ブラッドリー『仮象と実在』 168

[ひとつの魂の内部での同一性、それは機械的な見方をどれだけ超越するだろうか。]

 

 しかし、こうした作用力、制限された見方による同一性は、個々の魂を考えるときに変更されねばならない。その内的な歴史において、我々はその状態の同一性が現実的に動いていることを認めねばならない。別言すれば、機械的な解釈、もしそれが自然への完全な適用にあるなら、魂を扱うことは部分的にあきらめねばならないことになる。この重要な区別を指摘することでこの章を終えることにしよう。

 

 私が自然というとき意味しているのは、単なる物理的なものとして魂の抽象物と考えられる物理的世界である(第二十二章)。自然において同一性と差異はあらゆるところに存在すると言えるが、どこにおいては働いているとは決して言えない。しかしながら、この理想が実際には不完全にしか当てはまらないにしても、少なくともそれは自然科学の理想とみられるだろう。この原理に従えば、どんな要素も、それが同一であるゆえに、あるいはそれが異なっているゆえに、それ以外の何ものでもあり得ない。というのはそれらは内的な性格に過ぎないが、あらゆる場合において働いているのは、外的な関係だからである(1)。しかし、もしそうなら、同一性と差異は一見したところ何の意味も持たないように思われる。科学が一貫したものであるなら、取り去ることができるような、無駄な装飾のように思われる。しかしながら、そうした結論は、これら二つの性格が取り除かれるなら、科学の本体が失われてしまうことを思えば、未熟なものである。それらなしではなぜと問うどころか、もはやなぜならともいうことが不可能になるだろう。同一性と差異の働きは、我々がそれを考慮するなら明らかである。というのも、外的な関係で働くものは法則としてまとめられる。他方において、異なった要素の内的な性格は、そうした普遍的な糸あるいは蝶番によってつながれている。かくして、同一性と差異は作動していないあいだも、間接的に影響を与えており、事実必要不可欠である。これは機械的な見解の本質であるようにも見える。しかし私は、いまのところ、自然のより高次の領域を通じて、どこまでそれが実際に適用されるのか述べることができない。また、たとえば、空間を通じた連続的な運動の場合、同一性の(明らかな)影響が正確にどう解釈されるかわからない。一般的にいって、機械的な観点は、諸法則の位置づけが一貫せず、理解しがたいために原則として無意義である。実際のところ、これはあらゆる特殊科学が必然的にもつ欠点であるが(第六章)、自然の領域では最低限に納まっている。かくして、物理的要素の同一性はその存在の外にあるといわれることが可能で、その普遍性は破棄され、諸法則のなかでのみあることを余儀なくされるように思われる。そうした法則が一方において物理的なものではなく、他方において自然に本質的であるように思われるので、それゆえ、自然の本質は自らに対して異質であり、どちらを選ぶとしても不自然に分裂してしまうと思える。しかしながら、外からの強制は物理世界が取り得る作動原理のひとつである。少なくとも、我々の理念が真であるなら、同一性も差異も自然では働くことはできない。

 

*1

 

 我々が心理学に向かうとき、このことは変わる。そこでは機械的な見方が完全になくなる、あるいは快楽と苦痛の働きなどが取って代わり、その作用こそが理念となるに違いないといいたいわけではない(1)。しかし、範囲の大小はあるが、あらゆる心理学はその実践において、同一性の力が働いていることを認めざるを得ない。心理学者には、この力を望みもしないのに、あるいは否定しながらも採用する者もいるかもしれない。しかしこれなしでは、問題を扱うことができないだろう。ここで、英国の心理学者たちには無視されている一体化や混合の原理に触れるつもりはない。再統一、あるいは我々にとってより馴染みのある隣接による連合へと後に向かうことになろう。ここで我々は現在魂で起こっていることは、以前そこにあった何ものかのために起こっているのだということを認めざるを得ない。さらに、同一性のある点が現在と過去とを結びつけるためにそれは起こる(2)。つまり、魂における過去の結合はその存在の法則となる。それはかつて起こったがゆえに、また現在においても過去においても内容のある要素が同一であるから、再びそこに存在する。かくして、魂のなかに我々は習慣を持つことができるが、この習慣は物理的な存在に過ぎず、おそらくは疑わしい隠喩でしかない。現在と過去の働きが同一性の内的基礎でないなら、習慣という語はもし使用するとしても、もはや意味をなさない(3)。それゆえ、我々は大部分において魂はそれ自他の法則をもっており、現在と過去のあいだに同一性を確立し、(自然とは異なり)外部に依存することのない理想的な本質をもっていると言える。これはいずれにしろ、いかに間違いがあろうと、あらゆる心理学者の仕事でとられねばならない見解だと思える。

 

*2

 

 

 しかし、急いで付け加えねばならないが、この見方は大いに不完全である。最終的に、なにかがいままでこうあったから現在もそうあると主張することは不可能である。魂に関していえば、そうした反論は二つの側面から論じることができる。第一に、私と同じようなもうひとつの身体がつくり出されたと想定すると、この身体が私が自分の魂と呼ぶものとすべて同じように働くことが否定できるだろうか。魂が根拠のない付加物ではない限り、原理的に私はこの結論をすでに受け入れている。その場合、同じ連想、そしてもちろん同じ記憶があることになろう。しかし、魂はかつてあったように現在もあると繰り返すことはもはやできない。むしろ(ある意味において)魂は現にこうあるがゆえに、かつてもこうあったと主張せざるを得ないだろう。この想像例は、事実、以前解決不可能だとわかった「配列」の問題に我々を引き戻す。その解決は(我々にわかる限りにおいては)身体と魂と呼ばれる構築物のそれぞれを溶解させることになろう。

 

 第二に、内部から見ると、同一性に関する心理学的な見解は妥協でしかない。このことは記憶の二重の側面を考えてみれば理解できるだろう。一方において我々は我々の存在において先行する出来事を記憶する。しかし、他方において、記憶は明らかに現在の構築物であり、我々のあるこの瞬間に完全に依存している。そしてこの後者の運動を発展させると、心理学的な見地から完全に外れ、記憶すらも越えてしまうことになる。というのも、思考の主たる対象は魂における単なる隣接を無視することにあると言える。最終的には、真のつながりとは、かつてその諸要素がたまたま一緒にあったゆえに真なのではありえない。最初から常に普遍的である連合は(1)、それゆえ、思考によって意図的に純化されている。単なる「事実」から出発して――無関係な文脈と混乱した統一をもつものとして知覚される諸関係――思考はそれらを変容しようと努める。それは、何ものも独立しているわけではない、別の言葉で言えば、何ものも異質なものと関係をもつよう強いられず、反対に、真理が絶対的な相対性のなかにあるような理想の世界で終わることになろう。そこではあらゆる要素がそれを支える何ものかをもち、他のものにおいて、全体において、自らの同一性を見いだす。確かにこの理想は完全には実現しないことを私は認める(第十五章)。しかし、それが真理として提示するものが何であれ判断しなければならない検証法を与える。そして、この検証に従えば、心理学的な観点は非難される。

 

*3

 

 関係づけられた諸系列、この世界において身体と魂として知られる二つの構築物からなる現象世界の全体は、実在に関しては不完全なとらえ方である。あらゆる点において不安定であることが証明された。それは実際的な目的のため、我々が課さざるを得ない限界を超えようとする傾向がつきものである。そして結果はあらゆる場所で不整合が出る。同一性なしに働こうとする身体が理解不可能となることを我々は見た。その生の働きとして同一性を認めようとする魂がまた、単なる妥協に終わることも見た。それらは双方とも現象であり、どちらも真ではない。しかし、非真理にも程度がある。物理的世界に比較すれば、魂はその限りにおいて、より実在に近い。それは実在が成り立っている自律をより多く示している。



 しかし、実在における程度の議論は後に関わることになろう。ここでは簡単にこの章の主な結論を振り返っておこう。我々が身体と魂が現象的な構築物であることを見てきた。それらは理論的な便宜のために別々に捉えられた不整合な抽象物である。我々が見いだした身体の優位な実在は迷信だった。二つの当座しのぎを一組にするような関係に進もうとして、我々はそれを定義するよう努めた。単なる併存や魂の一面的な依存という考えはどちらも退けた。そして、なんの相違も生みださないような形容は無意味であると主張した。そして、簡単にではあるが、裸の魂と裸の身体の可能性を論じ、そこから魂間に実際に存在する諸関係へと進んだ。事実、魂は身体を通じてのみ互いに影響し合うことを結論したが、にもかかわらず、魂のあいだの理想的な同一性は真正な事実であると主張した。最終的に、個人の心的生において、同一性が活発に働いていることを認めざるを得なかった。そしてこの章をいたるところ見にいだした反省で終わることになった。諸問題を扱おうとすると、完全な解決には身体と魂の破壊が含まれるだろうということである。我々は自然にそれらを超えたものの考察へと運ばれることを見いだすことになった(1)。

 

*4

 

*1:(1)私は影響力のあるあらゆる難問の解決を見いだすような観点について何らか 述べることが必要だと思っているのではない。と言うのも、第一に、影響の働きと いうのは自明で、単なる習慣の影響を除けば、容易に知覚されないように思われる からである。第二に、影響によって我々が普遍的なものを無視すると想像するなら、 あまりにも無思慮であろう。完全な相対性、個物を超越した理想的な統一は、他の すべてと同じく影響に本質的なものである。

*2:

(1)この点、またそれに続く部分について、『マインド』7号360ページ以下 と比較のこと。

(2)『論理学原理』で私は隣接が単なる類似によっては説明できないことを示し た。観念の連合についての章を参照のこと。

(3)問題は、我々が物理的事物に帰する用意のある内的な同一性の量に戻ってく るように思われる。

*3:(1)この点は『論理学原理』36ページ以下、284ページ以下、460-1 ページで証明しようとした。心理学はこの問題について明確さを欠くために重大な 影響を被っていると私はあえて考える。

*4:(1)身体の理念化として魂を捉える見方についての私の姿勢をさらに少しだけ説 明しておこう。もしこの見方が魂と身体とを一緒にして究極的な実在とするなら、 私はその根拠においてそれを却けるべきだろう。他方において、確かに私は個別化 とは理念であり、魂一般は身体を越えた段階において個別化を実現すると見なして る。しかし、個別な魂と身体が対応していて、魂が充填され身体の内的な実在とな ると主張することにはためらいを感じる。また、魂と身体が一緒になることで、常 にひとつの有限な個人をつくりだし、あるいはそれに属することになると一般化す ることには疑いを感じる。さらに、魂と身体の関係が真に理解可能あるいは説明可 能であるかどうかわからない。かくして、この教義に対する私の姿勢は主として同 感ではあるが中立的だということになる。