ケネス・バーク『動機の修辞学』 49

.. 宮廷作法

 

 レトリックにおける「宮廷作法の原理」は、社会的な疎隔を超越するための説得技術を意味している。「異なった種類の存在」が交流しあうことに宮廷作法の「神秘」が存在する。かくして、我々は気後れや自ら課する制限にそうした「神秘」のしるしを見る。愛の激しい身体的徴候を歌ったサフォーの詩が愛の<魔術>を描いているように(愛する相手は「神のよう」である)、社会的なやりとりにおける気後れは、いかに歪められ薄められているにしろ、コミュニケーションの神秘のしるしと解釈される。

 

 高い社会的身分の女性(「優雅な女性」)が「社会のくず」たちのなかで放蕩に身を持ち崩してまで交わりを求めるなら、こうした性的堕落は、想像においてほとんど神秘的となりうる(別の観点から見ると、これは、ドストエフスキーの民衆に対する神秘主義にある、帝政的位階の強い存在を示唆する考えである)。そして、こうした条件のもとで、特殊な性的影響を描こうとする作家は、単なる「ポルノグラフィー」ではなしえないやり方で人を魅することができる。その作品はポルノグラフィーとして非難されるかもしれない。しかし、実際にその作品が具体化しているのは(遠回しで偽装はされているが)、シェークスピアの『ヴィーナスとアドニス』の魅力を形づくるのと同じ修辞的要素であろう(一方は、異なった階級の人間によるスリルに満ちた関係が扱われ、他方では神と死すべき存在の関係が描かれているが、真の主題は性的淫らさなどではなく、性的な言葉で神秘的に表現された「社会的淫らさ」である)

 

 <政治的>姿勢の自由な表現は許しながら、<性的な>猥褻さだけは禁じようとする検閲には位階的な動機が潜んでいる可能性がかいま見える。王政復古期の劇のみだらさに向かうピューリタンの姿勢を思い起こせば、革命的な<政治的>目的というのは、それに対応する<性的な>表現が同じように発展しない場合に十全な表現をとりうるのではないかと問える。

 

 皮肉なことに、検閲は、十分な時間があれば、必ずその目標を打ち負かすので、性的に革命的な表現をせき止めることは、政治的な表現を大いに活気づけることになる。この点から、たとえば、ウィルヘルム・ライヒコミュニスト的立場から、マルクス主義政治を反動として非難する「性的革命」へと移った漸進的変化を考えてみよう。ヘンリー・ミラーはフランスで英語の本を出版することで法を免れたが、彼は「科学者」として、ミラーの魅力ある「ポルノグラフィー」がなしえなかったやり方で法を免れることができた。両者とも、「性的革命」に集中することは政治的革命への熱意を弱めることの証拠と取れる。しかし、性的形象の政治的含意はこの点には止まらないだろう。というのも、より捉えがたい意味においては、こうした用語法はすべて最終的には同じ広範囲にわたる社会的政治的変化に寄与するからである。

 

 しかし、気後れの要因に立ち戻ってみると、「舞台負け」というのはどんなものであっても、社会的神秘の証拠だと言える。かくして、演者と観客とのはにかみの関係は神秘化の際限のないありようを示している。例えば、トーマス・マンの「ヴェニスに死す」や「マリオと魔術師」を考えてみよう。その範例は、おそらくは『千夜一夜物語』的な宮廷作法であって、そこでは語り手と魔神とが社会的隔たりを越えて互いに魅了しあうのである(アラビアほど魔術の力が社会的な位階と明らかに結びついている文化が存在しただろうか)。「ヴェニスに死す」では芸術家−観衆の関係が、階級としての若者と老人との作法と微妙に絡み合っている。「マリオと魔術師」では、社会的神秘が強い政治的意味合いをもっている。

 

 支配者は「親しみやすい」と同時に「隔てがある」存在(フォルスタッフのヘンリー王子との関係はこうした二つの原理の微妙な絡み合いから辛辣さを引き出している。)として、その立場によって眩暈できない限り、人々をくつろがせることで損害を被るだろう。我々の知る教師のなかには、物事の深層を抉るような簡潔で謎めいた問いかけ以外には、恐ろしい沈黙によって「神秘」(教える者と教えられる者との立場の違いからくる)を利用して恥じない者がおり、狼狽する学生たちは不安げに会話のとぎれを埋めざるを得なくなり、まるで仏陀と対しているような印象を受けるに至る。ほとんど言うべきことがない者でも、こうした手段によって、すべては言わないままにしているのだという印象を与えることができる。

 

 「グラマー」は宣伝の世界では神秘をあらわす新しい語である。自由民に厳格な軍事的動機を浸透させるのに不可欠と思われる厳格な階級の神秘を思い起こしてみると、アイゼンハワー将軍が大統領への出馬を拒んだとき、政治の予想屋たちが口にした、選挙戦は「グラマー」をなくしてしまったという言葉にこの語のもつ有効範囲がかいま見える。*

 

*1

 

 後催眠については、軽微な違反であれば実行するよう暗示をかけられると言われている(催眠が解かれたあと、電話が鳴ったらある人物の顔を叩くといった暗示が行われる場合で、かかった者がそれを実行しても、自分の行動についてなんらかの合理的な説明をつけられる)。しかし、暗示される違反が重大になればなるほど抵抗は大きくなり、殺人のような強く非難される事柄については従わないだろう。さて、軍隊の規律というのは、命じられさえすれば、もっとも下劣なことでもせざるを得ないほど強いある種の「後催眠の呪縛」を生じさせるに違いない。もちろん、共謀による支持がその仕事を助けてはいる。しかし、共謀そのものは、特に、低い階級の者が自分たちの行動を動機づける強い政治的目的をもたず、主に上官の命令による<団結心>に従う通常軍の場合には、階級の神秘によって強力に補強されない限り、完全な魔力を発揮することはできない。

 

 かくして、軍隊の階級につきまとう不快さのない「民主的な」軍隊をもとうとする理想主義的な希望には欺瞞しかないのではないかと疑われる。階級は軍隊の規律の動機そのもの<である>。階級がない場合、ふさわしい目的のため戦うことになる。しかし、それは軍人の動機とはなり得ないだろう。真の軍人は命令を受けたときに戦う。階級の「グラマー」だけが、彼の意志を制度の意志に服せしめるものである。かくして、軍人は常に軍隊を「民主化」する試みには抵抗するだろう。軍隊は本質的に民主的ではなく、プロイセン風であり、軍人は本能的にそれを知っている。(大きな飛行機を飛ばすのに必要な職業上の階級のように、純粋に技術的な職業道徳も数多く存在することは認めるべきである。そうした行動様式は本質的に軍隊的なものではないので、軍隊のやり方と完全に一致させるには苦痛に満ちた組織化が必要とされる。)

 

 先に見たマンハイムの著作は、宮廷作法の修辞を無視しているように思われる。しかし、「ブルジョア的」、「社会主義的」、「技術者的」宮廷作法を必要とする「修辞的状況」の諸条件を見いだすことなしに、科学的方法を教え、科学的社会を運営していくのに必要な位階的(官僚的)構造を考えることができるだろうか。マンハイムは知識人を特殊な階級と考え、その知識が彼らの資本だとした。そして、マルクス主義特有の神秘化の分析を無視して、マンハイムは、職業上の階級を形成する労働の分化が、同じように、そうした階級間の交流の宮廷作法的レトリックを生みだすのではないかと問おうとはしなかった。マンハイムは、マルクスにとっては否定すべきであった可能性を無視したがっている。

 

 マンハイムは、次第に完璧なものとなっていく知識の社会学が、<一定のテンポで>トイフェルスドレックの「衣装」の神秘を除去していくと仮定していたように思われる。(その問題が論じられているわけではないので、思いつくままに言っているだけだが。)しかし、少なくとも、党派的なイデオロギーについての社会学的な裁量が完璧ではない限り、伝統的な修辞学がいまだ必要だと我々には思われる。修辞学は、魔術、身振り、衣装、牧歌などを頼りにする社会(原始的であろうが、封建的、ブルジョア的、社会主義的であろうが)の「本質」にある疎外を橋渡しするのに不可欠な訴えかけの様式である。

 

 ここで再び、全廃論者が、そうした修辞は、「自然科学の支配」が完全に確立されたとき終わるのだと主張することもできよう。勢いよく生じている科学的神秘を盛り込んだ虚構のことを考えると、我々はそれには同意できない。しかし、未来についての同意は修辞の分析には必須ではない。我々の目的には、理想的な「神秘の少ない」科学的な社会においても、少なく見積もって、神秘的な社会交流への「強い傾向」が存在すること、我々がここで企てているような探求を要する、絶え間のない反修辞的な警戒を怠ってしまうや、そうした傾向に流されてしまうことを認めるだけで十分である。お望みなら、社会的階級が「廃止される」ことを信じるがいい。たとえそうなったとしても、少なくとも、それを復活させようとする「誘惑」は常に大きいだろう。そして、そうした誘惑が存在する限り、異なった階級間の「宮廷作法風のやりとり」にあるレトリックへの「誘惑」もまた存在する。

*1:*対象にその社会的秩序における地位に準じた輝きを与え、知覚の性質にさえ影響する位階的動機についての民衆の本能的な認識を示している点からも、この語の意味についてはよく考えてみる価値がある。ウェブスターによれば、この語は交霊や魔術を意味する「gramarye」の転訛である。(文法grammarと魔術との関係は、市民的宗教的実務における聖職者の役割が大きく、読み書きの知識そのものが身分の強力なしるしであった時代にまでさかのぼることは疑えない。)この語はまた、アイスランドで視界の悪さを意味する語にも関係していると思われ、アイスランド語でglamrというのは月や幽霊の名なのである。「グラマー」には四つの意味がある。対象を実際にあるものとは異なったようにみせ、眼に影響を与える魅力。妖術、魔法、呪い。物事を実際にあるのとは異なったようにみせるもやのようなもの。人目を惑わすほど誇張され美化された対象によって喚起されたり、結びついたりする人為的な関心。