ブラッドリー『仮象と実在』 166

[諸魂間の交流、その性質。]

 

 この章を終える前に、魂と魂の関係について述べておく必要がある。魂の間のコミュニケーション、またその同一性と差異は、我々が間違いに関して注意深くあらねばならない点である。第一に、経験が互いに分離されることは確かである。その内容の多くがいかに同一であっても、他方において、異なった感情の中心における諸要素としては異なったものとしてあらわれる。有限な存在の直接的経験は、そうしたものとして一緒になることはできない。最終的には、別の精神による個人的なものを直接的に所持することは意味をなさないだろう。かくして、魂は、少なくともある意味においては離れている。しかし、他方においては、それらは互いに働き合うことができる。実際、それらがどう影響を与えるのか探り始めることになろう。

 

 魂の魂に対する直接的な働きかけは、我々の知る限り、可能である。しかし、同時に、それをそれ以上のものだと見なす根拠はない。影響を与え、働きかけるのは、我々の知る限り、常に身体の外側においてである。異常な知覚や距離のある影響を認めたとしても、この結論を変更する必要はない。というのも、自然な推論によれば、空間に拡がる媒体があり、もちろんそれは「エーテル」のように物質的なものだからである。こうしてみると、異常なつながりはもし存在したとしても、普通のつながりとなんら違いはないことになる。また、有機体の内部にあるものが直接的に他の内部に働きかけることがあるかもしれない。しかし、もしそれが可能でも、それゆえにそれが現実だ考える必要はない。またそうした探求は重要な形而上学的関心を引くようなものをもっていない。身体であろうと魂であろうと、内部的なものの影響は同じように効果的で、というのも、それは外部を通じて、またそれとともに働くからである。現実には、直接的であることで力を得るのではない。このことで、迷信からとられている観念を捨て去ることができるが、そこからはなんの重要性のある結論も引きだすことはできない。魂間の直接的なつながりを我々は不可能と言うことはできないが、他方において、それが存在すると仮定するための正当な根拠を見いだすこともできない。加えて、この可能性には何も関心を引くものがないように思える。



 魂は、身体を通じて以外では、互いに影響を及ぼすことがないと仮定できる。それゆえ、それらがコミュニケートできるのは、この方法によってだけである。私が自分の身体と呼ぶ現象の集合を変更することは、物理的環境においてさらなる変化をもたらす。かくして、間接的、あるいは直接的に、他の有機体はそれが伴う魂の道筋に影響を与えることによって変わってくる。私の魂について真であるこの見方は、他の魂においても成立する。世界とは、我々が同じ知的構築物としてつくりあげることのできるものである。多かれ少なかれ我々はある組織をつくりあげ、そこでは誰でもが自分の場所、恒常的で秩序ある組織をもち、それぞれの知覚者によって把握される諸関係は一致している。なぜ、またどのようにしてそうなるかは、最終的には我々には理解できない。しかし、そうした自然の斉一性がコミュニケーションを可能にする(1)。

 

*1

 

 しかし、このことはある疑いを我々に示唆する。我々の内部にあるものを導く唯一の手段が身体の変更ならば、最終的に我々が本当にそれを導くことができるのは確かなのだろうか。というのも、我々の多様な魂の内容が根本的に異なっているなら、同じ土壌において同一性を確かめることは可能ではないのではなかろうか。この反論は重大で、部分的には正しいと認めねばならない。我々が知覚する諸性質が誰にとっても同一だと確かめられるとは私は思わない。我々の構造が外見上同一であるからそうだと推論しているのである。そして、我々の結論は、証明はされないが、高い蓋然性をもっている。また、事実、諸関係が一定であるのに、諸性質が変化することは不可能だろう。しかし、このことを主張するのは、我々の知識の限界を超えることになろう。しかしながら、我々が確信しているのは、簡単に言えば、我々は理解し、また、我々自身理解されるということである。実際、他の身体がどんな魂をももっていない(2)、あるいは、我々を理解しているかのように振る舞っているが、その魂は実際には我々から切り離された世界にあるという理論的可能性も存在する。しかし、単なる可能性に過ぎないこの説が排除されると、問題は次のようになる。共通の理解が認められるなら、それにはどれだけのものが含まれるのだろうか。我々がそこに含まれると想定する最小限の同一性とは何であろうか。

 

*2

 

 この問題を詳細に追い求めることは興味深いことかもしれないが、ここでは簡単に答えを示すことで満足せねばならない。主として、我々は我々の内的な世界が同一であるかのように振る舞っているのは事実である。そして、この事実は、各人にとって、内的な組織が一致していることを意味する。すべてのこまかい細部にまでわたって、ある秩序が同じ結果をもたらしているに違いない。しかしもしそうなら、さらに進み、各人は同じだと結論できるかもしれない。そのとき、一致する体制が認める多様性はどれほどのものとなるだろうか。我々の知る限り、細部は違うかもしれないが、原則は変わり得ないと答えねばならないと思われる。ある点を超えると、もし法則と組織が同一なら、それらは現実的に同一でなければならないと思える。感覚的な諸事実からより高次なものへ移り、我々の原則をより広くとるようになればなるほど、我々はこの同一性に近づいていく。かくして、感覚される諸性質は、一端においては大きく異なるが、他方の端にのぼってしまえば、同一だと仮定せねばならない。そして、この両極端のあいだを進むごとに、蓋然性は同一の性格から帰結する一致へと向かう。たとえば、我々が同じ味覚と嗅覚をもつことよりも、一般的な道徳性を共有することの方がありそうなことである。これによって、難解かつ興味深く思われる主題から離れることになるが、それは形而上学にとっては二次的な重要性しかもっていないからである。多様性がどれほどあろうと、それが第一原理にまで拡がることはありえない。あらゆる多様性は絶対のなかで一緒になり、変容する。

 

 しかし、自然な間違いについては簡単に注意をしておくべきだろう。我々の内的世界は互いに分かれているが、外的な経験の世界はみなに共通だといわれる。この基本に立つことによって我々はコミュニケートできる。こうした発言は不正確だろう。私の外的な感覚は私の考えや感情と同じく私的なものである。どちらの場合も、私の経験は私個人の領域、外側には閉じられた領域のなかにある。その要素と同じく、その領域についてもそれを取り巻く他人には不透明である。コミュニケーション可能という点についていえば、事実、そこに種類の相違はなく、程度の相違があるだけである。いずれの場合にも、コミュニケーションは間接的に、我々の外部にある媒体を通じて行われなければならない。確かなのは、ある確実な要素を用いれば、表現方法はより短くなり、間違いが少なくなることも可能だということである。また、知覚の共同体を守る諸条件はある種の要素とともにより安定し、より我々の支配に従うようになる。十分明らかだと思うが、我々の身体的な経験が統一性をもち、我々が内的と呼ぶ世界といかなる意味においても相容れないというのは真ではない。また、実際においても、内的な経験よりも外的な経験の方が常に伝えやすいということはない。端的に言って、魂のなかにあらわれる存在に関していえば、それぞれに特殊であり、魂に私的なものである。しかし、他方において、内容の同一性を考え、それに基づいて個別な存在を越えるならば、原則として、内的なものと外的なものとの間に相違はないことになる(1)。外側から検分できるような経験は存在しない。同一性の直接的な保証は可能ではない。同一性の知識、コミュニケーションの方法は、どちらも間接的で推論によるものである。それらは身体の変化について巡回しておらねばならず、そのシンボルを使わねばならない。魂の共通の規則が内部からの何らかのメッセージを与えることができるなら、そうしたメッセージは身体の変化による以外に伝えられることはありえない。あらゆる魂がそれによって生き動く観念的内容の真の同一性は、外的なあらわれを通じることなしに共通して働くことはありえない。

 

*3

*1:(1)第二十二章参照。私の見る限り、他とコミュニケーションする手段をもたな い数多くの魂の組織が存在するかもしれない。この点については、いかなる判断手 段もないが、そのように思える。

*2:

(2)私の魂が存在するあらゆる経験を含むことが可能だといっているわけではない。

 

*3:(1)もちろん、外的な経験がまさしく外的であるには、単なる感じの状態を越え ていなければならず、内的な経験と呼ばれるものについてはその必要がないことは 確かである。しかし、このことは、部分的にしかこの問題に関連しない。