ブラッドリー『仮象と実在』 165

[どこまで身体と魂は独立しているのだろうか。]

 

 しかし、先に進む前に、考えておくべき点がある。魂の状態は、部分的であっても、先行する状態に常に続くものではないと思われる。単なる身体的な諸条件の配列が心的生のすべての根源を与えるように思える。また、魂が一時とどめ置かれ、再びあらわれるときには、その唯一の原因は身体にあると思える。私は魂の起源についての問題を扱い始めているのだろう。第一に、単なる身体は人為的な抽象物で、精神と分離することは全体のなかに消え去ることであることを思い起こさねばならない。抽象が認められ、その基礎の上に立つとしても、それでも魂と関係のない何らかの物質が存在するかどうかは確かではない(第二十二章)。さて、こうした考察を思い起こしてみても、身体的な諸条件が心的生の起源であり得ることを否定するなにかを探る必要はない。我々はある瞬間には物質的な配列をもち、次の瞬間にはその配列が変化し、それにはある程度魂が伴っている。それが事実としては起こらなくとも、最終的にそれが可能であることを疑う理由は見いだせないし、我々が前に提示した考え方と衝突するとも思えない。しかし、我々は誤解には注意しなければならない。第一に、高度に発達した魂が、一度に生じることはほとんど信じることはできない。第二に、単なる物質の帰結である魂は、他方において、この物質に対し性質づけると同時に反応もすることを思い起こさねばならない。単なる身体は、ここにおいてさえも、決して剥きだしの精神に働きかけない。出来事はある瞬間にはひとつであり、次の瞬間には二重になる。しかしこのに様の結果において、各側面は互いに差異を含み、差異を生みだす。それらは結合した出来事であり、それに続くものは受動的であれ能動的であれ、それぞれだけでは何ものでもない。魂は決して単なる魂ではないし、身体は、魂が生ずるやいやな、もはやそのままの身体ではない。このことが理解されたとき、我々は魂が身体的起源であることに同意できる。しかし、魂の物質的原因は決してすべての原因とはならないことを思い起こさねばならない。物質は実在の一面の現象を孤立させたものである。物質的配列から生まれる出来事は実際には諸条件の全背景を前提とし、依存している。単なる物理的な原因が存在すると想定されるのは、選択と認可によってのみである(1)。

 

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 同じ結論は魂の一時停止を考えるときにも得られる。有機体の心的生は、多かれ少なかれ、消え去り、再び復活するが、この復活は単なる物質の影響によるものかどうか問う必要がある。ここでは、事実に関わるものと可能性に関わるもの、二つの問題を区別した方がいい。第一に、心的な働きが完全に終わっているような場所があるかどうか確かめるのは不可能であると思える。似たような現象がないことから、程度と種類が違うあらゆる似た現象がないことを結論することができないのは確かである。事実としては有機体のどこかに魂が宙づりにされているかどうかは、私は知っているとは言わない。しかし、議論のためにそうだと仮定したとしても、新たな難点に導かれることはない。身体的な諸条件が心的結果の起源であるところには、もうひとつの事例があり、この点について我々が議論を付け加える必要はないだろう。魂がその間にもありはするが、存在することをやめるということについてはすでに考察した。

 

 こうした未決定が起きるところではどこでも、心的な連想は単なる身体的なものとなるように思える。心理学であるつながりには、かつては意識的であることが確実あるいは可能であったが、いまではある部分、あるいは全体が、常にあるいは時々、なんら心的なつながりなしに偶然にあらわれることがある。しかし、いかに心理学にとっては興味深いことであっても(1)、こうした事例は形而上学にはほとんど重要ではない。ここでは以前の警告を繰り返すことで満足することになろう。第一に、魂における無意識の過程をすべて除外するなら、我々の根拠を確実にするのは容易ではない。そして、それらを排除し、剥きだしの身体だけを残されても、その身体は比較的剥きだしであるだけである。問題となっている魂が不在であるようななにかには到達するが、魂が完全に不在だとは言えない。というのも、自然のいかなる部分といえども、魂や諸魂と有機的に直接につながっていないと言えるようなところはないからである。単に物理的だというのは、すでに見たように、単なる抽象である。それは経験全体とかけ離れていながら、それに依存している。

 

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 簡単にもうひとつの点に触れよう。我々の考え方は、物質や精神の諸法則と干渉し、あるいは保留されているといって反論されるかもしれない。そして、そうした干渉はまったく弁護できないと主張されるだろう。この反論は誤解に基づいているように思われる。真であるあらゆる法則は常に、また永久に真である。しかし、他方において、法則とはまさしく抽象である。それゆえ、明らかに、あらゆる法則は抽象のなかでのみ真である。諸条件を変え、より具体的な関係をもついくつかの要素を付け加えると、法は超越される。それは干渉するわけではなく、維持されているのだが、この事例においては当てはまらない。法は完全に真のままであるが、仮定される諸条件がないところでは適用可能ではなくなる。



 私は身体と魂の関わりについて長居を続けたが、まだ論じていない一連の問題がある。それらを簡単に処理するよう努めねばならない。魂それだけが身体に働きかけることがあると言えるか、魂は物質がなくとも存在できるものなのか、もしそうなら、いかなる意味においてであるか。我々の経験では、魂それだけが見いだされないことは確かである。その存在、その行動は物質と切り離すことはできない。しかし、問題は明らかに、なにが可能であるかという点に関して問われうる。それに関しては、もし剥きだしの魂が存在するなら、その存在をいかに証明できるかほとんど理解できないということから始められよう。我々は物質の多様性に限界を設けられないことをすでに見た(第二十二章)。にもかかわらず、広がりのある有機体は広範囲に散らばり、非連続であるかもしれない。また、有機体は魂の間で全体が、あるいは部分的に共有されているかもしれない。さらに、拡がりのある物質で身体が構成されているにしても、その可能な働きや属性の問題は残る。一方において、我々はその限界をどう定めればいいのかわからない。しかし他方において、もしそれができないならば、どんな過程で、剥きだしの魂の存在を推論し始めればいいのか私には理解できない(1)。この限りでの我々の結論は次のようにならねばならない。身体と離れて行動する、あるいは存在する魂が可能であることは同意できる。しかしそれが実在であることに関しては、ほんの僅かの根拠もいまだ手にしていない。

 

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 しかし、そうした魂は実際に可能なのだろうか。まず、そうした魂が何を意味するのか問うた方がいいだろう。というのも、あらゆる拡がりから切り離したとしても、裸ではないこともありうるからである。拡がりはないが恒常的な、二次性質の配列も想像できる。それは心的な生を伴い、身体として仕えているかもしれない(268ページ)。我々にはこの観念をまじめに受け入れる理由はないが、他方において、それが不可能であることを証明するような議論があるだろうか。剥きだしの魂に関しても同じ結論に達するだろう。それは有機体として役立てるようなあらゆる性質を欠いた心的系列を意味することになろう。もちろん、非物質的で、同時にその居場所が特定され、拡がりをもつような「精神」があるとすると、それ自体において不整合ということになろう。そして、そうした自己矛盾に落ち込む必然性はない。空間において拡がりや場所をもたない心的系列は考え得るものである。そしてそうした剥きだしの系列は、我々が知る限り、普通に、あるいは時折身体に影響さえする。いや、私が知覚できる限りにおいては、そうした剥きだしの魂はそれ以上のことをすることができる。魂が物質的な諸条件に続くことがあり得るように、出来事の過程において、ある種の物質が魂の結果だということもありうる。これらすべては我々の知識のなかでは「可能」であり、そのどれも非実在であると証明することはできない。しかしそれらは単なる無益な可能性である。それらを得るためのさらなる根拠が見つかるわけではないし、可能性を評価してもそれに確かな価値を与えることはできない。そして、それを真と捉える理由がそれ以上ないということは、我々が骨を折って考慮する必要のある何ものもないことは確かである。事実、それを全体として非存在物として扱う以外に選択はない(1)。

 

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 我々はいま、魂と身体との一般的なつながりを論じている。そのどちらも実在ではないことを見た。それぞれが現象の系列であり、時間内の出来事としてその成員は因果的に関連している。その一方の順列における変化は、他方の変化と切り離すことはできず、影響を受ける。身体と魂が関連している限り、これが物事の通常のあり方である。しかし、探求を続けていくと、我々は相違を見いだした。剥きだしの魂の存在と行動は単なる可能性である。それを信じるべきさらなる理由はない。また、事実だとしても、そうすればそれを発見できるのかどうかわからない。しかし、単なる身体の存在、その帰結としての魂のあらわれ、また、心的関連が部分的に不在、あるいは中断していることで、我々は可能以上のものを見いだした。正しく解釈すれば、それらが事実とは証明できないまでも、非常に大きな蓋然性をもっている。結局、単なる物質が直接的に心的な状態に働きかけることを想定するほんの僅かの根拠も存在しない。こうした特徴をすべて備えた関連について正確な観点を得ることはきわめて困難である。しかし、形而上学にとって重要なのは、そうした細部への関心が二次的なものであることを明確に理解することにある。いずれにしろ、現象の系列は絶対において一緒になるので、その特殊な性格はそこで失われねばならず、それらを超越するもののなかに溶け込んでしまうので、身体や魂それ自体の存在は幻影である。それらの分離は特殊な目的のために使用されるかもしれないが、最終的には非実在、あるいは暫定的な抽象である。

*1:(1)単なる魂が物質に働きかけることができ、あるいは物質を生みだすこと ができるかどうかは後に考察することになろう。

*2:

(1)心理学は、便宜に適う限りにおいて、魂を中断するもの、あるいは一般 的に不在のものとして扱う権利があると言える。その他制限があるかどうか私 には疑わしい。

 

*3:(1)これ以上の議論は「スピリチュアリズムの証明」Fortnightly Review, No.ccxxviii.

*4:(1)こうした価値のない空想は実際なんの興味ももたらさない。死後の魂の 継続は来世のことに関わることになろう。可能についての一般的な性質は、第 二十四章、第二十七章を参照。