ブラッドリー『仮象と実在』 167

[多様な魂の同一性、性質と行動。]

 

 これとともに、我々は魂の同一性の問題に導かれることになる。我々は直接的な経験は個別なものであり、それとは反対の意見を擁護したいと思う者はまずいないであろうことを見てきた。しかし、いかなる点においても、二つの魂がまったく同一である可能性を否定する者はいるだろうと思う。この問題について我々の考えを非常に簡単に明らかにするよう努めねばならない。

 

 もちろん、二人の人格が二つではなくひとつであり、一般的に、差異は差異ではなく単に同一だと論じることは不条理であろう。こうした主張は間違いなく故意による逆説である。しかし我々が識別できないものの同一性の原理と呼ぶものは、まったく別の意味を持っている。それは同一性が差異とともに存在しうることを、あるいは別の面でいかに異なっていようと、同一はいまだ同一であることを意味している。すぐにこの原則をより明確にしようと思うが、最初に主張しておきたいのは、それを否定することは一般的な感覚を損なうということである。事実、それは意味を持ち得ない言葉を使用することである。というのも、心的な連想の過程はすべてこの基礎に基づいているからである。そして、より平明になろうとするには、我々の知性のあらゆる運動はすべてこれによっている。異なった文脈に同一性があることを仮定しようとしないなら、世界を理解するために一歩も進むことができなくなってしまう。変化や持続がなくなり、ましてや同一の物体の空間での運動などはなくなるかもしれない。差異のうちの同一性が実在であるという仮定を受け入れないなら、自己や事物はおろか、理解可能な事実もなくなってしまうだろう。この基礎となる主要な原理からは離れて、ある一瞬間における感じへと問題を限定すべきだろう。

 

 相似や類似に助けを求めても暗闇から脱する試みには無益なことだろう。というのも、類似自身、それを光の下で見るとき、多かれ少なかれ特殊化されていない同一性以外の何ものでもないからである。この点については別の場所で厭になるほど論じているので、とどまらない(1)。おそらく、そこに同一性の危険からの避難所を見ないなら、単なる類似にとどまろうとするものはいないだろう。そして、そうした危険は誤解の産物なのである。

 

 

*1

 

 もちろん差異は明白な事実であるのに、同一性は差異の否認を含むという考えがある。しかし、現実に同一性は、ある点においては差異を排除するが、別の点においては本質的にそれを含むのである。そして、これら二つの「観点」は観念においてさえ分けることはできない。差異の同一性がないなら、それらをひとつにししかも混同しないに違いない諸要素の統一がなければ、同一であることに何の意味もないであろう。同じように、差異は、それを否定してはいても、同一性を前提している。というのは、差異は関係に依存しなければならず、関係は同一のもとでのみ可能だからである。こうした真理を却け、盲目的に同一性を排除する差異によることは常識に合わない。ある事物が多様な時間と空間を通じて同一であるのに、通常の科学では誰も運動の実在を疑問視しない。同一である事物は常に異なっておらねばならず、異なっているものは、それゆえ、同一でなければならない――これは逆説として言明されるまでは逆説ではない。誤って、差異と同一性自体が現実には相違がないのだととられない限り、それは不条理には思われない(1)。こうした誤解を離れてしまえば、同一性に対立する根拠や理由は一面的で、非批判的な形而上学によってもたらされるに過ぎない。

 

*2

 

 この間違った対立はある真理に基づいているが、この真理は誤って理解され、誤りにねじ曲げられている。知覚されるもの、あるいは漠然と感じられるものは、事実は、この働きを通じて我々の前に頻繁にあらわれる原理である。最終的に、実在は自律的であり、全体を含んでいる。それゆえ、その存在は相対的ではなく、内容と存在の分離を許さない。つまり、相対性と自己超越、あるいは我々が同一性と呼べるものは、それ自体究極的な実在の性格ではありえない。このように進む限りにおいては、我々は同一性の反対者である。しかし、問題は、実際には、この前提に続く結論にある。我々の結論は、有限な存在は最終的には実在ではないはずである、ということにある。それは現象であり、絶対のなかで変容する。しかし、こうした結論は、明らかに、現象の世界のなかで同一性が非現実的だということを意味しはしない。したがって、多かれ少なかれ我々の対立者によって明示される結論は、我々のものと大きく異なっている。実在の自律的な性質から、彼らはいくつかの有限で、本質において共通するところのない多様な存在による実在を推論する(1)。しかし、すでに見たように、この結論はまったく維持しがたい。多数性と分離は関係を通じてのみ存在するからである(第三章)。別なものと異なることはすでにそれ自身の存在を越えなければならない。あらゆる有限な存在は、かくして、癒やしようもなく関係的で、観念的である。その性質は、多かれ少なかれ、特殊な「これであること」から外れてしまう。同一であろうが多様であろうが、どちらも他との共同によって形づくられる。有限な諸要素は分離するものによって結合し、結合するものによって分離し、分離も結合もどちらも観念的である。しかし、もしそうであり、この主張に対して何らかの回答が見いだせないなら、同一性が事実であることを否定するのは不可能である(2)。それが究極的には実在ではないことに我々は同意するが、そのとき、事実そのものが究極的ではなくなり、問題は現象的な存在の領域に限定される。差異そのものが現象に過ぎず、それ自体究極的でないのは確かだからである。こう答えて議論を終えられるだろう。相違もなく同一でもない事実の領域を示してほしい(と我々は主張する)。関係なしにいかに性質があるのか、あるいはどうして単なる存在が違ったものになり得るのか示してほしい。同一性が完全に捨て去られるや否や、差異はいかにして何らかの意味を保ちうるのか教えてもらいたい。同一性と差異が観念的でないなら、どのように存在しうるのか教えてほしい。同一性が実在ではないなら、経験世界のある部分がいかに共存するのか説明してほしい――少なくともこうしたことを試みるか、同一性が観念的であり、同時に事実であるなら、端的に言って、あなた方の反論には混乱と伝統的な偏見以外に根拠がなくなることを認めてもらいたい。

 

 

*3

 

 

 しかし、同一性が実在であり、差異によって破壊されないという原理は、すでに見たように、いくつかの説明を必要とする。たとえば、同一性が常に差異を含み、差異に依存しているので、二つの魂が実際にはひとつに過ぎないと仮定するのはばかげているだろう。ここで、この点を十分に扱うことができる。同一性は差異のなかで実在である。しかし、我々はそうした差異がひとつの方向で働くことを否定するのでも、同一性が常につなげる方向に働いていることを主張するのでもないといわねばならない。これらの点を順番に取り上げよう。

 

 我々は一度真であったものは常に真であり、ある文脈で同一であったものは他の文脈でも同一であると言える。しかし、このことを主張するとき、我々は重大な間違いを防がねばならない。というのも、諸条件の差異は同一性の差異をもたらすことは明らかであり、文脈が同一である要素を変えうることは確かだからである。つまり、正反対の極端に向かい、すべての真理を諸条件のなかに投じ、この完全な多様性からなにかを抽出することを拒むなら、同一性の原理は受け入れがたいものとなる。差異以外には何も見ないことになるので、異なった状況で同じものはないことになろう。しかし、それぞれの側の誤りを避けるなら、原理はすぐに明らかになる。同一性はその本質において多かれ少なかれ抽象であることは明らかである。そしてそれを述語とするとき、我々は全体の他の側面は無視する。他の側面はともかく、この同一の一側面は存続し、実在であると主張する。我々はそれがどこまで拡がり、それに伴う多様性に対してどれほどの割合かについていうことはない。しかし、同一性は、こうして続く限り、現実にまた真に同一である。全体の結果においてその一要素が押しつぶされているように見えたとしても、ある法則の新たな例が与えられるならば、その法則はいまだ有効である。他の諸条件が加わり、一般的な結論を変えることもあるが、法則そのものは十分に働いており、まったく同一の性格を維持している。二つの個物があり、その内容のどの部分も識別しがたいなら、その限りにおいて、それらは同一だと考えざるを得ない。どれほど多様性があるとしても、差異がそれぞれの構成要素にどれだけの影響を与えているにせよ、にもかかわらず、それらにおいて同一なものは一にして同じである。このように理解すると、我々の原理は争う余地のない確かなものであり、おそらくは逆説よりは些細さが勝っている。実際、その結果はしばしば些細で、空虚で取るに足らないこともあろう。その意味合いは条件が異なることによって多様に変わる。二つの魂が内容において共通の要素をもつと知ることは、まったく重要ではないかもしれない。また、そうした知識は非常に重大で、根本的な真理を確実なものとするかもしれない。しかし、こうしたことについて、抽象的である原理そのものは何も我々に与えてくれない。

 

 我々の原理に結びついて働くものは何も語らない。二つの事物の同一の点が別の仕方で働き、異なった変化をもたらすことがあるかどうか、我々は何も学ぶことはできない。というのも、ある事物の働きはその特殊な諸関係に依存しなければならないが、すでに見たように、原理は完全に一般的なものにとどまるからである。たとえば、共に生きる二つの魂はその同一性によって活発な共同作業を行うかもしれない。同一のものが時間的に隔てられているなら、我々の知識によればそれは不可能だろう。しかし、その場合でも、現実には、同一性はその前の例に存在するのと同じだけ存在する。同一性の量、同一性の種類、同一性がもたらすもの――これらの点はすべて抽象的な原理からは外れている。しかし、このことを根拠に反論する者がいるなら、それは、結局のところ、事実、多様な同一性が存在するために、それゆえ、ひとつの事実としては同一性は現実的な存在をもたないと論じるかのようである。こうした立場は非合理的に思われる。

 

 我々の結論は、魂の同一性は事実だというものである。その内容の同一性はその別々の存在と同じくらい実在である。しかし、他方において、この同一性はそれらのさらなる関係を含む必要はない。我々が理解する限り、それはどんなやり方であっても行動する必要はない。その行動は、それがある限りは、常に間接的であるように思える。魂は身体を手段にしてのみ互いに影響し合うように思える。

*1:

 (1)『論理学原理』261-2ページ。『倫理学研究』151ページ参照。この点について私とボザンケット氏の『知識と実在』98-108ページのあいだに実質的な相違があるかどうか理解できない。私が付け加えたいのは、心理学において一般的な類似による連想と(明白な)部分的同一性による連想とを二者択一 にすることは間違っているということである。二つの事物が似ているという感じは、同一点を知覚することを含む必要はないが、にもかかわらず、この感じは常に部分的な同一性に基づいている。この混同についてはスタンフのTonpsychologie I 112-114を参照。いま(この本を校正しているところなのだが)スタンフに加えてジェイムズ教授の名を加えなかったことを後悔している。こうした混乱については『マインド』5号でより詳細に検証している。ジェイムズ教授の反論については6号を見よ。

 

*2: (1)この間違いを避けている限り、我々は諸事物は同一である限りにおいて異なっており、異なっている限りにおいて同一であると主張できるし、しなければならない。差異でも同一性でも、それだけではその性格が破壊されてしまうだろう。

*3:

 (1)同一性に反対する英国の著述家は、原子論の原理と相対性の原理を単純に並列したままにする。誰も(私の知る限りでは)まじめに関係に与えられる場所を少しでも説明しようとはしない。『論理学原理』96ページ参照。

 (2)その形容が分離されない事実という意味での事実である。317ページ参照。