ブラッドリー『仮象と実在』 163

[真の見方が述べられる。]

 

 精神と物質との因果的な関係ということで、それそのままであるとき、一方が他方に影響を与えるということが意味されているのではないことを言っておこう。魂そのものが身体に働きかける、身体的状態そのものが魂そのものに働くことが意味されているのではない。その種のことが可能であるならば、後に探求することになろう。しかし、それを現実的なものと見る根拠が私にはわからないのは確かである。通常、我々が出会う出来事には二つの側面があり、それら二つの側面は一緒になっていて分離はできず、それに続く出来事の原因となっていると理解される。何が結果なのだろうか。身体のある状態とともにある魂のある状態であるか、むしろ、精神と直接的な関係にあると考えられている我々の有機体のそれぞれの部分の状態と言った方がいいのだろうか。そして、我々が原因といっているものはなんだろうか。それは同じ種類の二重の出来事であり、二つの側面をもち、両者が統一して結果を生みだす。結果である精神の変化は、単一で、独自に働く精神や身体の結果ではなく、両者が同時に働いた結果である。それに伴う身体の状態もまた、二つの影響の産物である。単に身体だけ、あるいは魂だけによってもたらされるものではない。それゆえ、一方の側面でできた差異は、他の側面に差異をもたらさねばならず、次に続くものの両側面にも差異をもたらす。この言明は後にある留保をつけられることになるが、魂の出来事の因果的関係は、一般的に、分離不可能に二重になっている。

 

 生理学や心理学では、実践においてはこの複雑な関係は無視されている。我々は便宜上、原因や結果を、現実における顕著な条件と帰結としている。そうした現象の削除は先へ進むにはなくてはならないものである。我々は心的な出来事としての結論が諸前提の結果であるような知的順列について語る。我々は先行する心的状態が真に原因であって、単に状態の一部ではないかのように語る。端的に、どちらの側においても継起は規則的であり、それらを独立したものと見なす。そして、不規則性が我々の注意を引かざるを得ないところにのみ、身体と精神が互いに干渉し合っているのを認める。しかし、この点において、実際上の便宜は、我々を難点に陥れることに気づいていない。我々は独立してあったものが、どのようにしてその道をそれることになったのか、理解するのに困惑する。我々は影響を与え、また被るような原因を探し始める。これによって我々は誤った理論、破滅的な錯誤への道をとることになる。

 

 真実は、単なる心的な順列は事実ではなく、いかなる意味においても存在しない。その各成員が常に物理的出来事に結びつけられ、それらの物理的出来事が因果関係とすべて結びつくようになる。精神、あるいは身体の状態は、決して部分-原因、あるは部分-結果以上のものではない。我々はどちらの側にも注意を払うことができるが、それは我々の目的がはっきりとしているからである。他の側面の行動は恒常的で規則的なので、無視することができる。しかし、双方が結果に真に寄与していることは否定できない。かくして、我々は身体に影響を及ぼす感情や観念について語る。影響を及ぼしていると言えるのは、身体的な結果に差異をもたらし、この結果は単なる身体的原因からの帰結ではないからである。しかし、他方において、感情や観念は身体と独立して行動したり存在したりしない。身体的状態が変わることは、心的身体的双方の諸条件の結果である。我々は同じ二重性を魂の変化を考えるときにも見いだす。感覚が入ってくることは身体に原因をもつものと見なされるかもしれない。しかし、この観点は、一般的にとると、一面的で不正確である。顕著な条件はより抜かれ、他は無視される。そして、先行する心的状態の影響を無視するなら、許容しうると認可したものを再び間違いに押しやることになる。

 

 魂とその有機体はそれぞれ現象的な系列である。一般的にいって、それぞれが他方の変化を含み込んでいる。それらの想定された独立性は、それゆえ、想像的なものであり、意志のような能力を引き合いに出してそれを克服しようとすることは――虚構によって錯覚をいやそうとする努力である。あらゆる心的状態において、我々は一方を無視するにしても、二つの側面を扱わねばならない。かくして、「観念の連合」においても、我々はそこに身体的な順列が本質的に関わっていることを忘れる権利はないのである。連合の法則は、身体的要素と心的要素との関わりを形づくるために、拡張されねばならない。それらの現象の一方は、再出現において、他方の側に戻されるのかもしれない。この場合、一度は身体的なものと結合していた心的状態は、通常それを蓄えておくことができる。それゆえ、この心的状態は原因として扱うことができる。それはすべての原因ではないので、正確な意味での原因ではない。しかし、ほぼ確実に実際上の、他と異なる原因である。身体的出来事は単なる身体的状態の結果ではない。そして、観念や感情がない場合、あるいは、それらが働いていない場合、この身体的出来事は生じなかっただろう。

 

 私はこうした発言が説明になっていないことには気づいているが、最終的に私が主張するのは、いかなる説明も可能ではないということなのである。合理的な探求の方法は数多くある。魂のある「座」を尋ね、身体的心的なもの双方の最終的な順列や共存のあり方が正当で必然的なものであるかを尋ねることがある。我々は部分的にはそうした問題を解決することができないかもしれない。しかし、いずれにしろ、そうした問題は、ここでどれだけ求められることが少なかろうと、本質的に回答可能である。しかし、身体と魂の関わりについては、本質的に説明不可能であり、「いかに」に関するさらなる探求となると非合理的で希望がない。というのも、魂と身体は実在ではないからである。それぞれ、人為的に全体から抽象された系列であり、すでに見たように、どちらも自己矛盾している。最終的にはどのようにしてそれぞれが存在するようになるか理解することはできないし、理解したとしても、両者とも現にあるように変化したことを知るだけだろう。それぞれが自らにとって真ではない性格に固定されているので、それらを理解することはまったく不可能である。しかし、もしそうなら、それらがどのように結びつくかも理解不可能のままであるに違いない。