ブラッドリー『仮象と実在』 169

第二十四章 真理と実在の程度

 

[絶対に程度はないが、それは存在については真ではない。]

 

 前の章で我々は真理と実在の程度についての問題に到達し、ここではこの観念に含まれるものを明確にするよう努めねばならない(1)。こうした試みは、完全にまた詳細にわたって行うとすると、あまりに遠大なものとなろう。いかに物理的精神的世界が、多様な段階と程度においてひとつの絶対的原理によって実現するかを示すことは、形而上学の一大系を含むものとなろう。そうした体系を私は打ちたてようとしているものではない。私が努めているのは、実在についての納得のいく一般的見解を得て、それを数多くの難点や反論から守ることだけである。しかし、そのためにはより高次なものとより低次なものの性格を説明しそれを正当化するのが本質的なこととなる。この点を扱うのに、私は我々がすでに思考に与えた位置づけ(第十五章及び十六章)をさらに発展させることになろう。

 

*1

 

 絶対そのものを考えると、もちろんそこに程度は存在しない。それは完全であり、完全においてそれ以上も以下もないからである(第二十章)。こうした性格は現象の世界においてのみ存在し、また意味を持つ。実際、同じ絶対性が時間における存在によっても保持されているように考えることも可能である。ある事物はある場所をもち、あるいはもたないかもしれないが、現前と不在の中間に住まうことはできないからである。この見方は、時間における存在が実在であることを仮定しているだろう。実際上、またある目的においてはそれは認めうる。しかし、間違っていることを別としても、その仮定は自然に自らを越えていく傾向にある。というのも、もしある事物がより少なくもより多くも存在することができないとしても、それが多かれ少なかれ存在をもつことは確かに違いないからである。それは直接的な現前によって、またさらにその影響や相対的な重要性によって居場所を奪うかもしれない。かくして、最終的には、我々が存在を「もつ」ということで理解していることが正確になんであるかをいうことは困難だということがわかる。我々はその主張にあらゆるものは同様に、同じ程度の存在をもつという逆説を見いだしさえする。

 

 しかし、形而上学においては、我々は長い間この一面的な見方を越えて進んできた。一方において、時間的事実の系列は理念的な構築物に存するとみられてきた。実際、全体としてというわけではないが(第二十三章)、本質的に理念的である。そして、そうした系列は現象でしかない。絶対的ではなく相対的である。他の現象と同じく、より多い、より少ないという相違を認める。他方において、それ自体現象である真理はこの未熟なエッセイからの無意識的また故意の逸脱であることを見てきた。この上時間的な事実によって持ちだされるばらばらな主張を考えなくとも、実在と真理の程度の問題について一般的に扱うことができる。

*1:(1)おそらく他のすべての章以上にこの章において私はヘーゲルに負うところが 多いと言えるだろう。