ブラッドリー『仮象と実在』 171

[それは条件づけによる。]

 

 別の言い方をすると、どんなカテゴリー上の判断も間違っているに違いない。主語と述語は、最終的に、どちらも他方であることはできない。しかしながら、この目標にいたらないなら、我々の判断は真理へ到達することに失敗したことになる。もしそれに到達するなら、項とその関係とは消滅してしまうだろう。それゆえ、我々の判断はすべて条件的でなければならないというのは確かである。つまり、なにか他のものの助けがなければ、述語は維持されない。そしてその「なにか」は新たであっても条件的述語の内部にある限り、述べることはできない(1)。

 

*1

 

 しかしながら、あらゆる判断は仮定的(1)である、とはいわない方がいいと説得されることになる。その言葉が関係のない観念を導入する可能性があることは確かである。判断はそれが主張することが不完全であるという意味で条件的である。それだけでは、必要な補足が付け加えられるまでは実在に当てはめることはできない。加えて、この補足は最終的に未知なままである。しかし、それが未知であるあいだは、もしそれがあったとしても、我々の述語にいかに働きかけ、それをいかに変えるのか述べることはできないのは明らかである。というのも、差異の正確な性質が我々の知識に及ばないときに、その存在がなんの差異ももたらさないと仮定することが馬鹿げているのは明らかだからである。しかしもしそうなら、この述語に対する未知の変更が、多様な程度において、その特殊な性格を破壊することもあり得る。事実、内容は変更され、再配分され、混合され、完全に変容してしまうこともある。端的に言って、それ自体としての述語は、多かれ少なかれ完全に真ではないかもしれない。かくして我々は実際には、常に未知なるものに従属し、その恩恵を受けていると主張される(2)。それゆえ、我々の判断は、常にその拡がりにおいては異なるにしろ、最終的には条件的と言える。

 

*2

 

*1:(1)おそらく、ここで私の『論理学原理』を参照にできるだろう。絶対に関する 形而上学的言明でさえ厳密にはカテゴリカルではないことを付け加えられよう。第 二十七章参照。

*2:

(1)この言葉はしばしば時間的存在の存在を含み、それを離れても反論しうる。 ボサンクエットの見事な『論理学』I、第六章を参照のこと。

(2)それゆえ、最終的には我々は未知なるものの主張を受け入れねばならない。 しかしながら、「性質」は何も付け加えないこともあるし、間違ったものを付け加 えることもあるので、それを未知なる性質の述語化とは言わない方がいい(『論理 学原理』87ページ)。上述の教義は、根拠と帰結、原因と結果の相互作用に重大 な影響を与えるように思える。もし判断が純粋なものなら、関係がどちらの方へも つながることは確かに同意される(ボサンクエット『論理学』I、261-4ペー ジ)。しかし、最終的にそれが不純にとどまるなら、特殊化されない背景によって 常に性質づけられねばならないのなら、そうした状況を考慮に入れねばならなくな る。