ケネス・バーク『動機の修辞学』 46

.. マルクス主義的説得における究極的要素

 

 一度語を発達的系列のなかに位置づけてしまえば、それらの語は、その本性からして限界をもつ、系列の究極的な完成(「終了」)に参加し、配列されていると言える。各段階は、そのふさわしい「瞬間」に、系列全体の運動、究極的な方向や原理をあらわす。この意味において、ヘーゲルの「具体的普遍」は<いまここに>あるそれ自体をあらわすだけでなく、全体の発展における普遍的本質をあらわすことにおいて「神秘的」だと言えよう(花に先立つつぼみが、具体的なつぼみや花の発端としての性質をあらわすだけでなく、果実、種、凋み、凋みを超えた未来をあらわすようなものである)。そして、いかなるいまここにある瞬間も、系列の個々の具体的な瞬間を超越した発達の原理をあらわしているので、そこには『文法』で論じた実体の逆説とともに、ここにありながらここにはない一なるもの、ある種の神秘的な統一があることになろう。

 

 マルクスヘーゲルの「具体的普遍」をうまく風刺した。同じ思考の道筋をたどりながら、『ドイツ・イデオロギー』において彼は、歴史の進行によって各瞬間を解釈する究極的意図を用いることで、いかに後の歴史は以前の歴史の目標と見られるかを示した(それに従えば、アメリカはフランス革命をもたらすために発見されたと言える)。それ故、彼が言うところによれば、「歴史は特殊な目的を追求するもので、『他と並び称される人格』となり(すなわち、『自己意識、批判、唯一者』等々並んで)、前の時代に『運命』、『目標』、『萌芽』、『理念』という語で示されたのは、前の時代が後の時代に働きかけた活発な影響から、後の時代がつくりだした抽象物に過ぎない」ということになる。

 

 しかし、かくも力強くヘーゲル的な方法に基づいてたてられた思考法が、単に「ヘーゲルを倒立させる」ことで「神秘的」であることを免れうるだろうか。いずれにしろ、マルクス主義弁証法の<修辞的な>力の多くは、その秩序が「究極的」であるという事実からきている。多様な階級は、単に相反する利害をあらわす議会の声として対立しているのではない。それらはそれぞれの特殊な状況に合った傾向あるいは「意識」によって位階的に配列されており、封建制からプルジョアプロレタリアートという段階は宇宙の本質に基づいている。

 

 まさしくこの究極的な秩序という根拠によって、プロレタリアートの代表者は自身を階級の利害だけではなく、全歴史の大目標、全人類の最終的な達成を代表すると考えることができる。歴史的状況を正確に推し量り、普遍的運動の一契機としての性質を知るなら、「革命的状況」には、諸条件が他にはないように結びついた具体的なものと、全体的な進行の完成に参与するという二重の性質が見て取れる(ロシアにおいて時が熟したと確信したレーニンが書いた手紙には「科学」と「直感」が見て取れる)。

 

 一般的に、究極的な位階的秩序を唯物論的に言うと、宇宙の基本となる未知の粒子から、原子へ、それが結晶や惑星の配列に進み、生命の発生、生物の進化、社会形式の進化と革命、と進む。この「宇宙の発達の自然な位階」は、イギリスの物理学者J・D・バーナルの弁証法唯物論に関する講義報告からとった。しかし、修辞学の観点からすると、社会形式に究極的な位階を移植することは重大である。そこでは社会性に届かない領域の位階的秩序は、社会的領域で経験される説得的な原理の「イデオロギー的反射」あるいは拡張とも考えられる。つまり、修辞的に考えれば、マルクス主義の位階は自然科学から社会科学へと移るのではなく、社会的発達の究極的な弁証法から、それに対応する自然の発達の弁証法へと移るのである。「マルクス主義的物理学」というのもあり得るかもしれないが、マルクス主義はまず<社会学>である。

 

 こうした考え方によって現在流布している実証主義的な学説を見ると、単純な賛成や単純な反対ではなく、といって「どちらの側にも言い分がある」といった不十分ではっきりしない言い訳をする必要がない立場に立てる。実証主義的な用語法は「許される」ばかりではなく、それを手放すべきではない。主題の性質が許す限り、あらゆる問題はその用語に還元されよう。実証主義の言語の理想は活発で正確だということにある。実証主義的な秩序だけでは適切に扱えない劇的要素があるときにのみ、それに反対すればよい。不適当な調査や考察の領域に実証主義的用語を不正確に導入することについては、そうした言語の不正について、はっきりした反実証主義的立場を要する。しかし、一般的な言葉の使い方からすれば、我々は徹底的な反実証主義の説に誓いを立てることはなく、諸用語の位階の適切な最初の段階として実証主義的用語を受け入れることができ、またそうすべきでもある。

 

 同じ勧告は、商品礼賛(その教義は、「買うことのできるものはこそが文化だ」と要約される)にあらわされるような、テクノロジー主義への我々の留保にも導入されるべきである。人間は本質的に「合理的な」(つまり、シンボルを使用する)動物である(ヨハネによる福音書の冒頭にあるように、「<初めに>言葉があった」わけであり、ここでは実体の先行が時間の先行として表現されている)。そして、我々が事物をあらわすシンボルを使用するとき、そのシンボルはシンボル化された事物の単なる反映でもなければ、記号でもない。それは、ある程度シンボル化された事物を<超越している>。そこで、人間はシンボルを使用する動物だと言うことは、人間は「超越する動物」だと言うのと同じである。かくして、言語そのものに人間を「自然の状態」(つまり、言語、ロゴス、「理性」のない世界における動機の秩序)から超越させるような動機が働いている。この意味において、物神崇拝といえども(それは言語に導かれた発明から生じた)<超越の一様態>と認識できる。商品礼賛に多くの者が熱狂しているという事実(金銭を捧げることで彼らの信仰の誠意は例証される)が認められるにもかかわらず、単純にそれを「排除する」ような落ち着かない立場に身を置く必要はない。

 

 完全に対立するどちらかの立場をとるなら、物神崇拝に生き、商品を守り神として崇拝するか、一なる神を献身的に信じる者が偶像を廃するように、そうした崇拝を廃するか、どちらかになろう。しかし、段階的な語彙を用いることで、物神崇拝を真正なものではあるが、より劣った超越の一様態として認識できる。

 

 同じ位階原理を用いると、ヒットラーの政治哲学やその「共謀者」といえども、単に「反社会的」ではなく、社会性の低次元にあるものとして扱える。そうした取り組みは、劣った秩序が現実に広がり、その教義を単に拒絶したところで自滅するだけで効力がない場合に特に必要であって、不承不承最小限ではあっても受け入れることで、漸進的な改善のための立場に立つことができる。しかし、不運なことに、こうした考え方は正当ではあっても、不正に用いられがちである。

 

 社会的地位の改善は、いかなるものであってもある種の超越である。そして、アメリカの黒人のように、極度に恵まれない階級の一員であると、そうした低い地位を超越しようとする個人的試みは、その努力が最高に高まる地点で正反対の目的に資するという事実によって辛辣さを増すことになる。黒人知識人であるラルフ・エリソンは、ブッカー・T・ワシントンが「黒人社会はカニの入ったバスケットのようなもので、一匹がよじ登ろうとすると、別のがすぐに引き戻すと記した」と言っている。個々の黒人が自分自身に鑑みてみれば、同じ種類の内的衝動が存在しないだろうか。というのも、彼はミードなら「普遍化された他者」と呼ぶ立場をとるかもしれないからである。彼は自分自身に対して、敵対的な白人の態度をとることもできる。あるいは、階級の一員として伝統的に課せられた制限を超越しようとし、ある意味自分の階級に「不忠実」であるだけに、階級の下す判断を「良心」と感じるかもしれない。人間一般として自由を求めながら、同じことを特殊な黒人としてもしなければならない。しかし、黒人としてなにかをすることは、まさにそのことによって一般的な意味をもつ行動をできなくしてしまう。というのも、黒人は、肌の色が目の色と同じように社会的に特別な意味をもたないような状況でなければ、一般的自由を得ることができないからである。

 

 『ヴェニスの商人』でシェークスピアが似たような葛藤をシャイロックの言葉を借りて考察している箇所を思い起こしてみよう。

 

おれがユダヤ人だからだ。ユダヤ人には目がないかい?ユダヤ人には手がないか、耳や口がないか、五体がないか、感覚がないか、感情がないか、情熱がないか?同じ食物を食い、同じ刃物で怪我をし、同じ病気にかかり、同じやり方でなおり、同じように冬には寒がり、夏には暑がるんじゃないか?みんな、キリスト教徒と同じじゃないのか?針でさされりゃ血が出ないだろうか?くすぐられりゃあ、笑わないか?毒をもられりゃ、死なないか?(菅泰男訳)

 

 

 それから、人類一般の一員としての発言に続き、シャイロックは、キリスト教の支配するヴェニスにおけるユダヤ人という特殊な立場に話を転じる。

 

そうしてお前さん方からひどい目にあわされりゃ、復讐をしないだろうか?ほかのことが同じなら、そのことだって似てるだろうぜ。もしキリスト教徒がユダヤ人にひどい目にあわされたら、つつましくもなにをなさる?復讐だ。もしユダヤ人がキリスト教徒にやられたら、キリスト教徒の教えに従って、どんな寛容さを示せばいいかね?ふん、復讐だ。あなた方に教えていただいた悪党沙汰だ。やってごらんにいれますぜ。そうさ、御指導以上にやってみせいでなるものか。

 

 

 

 「つつましさ」と「寛容さ」という語が使用される際の逆説的なやり方に注目しよう。復讐は一種の謙虚さであって、キリスト教徒の義務である。人は、シャイロックキリスト教の教えを理解できていないと言うこともできる。あるいは、より公正にいうと、キリスト教徒自身が、所有のレトリックに役立てるために、キリスト教的寛容を独特の仕方で歪めている、というシャイロックの非常に正確な認識があると言えるだろう。いずれにしろ、シャイロックは、ここで、復讐を一種の超越、ユダヤ人としての不利益を超え、同時に自分の身分を再確認するための有効な「定位」手段として用いている。

 

 こうした葛藤は明らかに「弁証法的」である。純粋に実在的な語彙からは越えでている。知識ではなく、観念と行動の領域にいる。それゆえ、語彙が究極的なところまで行き着かなければ、解決されない議会的な錯綜、争いあう不調和な声だけがあって、最良であれば居心地の悪い妥協に決着することになろうが、最悪だと復讐と謙虚とを同一視する結論に至る(つまり、対立者の判断を、自分で使うためだけに受け入れる)。シャイロックの「復讐」はこうした解決法が最高度に一般化されたものに過ぎず、個々の事例で抑圧者に対する謀議への参加を呼びかけ、結局のところ、役割というのは逆転されうるのだという希望のうちにある。リチャード・ライトの『アメリカの息子』での、ビガーの<黒人としての>犯罪による抵抗は、同じ反応を別のやり方で特殊化したものである。こうした復讐の「謙虚さ」は、対立者の判断を受け入れ、最終的には彼らが規則を制定することにも同意し、自らに課せられた制限のなかで優位に立つことを目的とする。「人種差別論者」や「ナショナリスト」の奴隷解放論は、こうした「反対謀議」(あるいは、排除された者たちの排他的同盟)をより慇懃に行おうとする。そしてそれは、ナショナリズム内部での、また敵対するナショナリズムとの間での闘争に発達するまでは、究極的な解決にさえ思われるかもしれない。

 

 明らかに、こうした状況でのマルクス主義の語彙がもつ修辞的な魅力は、究極的な秩序をもたらし得ることにある。それが、「究極的なもののなかでの究極的なもの」であるかどうかは疑問視される。社会的な諸関係のなかで働いたとき、自ら主張しているような謀議を終わらせる謀議ではなくなり、新たな謀議の条件となるだけではないかと憂慮されるかもしれない。そうであるかもしれないし、そうではないかもしれない。ここでそれを決めるのは我々ではない。レトリックの研究者として、マルクス主義の用語は、少なくとも、この種の基本的な要求を満たすにたるほど「究極的」であることを記すだけで十分である。それはマイノリティーのメンバーが、個人的な身分の超越を一見そう思われる集団的身分への不忠実から切り離し、集団の寛容さを単なる「復讐」から切り離す階梯のなかに自分の問題を位置づけることを許す。恵まれない少数派のメンバーが世界に対し特殊、かつ一般的に直面することを許す。黒人は、知的な「試験」によって白人と同等になるのではない。彼は、自分たちの個々の行動はたまたま置かれた歴史的状況の性質に順応させなければならないことを明瞭に認識する。だが、同時に、その状況を普遍的に見て取ることもできるのである(それによって、あらゆる人間が目指すある種の超越が達成されるが、黒人霊歌が目指すのも、マルクス主義の究極が下層身分の唯物論的超越を与えるように、運命的な物質的隷属を精神的に超越することにある)。

 

 言葉だけではどうにもならない事柄が多く存在するのは事実である。激しい言語外的な衝突が数多くあるところでは、単なる言葉だけのやりとりではそれを取り除くことができない。しかし、言葉による操作はより秩序ある解決法をもたらし、興奮を抑えてそれを熟慮できる。こうした場合、言語的な操作というのは、言葉による「言い抜け」とはまさに正反対のものである。

 

 究極的語彙としてのマルクス主義は、また、その行動についての理論が秩序の理論に適合するあり方に説得力の多くを負うている。もし、位階的系列のある点、ある「契機」が、限定されているとはいえ、究極的企図の原理や「完成」をあらわしていると言えるなら、どれほど小さな行為でもすべて全体的行為の絶対的な意味を分けもっていることになる。かくして、「真実」は全系列の論理を「知覚する」だけで捉えられ検証されるものではない。知覚というのはなんらかの部分的な役割を演じることに基づかざるを得ず、全体的秩序の理解はこうした部分的な関わり合いを通じて達成される。どの立場にも関わらないことで可能になる、外からの知覚というものがある。あるいは、特殊なものに巻き込まれ、それを越えて見ることは決してできない偏狭な参与もある。しかし、第三の道、もっとも十全な理解があり、局所的な行為に参与するのだが、その行為において、それを通じて全体的な企図を見やり、局所的な行為を全体的発達の部分的表現と認めかつそう<感じる>のである。マルクス主義の説得力はこの第三の道を提示したことにある。たとえば、レーニンの『なにをなすべきか』を考えてみよう。

 

 最初に気づくのは、そのタイトルがまさに、以前に考察したレトリックと一般的意見との関係をあらわしていることである。『謬見の書』でベンサムは、事実に関する事柄(なされたことquid factum)と一般的意見に関する事柄(なされるべきことquid faciendum)とを区別した。未来は一般的意見に関する事柄にのみなりうる。実際に実現するまでは、経験的に証明されうる「科学的事実」の範囲外になければならない。レーニンの疑問、『なにをなすべきか』はこの検証法によれば、明らかに一般的意見の領域にあり、その限りにおいてレトリックの領域にある。(それは「審議」される。)

 

 『文法』でも引用したが、重要な点は、労働組合の活動と、労働者の革命的プロレタリアートの一員としての役割<意識>の区別に関わっている。レーニンは、状況に対する「自然な」反応と、マルクス主義者として慎重に状況を解釈した上での<新たな行為>とを区別するだろう。我々はレーニンの考え方の目的を次のように解釈できよう。労働組合そのものは、資本主義から社会主義への革命的変化における労働者の「歴史的役割」についてなんの意識ももっていない。それゆえ、自然で偏狭な反応に止まり、階級の限界を超越することがない。彼は行動し、その限りでは、外部にいる純粋な観察者よりもより深く参加している。しかし、彼の行動は状況の特殊性、生活の資を得るための日々に曇らされている。そこで、労働者の地位を<究極的な>発展に位置づける、普遍的歴史の必然性を説くマルクス主義の教義がもたらされる。この教義を吹き込まれた労働者は、もはや自分を、他の労働者とともに、雇い主との交渉をより優位に進めようとする個人として考えたりはしない。プロレタリアートという<階級の一員>であり、<歴史全体の展開において重要な役割>を果たす定めがあると理解する。かくして、限定された個別の組織、宣伝活動のなかで最大限に働くことで、労働者階級の一員としての特有の条件、「自然な」性質を超越する。彼は自分の役割を<絶対的なもの>、究極的なもののうちに見る。<局所>に参加することで、普遍的論理や究極的な方向性と直接に関わり合う全体的弁証法に参加する。実際、彼は、あれこれの条件下で働く某氏としてではなく、限定された某氏を超越する行動を創造的に求め、普遍的視野に収めた諸動機から行動論理を引き出す包括的人格をもつ「プロレタリアート」であることを、<形式的>、また<儀式的に>自覚するとさえ言える。

 

 お望みならそれを謬見といってもいい。ここでその当否を論じることは我々には必要ではない。議会的な論争のレベルに止まっている語彙とは対照的な、究極的語彙の修辞的利点を論じているのである。サーマン・アーノルドの『資本主義のフォークロア』のような、典型的な「議会的」作品ではむしろ劇と非理性とを結びつけるよう我々は要求されるのだが、それ自体は健全な修辞的手順である劇と理性の統一による顕著な形式的利点を指摘したいだけなのである。

 

 たぶん、「究極的」秩序は説話的形式をとるのがもっとも自然である(それゆえ、ヘーゲル的、マルクス的歴史の「物語」をつくるのは容易なのである)。通常、説話においては暗黙の前提となっているので、我々は究極的秩序を識別することさえできない。たとえば、我が主人公の運命が出会いの連続によって展開していくなら、そのそれぞれの出会いは異なった「原理」をあらわし、各原理や段階が次の段階へと通じ、その積み重ねが次の段階の基礎となろう。事実、作品が正確に組み立てられるなら、必然的にそうした形式をとることになろう。もし、「劇的観念」を様々に関係する行為者の行為に分解するなら、プロットの連続する段階は対応する観念の発展に還元することができよう。そして、与えられた段階の導きに従っている行為者や場面は、個々にその段階の動機づけの原理をあらわしていると言えよう。プロットは目立たぬながらも究極的で、読者は異なった局面の展開を「選択する」必要はなく、それぞれが次の段階を準備するものとして読み進められることになる。動機づけにおける究極的な語彙は、時間において順序だっている必要はないが「原理において」順序だった系列をもつ説話形式の哲学的等価物を目指しているが、マルクス主義の歴史の弁証法にある形式的魅力は、説話と同じように、時間のうちでの連続が「原理」の上での連続でもあることにある。