞を扱うときに特に必要となる。そうした場合、行政的な行為自体、単に「科学的」であったり「操作的」であるばかりでなく、眼に<訴えかける>よう考えられている。警官の棍棒と男性器を「いやとはいわせぬもの」として扱うよくあるジョークには同じ原則が働いている。非言語的条件や対象が、それを「向けられた」人々にとって、本来説得的な「意味」をもつ記号として考えられているからである。

 

 マキャベリは、超自然主義がつきまとっていた正統性の概念とは対照的に、動機について自然主義的な用語を用いたことで、通常、現代的な政治「科学」の創立者の一人として扱われている。しかし、この単純な二項対立では、『君主論』を正確に位置づけることはできない。一つには、神学的な考え方を取り、ラ・ロシュフーコーの場合と同じように、マキャベリは「失墜」以後の人間に典型的な動機を扱ったのであり、彼の自然主義は超自然主義の系列から全く外れるものではないと言う必要がある。しかし、多くの者がとる、自然主義<対>超自然主義という観点で『君主論』を考えることは、その本質にある修辞的要素を認められなくしてしまうのである。ここで再び我々は、現在の科学についての見方が、方法論的に、レトリックとの関連のうちに考えられないことによって混乱している事実に行き当たる(科学を鈍感に宗教や「魔術」と対立させる間違いである)。修辞的動機が科学的でないなら、それは宗教や魔術に日々適用されるものでもない。通常シンボルによって交流している存在者の行動を促すのにシンボルを用いることは、その語のもっとも実際的で実用的な意味合いにおいて、本質的にリアリスティックである。ある人間が他の人間に助けを求めることは「魔術的」でも「科学的」(また、儀式でも単なる情報でも)でもない。それゆえ、魔術と科学という陳腐な二項対立によって問題に取組むことは、自動的に間違った誓いを立てることになる。

 

 とりわけ、レトリックを視野に入れて書物に取組むことは、その<形式>を適切に考慮するに際して必要である(そして、形式を取扱う能力は、常に批評方法についての主要は検証法である)。かくして、最近、エルンスト・カッシーラーは『国家の神話』のなかでマキャベリについて非常によい考察をしたが、修辞の原理を加えた修正や洞察なしに、科学の用語だけで過度に単純化しているので、書物の構造を考察する試みにおいて完全に混乱している。彼は最後の章を不調和なものとして扱うことに終始している。ガリレオの天体運動の法則に関する書物の最初の方の章が、後の章とうまく適合しないように、『君主論』の最後の章については、それが残りの部分と適合すると考える者による証明を待つしかないと結論している。修辞的に考えれば、彼の挑戦を受けて立つことができる。

 

 最初の二十四の章は、政治権力を掌握し、行使する典型的状況について論じられている。そうした状況、その条件に最適の戦略について分析的に述べられている。かくして、それらはみな、『動機の文法』で我々が場面−行為比率と呼んだものの変種である。結局のところ、そこで述べられているのは「ここにはこれこれの場面に適切な種類の行為がある」ということである(場面は変わっても、政治的支配を保とうという支配者の欲望は変わぬ目的である)。

 

 しかしながら、最終章の前の章において、マキャベリは論点を変える。そこで彼が指摘するのは、ある状況下で支配者のいかなる行為が被支配者に対して最も説得的な効果を及ぼすかについての見解であり、民衆は場面の諸条件と常に調和した行動をとるわけではないことを見てとっている。民衆はまた、その本性や気質に従って行動する。かくして、ある人間は、場面が注意深さを要求したからではなく、本性上注意深いので、注意深く振る舞うこともあり得る。逆に、もしある人間が本性上冒険心があったら、状況が注意を求めているときでさえ、本性に従い、大胆に冒険的に行動するかもしれない。『文法』において我々はそうした動機づけを行為者−行為比率のもとにまとめたが、それは結局のところ、「これこれの人格に適切な種類の行動がある」ということである。

 

 しかし、歴史には、マキャベリが言うように、二種類の動機が共に働くような幸運な瞬間が存在する。場面の条件はある種の行為を要求する。そして、支配者が、たまたま同じ行為をするような気質や性格をもっているということがあり得る。そうした幸運な一致があるとき、場面−行為比率が行為者−行為比率と共に完璧な姿であらわれる。

 

 形式的な破綻どころか、この最終章の前の考察は、最後の「イタリアを野蛮人から解放する勧め」への完璧な移行を形づくるものである。というのも、この章は「いまがそのときだ・・・」という調子で終わっており、行為者に向けて、時機にも本性にもあった行為を求めているからである。その行為者とは、イタリアを囚われの状態から取り戻すことのできる支配者であろう。こうした状況では、支配者と被支配者とは、国を解放することで、それぞれの仕方で利益を得るのであるから、究極的な<同一化>の土壌ができあがっていると言えよう。

 

 事実、最終章には、他の章には見られない祈りにも似た高揚がある。前の章がある種<教育的修辞>であるなら、熱のこもった最終部は<有用な修辞>となっている。しかしこれは修辞形式としては標準的であり、伝統的な終わり方である。不格好につけ加えられたどころか、先行する章からの動機づけの転換を非常に手際よく<成し遂げている>。

 

 その本性に特徴的な行為が状況に最適な行為でもあるような支配者があるとき、我々はその幸福な組み合わせを偶然や幸運のせいにすることができる。ここで、再び、科学<対>魔術の対立を強調することで誤解が生じうる。事実、諸要素の運命的な一致に言及することは、不可避的に「意図」の意味合いを生じさせることとなろう。それゆえ、気質と時機とが適合した支配者をつくりだした「幸運」は、科学とは異質な運命の意味合いで捉えられることになろう。マキャベリの議論を通じて、こうした宇宙的目的に関するメタファーが行き交っているのを見いだせる。しかし、それらは中心的な問題ではない。中心的な問題は、気質と外的条件との思いがけない適合であり、「不運な」結びつきは支配者が適切な行動をとることを妨げるのである(キケロが、理想的な雄弁家はあらゆるスタイルにおいて完成しているべきだが、人間としての限界が実際にはその範囲を狭める、と言ったことに幾分通じる)。

 

 マキャベリの関心事は、ラ・ロシュフーコーの『自然と幸運の手本について』で明らかにされている。「幸運とは、変わりやすく気まぐれではあるが、自然と共にあるときには変化と気まぐれを捨て、両者が協力したときに、後代の手本となるような特異で非凡な人間が生みだされるように思える。自然が諸性質をもたらし、幸運がそれを働かせる機会を与えるのである」と彼は言う。「自然」で意味されているのは、明らかに、人間性、人間の行為者としての能力である。「幸運」は場面の条件であり、人間の意志ではどうにもならないものを課する。彼は行為者と場面との適合を「<自然と幸運の一致>」と呼ぶ。

 

 状況に最適な戦略をとるのに合った、あるいは合わない気質をもつ人間を形成する「幸運な」あるいは「不運な」出来事について考えるとき、カーライルが歴史的英雄について行なった「神秘化」に似た、運命的宇宙的企図を結局のところ仮定することになるかもしれない。そして、魔術と対立するものとしての科学にあまりに大きな関心を払うと、そこに重要な点が含まれると考えるようになるかもしれない。しかし、この書を「行政的レトリック」の手引き書として扱うことによって、本来この書が属している場所を指し示すことができる。自分の本性の表現に最適な行為を選ぶというよりはむしろ、状況に最適の行為を選ぶことのできる雄弁家の能力という問題である。

 

 同様に、マキャベリの<語彙の選択>についての適切な取り組み方は、もっぱら科学の用語として扱うのではなく、レトリックの考察を通じて行なうことにある。(我々は、彼による君主の美徳と個々の市民の美徳の間の逆説的な区別、あるいは、政治的行動を、すべての人間は「恩知らずで、移り気、不正で、臆病で、欲張り」だという仮定のもと行なうべきだという提案を心に留めている。)マキャベリはそこで、アリストテレスの『弁論術』の論点の新たな適用を行なっているのではないだろうか。アリストテレスが言っているのは、つまるところ、我々は内々には貪欲さが動機であることを認めるが、公的には同じ行為を自己犠牲として考える、ということにある。しかしながら、アリストテレスマキャベリの間にはさまるキリスト教の用語では、公的で自己犠牲的動機は<恩寵>に関わり、貪欲さからの動機は失墜後の<原罪>に帰された。キリスト教的説得においては、かくして、アリストテレスの修辞的区別は、弁証法的に、まさに事物の本性としてあらわされた。そして、ある人間が真にキリスト教的動機によって染められているなら、彼の<個人的な>美徳は、個人において養われたものであるにせよ、人類<全体>の利益となるものであろう。

 

 しかし、マキャベリは異なった種類の普遍性に関わっている。彼は、人間は<普遍的にお互い争うもの>だという原理から出発する。それゆえ、略奪や戦争に関連した動機が重視されることになる。彼は<特殊な>利害を守ろうとする動機に関わっているのである。『君主論』の書かれた時期は、封建支配者の利害が<国家として>画定され、一国家は他の国家に<対立する>と考えられようとする時期だった。

 

 現在では、国家的動機は、個人的家庭的動機から、地域的、国家的、国際的、普遍的という動機の位階に位置づけることができる。このように配列されると、国家的動機はそれぞれの異なった秩序にあって、争い合うよりもむしろ補い合い、互いに完成し合うものと考えられる。しかし、君主や、それと同一視される国家が、他の君主や国家の利害と、また、王国内の党派の利害とも対立すると考えられると、支配者の「美徳」は人類全体(普遍的協同による理想的な国家)の利益となる「美徳」ではあり得ない。同様に、マキャベリの考え方を政治から個人的関係に移してみると、個人とは他の個人に、支配者が被支配者に対するように関係している(あるいは少なくとも、支配者であるつもりの者と被支配者ではないつもりの者との関係として)——ここでも再び、マキャベリの適用する動機の分裂が当てはまる。

 

 国家の同一性が一度確立されると、それを個人のように扱うことができる。それゆえ、個人の場合と同じく、その条件は犠牲としてあらわすことができる。かくして、『君主論』の場合、前半の章では取得本能が描かれている。しかし、最終章で、一国家としてのイタリアの救出を見やる個所では、犠牲的な調子があらわれる。「イタリア精神の美徳」は抑圧され、奴隷とされ、「頭部もなく、秩序もなく、打ち据えられ、略奪され、引き裂かれ、侵略され」ることでばらばらになり、「あらゆる荒廃」に耐えている。そこでイタリアは、「こうした不正で野蛮な暴虐から解放してくれる人間を遣わしてくれるよう神に嘆願している」。そして、「誰かが旗を掲げさえすれば、喜んでついていく準備はできている」。これが、エルンスト・カッシーラーが前半部分と不調和だとした最終章での論調の転換である。

 

 最終章において、普遍的、犠牲的動機は、競争的目的のために採用される。受難のキリストのもとでの人類の統一というキリスト教のヴィジョンは、受難のイタリアのもとでのイタリア人の統一というヴィジョンに変わる。イタリアは実際に侵略されているので、この類推は帝国主義者の大げさな言葉づかいで無理やりになされたものではない。(例えば、「容易ならぬ世界的責任を受け入れる」、あるいは「国際的契約の粛々とした遂行」といったスローガンが反動的政体の助けを借りることを意味し、そのもとに帝国を打ち立てる場合と比較せよ。)しかし、征服のためにしろ、征服者に対抗するためのナショナリズムの発揚にしろ、どちらの場合にも支配者と被支配者との同一化の可能性がある。それゆえ、新たな秩序をもたらす新たな君主は、「栄誉を担い、国民に対しても有能であろう」。こうした支配者と被支配者との同一化に際して、マキャベリは、個人的には取得の動機を、公的には犠牲をあらわす支配者の修辞的機会を提示したのである。

 

 マキャベリは、ある部分、陰謀家たちとの共同作業となる政治的協調に関わっている。陰謀が現実にある場合、普遍性はしばしば虚構たらざるを得ない。マキャベリの両義性は、かくして、ある部分では普遍的協調の目的に適合し、ある部分では陰謀に満ちたナショナリズムそのものの両義性である。両要素の比率は変化し、陰謀的動機は現在国際関係において通常見られないほど強いが、なかでもヒットラー国家は現代において最高度に高い陰謀的要素を含んでいると言えよう。支配者そのものが謀議の結果である。そのパターンは、どれほど小さいものであっても、あらゆる政治的、社会的組織で繰り返し実行される。仕事場、共済組合、大学それぞれに共謀する小さな徒党がある。共謀は息をするのと同じくらい自然である。そして、優位に立とうとする闘争には常に修辞的緊張が伴っているので、その体系的な考察が修辞学の学徒には課されていると思われる。実際、マキャベリがそのあらゆる動機において、まったくの黙認でもまったくの忌避でもなく、できる限り正確にそして平静に吟味することで、当時の無秩序を超越しようとしたことは我々に最も有効に役立てられるのではないだろうか。