ケネス・バーク『動機の修辞学』 50

.. 『ヴィーナスとアドニス』の「社会神秘的」解釈

 

 文学作品の宮廷作法的動機に特徴的な表現について考えるとき、シェークスピアの物語風の詩、『ヴィーナスとアドニス』は最適である。風変わりなのは、<性的な>求愛の物語であるが、我々の探求にとってより役に立つ<社会的>同一化の問題が含まれていることである。

 

 我々はこの詩の宮廷作法をどのような主要要素に還元するべきだろうか。第一に、性的に成熟した女神が性的に未熟な人間の男性に熱烈に求愛する。興味があるのは狩りだけだと言って彼は抵抗する。しかしながら、この二者択一は、一見思われるほどかけ離れたものではない。彼は言う、「私は愛を知らない・・・また、知ろうとも思わぬ、もしそれが猪で、私がそれを狩するのでなければ」と——そして、猪の命がけの攻撃が愛の形象で描かれる。

 

彼は鋭い槍をもって猪めがけて走り、

猪は彼に向ってその牙を研ごうとはせずに、

キッスで彼をそこにとどめようと思って、

脇腹に鼻先を入れて擦ったとき、この惚れ込んだ猪は、

ついうっかりと彼の柔らかな腿の付け根にその牙をつき刺したのだ。

                  (本堂正夫訳)

 

 

 この詩句に従い、狩りとそこでの出来事を宮廷作法の一形式として扱うなら、この劇的物語には三人の登場人物がおり、それぞれが諸動機の位階の質的に異なった段階にいることになる。女神(「恋に悩むヴィーナス」)、人間(「薔薇色の頬をしたアドニス」・・・「年端もいかぬ少年」)、そして、動物(「不潔で、獰猛、尖った鼻をした猪」)と。活躍するこれら主要な登場者が異なった「階級」にいると言っては言い過ぎだろうか。

 

 「恋する雌馬」とアドニスの「跳びはねる駿馬」が副次的な登場人物となっている。少なくとも、彼らは重要な修辞的働きをする。ヴィーナスの熱情が雌馬の熱情に写し取られたかのように、アナロジーによって求愛の主題が敷衍され、繰り返される。アドニスの全くの冷淡さと雌馬のはにかんだ熱情(「つれなく振るまい」「無関心を装い」と人間的な媚態として描かれる)が対照的な関係をなし、劇についての注解となっている。恐らく、あとは、ヴィーナスが注意を引こうとしてアドニスをうんざりさせ、不機嫌にさせたにもかかわらず、馬を失ったせいでヴィーナスのもとを去れなかった、とだけ記せば「馬の」求愛については十分であろう。

 

 しかしながら、それ以上のこともあるかもしれない。つまり、アドニスと彼の馬が一つの動機群にあると考えられるかもしれない。ヴィーナスは愛の原理であり、自分とアドニスの関係は不調であっても、雌馬に、そして雌馬を通じて愛を働きかけねばならない。この愛する馬は「人に乗られたことのない馬」であり——馬の力は、人間の乗り手を逃れる限り理性的な支配を外れ、エロティックな熱情のもと人間に従いはしないだろう。少なくとも、この挿話はメタファーとして働き、解放された情熱をあらわしていると言える。あるいは、詩のシンボルをより正確に読み取ろうとするなら、アドニスの代理であるアドニスの馬は主人から逃げ出したがゆえにかくも趣ある存在たり得たのではないかと問える(その重要な手がかりは馬が「軛を脱する」連にある)。そこで、次のような寓意が引き出せるかもしれない。アドニスと彼の馬とを含む動機群全体のなかで、アドニスだけに欠けているのは異性に対する性的熱情である。そして、この熱情は、馬が人間の(「理性的な」)支配に特徴的な影響を逃れ、動物的本能が活発になったときはじめてあらわれるのである。

 

 馬が雌馬と一緒になろうとする熱意とは対照的な、女神に対するアドニスの尻込みはどう考えるべきだろうか。

 

 狩りの始まりを告げる音を聞き、アドニスの安全を按じるヴィーナスは茂みを駆け抜ける。

 

さながら乳を与える牝鹿が、あまりに乳房が張って痛み、

藪に隠した子に乳をやろうと急ぎ走るように。

 

 

その以前にヴィーナスはこう言っていた。

 

私は鹿園であり、おまえは私の鹿

山でも谷でも好きなところで食むがいい

私の唇で食すもよし、その丘が乾いているなら

下っていけば、心地よい泉がある

 

 

同じように、至る所で彼は「あやされむずがる幼児のように」愛撫に身を任せる。

 

 こうした比喩の母性的な意味合いは、多くの箇所でアドニスの「未熟」を確認するのと相まって、この詩の構想に<潜在する>男性のモチーフに関する限り、ヴィーナスのアドニスとの関係は母親と子供との関係に等しいと信じさせるに足る。それゆえ、少年の欲望は、「近親相姦のタブー」にうまく適応できるよう狩りに集中している。そして、女性への求愛と狩りとの間にある伝統的な転換に従って行動している。(例えば、『十二夜』の冒頭近くにある心と鹿【heartとhart】との地口を参照。あるいは、この比喩を教義化したものにルソーの教育についての考えがあり、彼は、エミールの早すぎる性的関心は狩りによって鎮められ逸らされるべきだと忠告している。『ガウェインと緑の騎士』では、狩りと女性のほかに食欲がつけ加わっており、求愛は感覚的充足を越えたものとして精神化されているが、その補償として貪欲な獲物の追求と豪華な宴会がある。)

 

 二<種類>の女性(母性的女性とエロティックな女性)を切り離せないことから、アドニスの猪に対する関係を述べる曖昧で同性愛的な言葉を説明できる。(その言葉は紛うことなく同性愛的だというわけではない。というのも、それはヴィーナスの叫びとして発せられ、男性のエロティックな動機についての女性の観点と見なせるからである。)この種の最もあからさまな一節は既に引用したが、そこではアドニス股間が猪の牙のさやとなり、オルガスム的な意味合いをもつ死が描かれている(死に至る愛Liebestodの両義性)。もしこの解釈が正しいなら、アドニスの死は、罪のある行為とその悲劇的な報いを含む一つのシンボルであり(こうした対立するものの融合が最も効果的なシンボルを形づくる)、死は罪の「原因」を悲劇によって尊厳化するだろう。また、このことで、なぜアドニスの馬が、アドニスの代理でありながら、アドニスの理性や強情さを欠き、アドニスには持ち得なかった完全に異性愛的な欲望をもてたかが説明される。同性愛的モチーフと母親の問題はアドニスにおいて同じ道徳的コンプレックスの一部であった。そして、このコンプレックスは、馬のように乗り手がいないか、理性を欠いた単純さを有する場合にのみ、欲望を縛りつけておくことができなくなろう。

 

 しかしながら、我々の主要な関心は、この詩を<位階>によって論じることにある——そして、母親−息子の含意は、それを無視することで、読者をあらぬ解釈に向かわせるといけないので、認めた上で取り除くために考慮した。そこで、女神、少年、猪が三つの異なった動機づけの<階級>をあらわすという考察を展開させていきたい。

 

 スピノザの根本的な定式、<神あるいは自然>を思い起こしてみよう。接続詞「あるいは」の文法的な働きによって、スピノザは二つの動機の領域を橋渡ししている。同様に、カーライルは「衣装」というイメージに同じような働きをさせ、神的なものに対する敬意と世俗的な高位者への敬意を交流させるような橋を架けた。二つの領域は、聖職者を考慮に入れるにしろ入れないにしろ、多様な用語上の可能性がある。天界における秩序のみを考えた言い方、社会的秩序のみの言い方、公然と二つの領域に橋を架ける言い方、表面は天界で内実は社会的な言い方、表面は社会的で内実は天界を指す言い方、社会を装いながら実際には天界を指す言い方、天界を装いながら実際は社会を指す言い方。最後の五つのパターンはすべて架橋の原理の変種として扱うことができる(別の装いでは、<同一化>の原理となる)。

 

 ここで「天界」というのは、神による非常に高次な秩序である必要はない。いかなるものであれ、超自然的な動機づけ(それが正当化されようがされまいが)であれば当てはまろう。かくして、ヘンリー・ジェイムズの幽霊譚「ねじの回転」で、モチーフとなる「精神」が象徴化されたピーター・クイントとミス・ジェスルという「超自然的な」存在もそこに含めることができる。特に、「神秘」と「神秘化」の以前からの考察に従えば、表面的には「神的」存在をあらわす動機の表現が、社会的位階による動機の形式化と説明した方がよりよく説明される場合を用心しておくべきである。

 

 シェークスピアの『ヴィーナスとアドニス』のヴィーナスは、神学よりも社会的用語を用いた方がよりよく説明されないだろうか。彼女が名目上は人間に求愛する女神であっても、この詩を神秘家の修道女が自分と天界の花婿との交渉を記したもののように、あるいは、神学者が雅歌を解釈するようなやり方で真剣に読むものはいないであろう。ヴィーナスはいかなる信心に訴えたとしても「女神」ではない。彼女は、自分より劣った者の好意を請うことによって自ら身を落とすことを余儀なくされた卓越した人格である。この観点から詩を見て、その求愛のスタイルを判断し、イメージに散らばったヒントをかき集めると、次のような関係が見て取れる、つまり、女神の人間に対する関係は、貴人の平民に対する関係に等しい。ここでの「神の」属性は、社会的に高位にあることでしかない。特定の貴婦人というよりは、むしろその普遍的な気高さにおいて「謎めいて」いるのだが、それを女神といっては「大げさ」になろう。

 

 「神性」と社会的優位とが入れ替えられることに基づいて、すべてを当てはめるつもりはない。煎じ詰めれば、そうした解釈をすることもできる。ヴィーナスは上流階級をあらわし、アドニス中産階級を、猪は下層階級をあらわすだろう(宮廷の眼鏡をかけた中産階級の眼から見れば)。馬は中産階級の力強い側面と、やや曖昧ではあるが高貴さをあらわす(「神のごとき」高揚を感じる愛)。猪によって、間接的に、下層階級を社会の澱に、道徳的悪に同一視できる。この詩で、猪は(つまり下層階級)はアドニスの無反応に含まれるよう思われる同性愛的な罪を体現する悪であり得る。あるいは、罪一般をあらわしている。スケープゴートの通例に従って、内部にある不快な部分が外で狩られるものとなり、狩る者と狩られる者とのあいだに奇妙な交流が生まれる。「社会神秘的な」解釈を肉づけし、煎じ詰めればどうなるか、我々はこれで十分に示した。

 

 しかし、我々にはより少量で十分であろう。我々が主張しているのは、単に、この詩は、位階的な動機によって、あるいはより限定して、<宮廷作法>の修辞を探るにふさわしい<社会秩序>を通じて見るべきだということである。そこで、社会的優位者が劣った者の好意を請うという注目すべき逆転が強調されるのである。そして、エロティックなイメージの輝きによってそこに潜むパターンを見失うべきではないのであって、このパターンは、エロティックな要素によって謎めいたものとなっているが、「原理的には」少しもエロティックなものでは、少なくとも狭義の性的な意味でエロティックなものではない。(この語を、ソクラテスのエロティックのように、究極的な原理の領域にまで、普遍的な弁証法的動機を含むものにまで拡大するなら、我々の立場は異なったものとなろう。)

 

 この詩を「社会神秘的に」見ると、熱烈な恋愛のによって見失われがちな詩句が重視されることになろう。かくして、我々は、アドニスが「彼女に満足を与えるように強いられ、だが従うこころはなく」という箇所に注目する。あるいは、次のようなヴィーナスの言葉。

 

わたしはどんな契約をしたらいいだろう?

自らを売ることもわたしはいとわないだろう、

あなたが買い取り、支払い、それをよく遇するならば。

 

 

あるいは、虫の知らせのように、猪によって傷を負った猟犬を見たとき、

 

世の哀れな人々が幽霊や、

予兆や不吉な現象に肝をつぶし、

恐怖に充ちた目で長い間凝視し、

恐ろしい予言をわれとわが心に注ぎこむように、

そのように彼女はこの悲しい兆を見て息を呑み、

再び吐息して「死の神」を大声でののしる。

 

 

ヴィーナスはここでは、天文学的なまでに卑小化され、「女神」は、空を見つめる「世の哀れな人々」のようにアドニスの死の前兆を見ている。この一節は、アドニスが最終的に彼女を拒否する瞬間に導入される神格化の主題(アドニスが天空の存在にまで持ち上げられる)に続く。リチャーズが思い起こさせてくれるところによると、コールリッジはその一節を「想像力」の例としてあげた。

 

輝く星が空から射られるように、

彼は夜の中へとヴィーナスの目から滑り去っていく。

 

 

 ここでは新たな秩序が示されており、ヴィーナスではなくアドニスが天上の存在である。彼のもつ受動的な優位性、彼女への無関心が行為として輝いている。捕捉への熱意が(狩人としての)天空にまで持ち上げられる。

 

 こうした展開をもっぱら性的と見ることは、実際には、性に支配されることである。むしろ、宮廷作法の、<社会的>顕示の<原理>、同じことだが、<位階的な>動機をあらわすものとして調べてみるべきである。社会的作法と性的作法の用語は容易に交換可能だが、それは単に一方が他方の「代用」となるからではなく、性的作法が本来社会的位階の動機と融合しているからなのである。

 

 かくして、この詩を「社会神秘的に」見ると、遠回りで謎めいたやり方ではあるが、ある種の革命的な挑戦をあらわしていると取れる。社会的あるいは政治的言葉ではどんな宮廷詩人も言おうと思わなかったし、言うと考えることさえできなかったことを、性的な形象によって遠く隔たった場所から言いあらわし、古い秩序を引きずりおろしている。そうした条件つきの逆転を意図していた証拠は、ヴィーナスが転倒した世界を予言して終わるのに認められるが、そこでは愛は(混乱した諸条件のなか)

 

・・・物惜しみをし、またいとも放縦になることもあろう、

ぼけた老人にもダンスのステップを踏むことを教え、

凶暴な悪漢も静粛にさせ、

富める者を破滅させ、貧しい者を富ませる。

愛は凶暴なまでに荒れ狂い、かと思うとあどけないまでに優しく、

若者を老いこませ、老いたる者を幼な児たらしめる。

 

愛は戦争や、恐ろしい出来事の原因となり、

息子と父親の間に不和を惹き起すだろう。

愛があらゆる不平不満に奴隷のように仕えることは

さながら乾いて燃え易い物質が火に従うようだ。・・・

 

 

 認められるのは次のことである。社会的な位階を超えた、あるいは先行する状況に根ざす究極的動機の問題へ連れ戻す逆説にここで我々は直面している。容易にその動機を入れ替えられるような、漠然とした弁証法的で自然な基盤が(愛と狩猟、性的欲望と食物の関係のように)、愛と戦争の無軌道ではあるが親密な関係として、ヴィーナスの変容に要約されている。(ヴィーナスが、戦神は自分の「冷ややかな軽蔑」の「奴隷」だと言うのからわかる通り、それ自体一種の戦争であるヴィーナスと戦神の結婚のように、詩では諸原理が性化されている。)詩の最後を締めくくる転倒の動機づけが社会的秩序だけで論じ尽くされないことは我々も認める。だが、いかなる究極的な動機も、形式的芸術的表現を取る場合には、社会的秩序(つまり、社会的位階)からその辛辣さと方向性を得る。それにふさわしく、詩はアドニスが辱めのうちに死ぬまでこの転倒を予言することはない(辱めは、社会的逆転の原理を含んではいるが、前ライヒ的な「性的革命」に見合った言葉で述べらる)。

 

 『俗語論』で、ダンテは英雄詩にふさわしい三つの主題として、愛、勇気、幸福を(Venus,Virtus,Salus)選んでいる。明らかに、この詩は、幾分ひねくれてはいるものの、ダンテの求めに応じている。恐らくこの三種の主題は、深遠なる一つの究極的な関係に還元できる。しかし、社会的動機に関する限り、詩は自負の問題を巡って形づくられる。雌馬(この詩において女性は、当時の宮廷作法の標準に従って当然の如く求婚する)は「女の常として、彼が彼女に慕いよるのを誇る」。軛を脱した雄馬は主人の支配から自由になったことに「誇り」を感じる。こうした誇りは、明らかに、劣ったものと優位者との揺れ動く関係を反映している(神々の反乱の神話のように、位階的な動機に関わる)。かくして、捉えにくくはあるが、ヴィーナスの「神性」を天界のものである以上に社会的なものだと認めるなら、ヴィーナスは非性化され、つまりは、階級的なものとなる。彼女が代表する階級はその厳粛さを放棄することとなる。宮廷作法的な技巧が疑われる。アドニスは彼女に、「私は愛を憎むのではなく、あなたの愛の手管を憎むのだ」と言う。

 

 我々は、この詩が、意識的に性的な謎のうちに社会的な寓意を隠したと思っているわけではない。「安っぽい」理論を好む学者たちは、詩に同時代の著名人へのほのめかしを読み取ろうと躍起になっている。しかし、たとえほのめかしが意図的に詩人によって挿入され、読者がそれを読み取ったとしても、そうした駆け引きは我々がここで研究している種類の表現の意図を示しているわけではなかろう。こうした同一視は暗黙の、「無意識のもの」でもあり得る。

 

 我々がここで考えている種類のことを理解するには、まず第一に、経験論に典型的な「私がこの対象を見るとき、私はなにを見ているのか」、といった問題にまつわる思弁をすべて捨て去らねばならない。詩的な観察には、観察される対象と観察する眼の裸の関係など含まれてはいない。詩人が用いる主題は「カリスマ的」である。光り輝く。中世研究家が、詩人のイメージに天上の位階の神秘が謎めいた形で隠されていると、類推によって解釈するとき、彼らは間違っていると論じることもできる。しかし、マルクスとカーライルを結びつけ、エンプソンからヒントを貰うと、詩人のシンボルが謎めいて<おり>、<隠された>領域、<神秘>をあらわしているという中世研究家の確信がいかに正しいかが理解されるようになる(その「神性」は、世俗的な領域におけるローマ皇帝や「大神官」のように、社会的位階から生じたのかもしれないが)。

 

 自然の世界が対象でも、詩においては、身分判断との秘かな「同一視」がなされるに違いない。(例えば、音楽と海での余暇は大いに気分を左右し、社会的秩序の頂点を究極的秩序の深淵に直面させる。)マヤのヴェールは位階の糸で織りなされており——詩人の主題はこの薄衣を通して輝くのである。「社会神秘的な」解釈ということで、我々はこうした暗黙のうちになされる同一化の探求を意味している。個々の例で間違うかもしれないが、こうした分析は「原理として」要求されるべきだと我々は主張する。詩人のシンボルは謎めいたもの<であり>、その謎は「神秘」を生みだすことから生じて<おり>、その神秘とは、強固に位階化された中世の思想家たちが明瞭に理解していたように、位階的な経験なのである。疑いの眼で見られている今日のマルクス主義者たちは、自分たちの批評を「社会学的」と呼び、それを現代の自由主義的科学と結びつけている。しかし、マルクスの「神秘化」の理論において論争的に再発見された中世初期の思考パターンとの関係はどうなっているのだろうか。「社会神秘的」解釈は、マルクスの「神秘化」に対する怒りとカーライルの「神秘」への追従の中間にある「中立的」方法を探りだせば、マルクス主義的洞察の名に値するものとなろう。

 

 中世における四種類の解釈は、アクイナスの『神学大全』第一問の第八項及び九項【実際には九項と十項】で定義されており、そこでアクイナスは字義通りの意味に加えて三種の「霊的な」意味を区別している。聖書の字義通りの意味は比喩ではなく、比喩されているものにある。例えば、「神の御手」といった比喩の場合、字義通りの意味は「神の効力」であろう。三種の霊的意味に関しては、キリスト教徒が旧約は新約を比喩表象していると言う限り、旧約聖書の解釈は「寓意的」になる。聖書の人物の行為があらゆる人間の行動の範例とされる限り、その意味は「道徳的」あるいは「比喩解釈的的」である。聖書の事物が「永遠なる神の栄光に関連するものをあらわす」限り、その意味は神秘的である。

 

 我々は「天界」の神秘よりもむしろ「社会的神秘」、我々の言葉で言えば、「社会神秘的」な要素を探している。恐らく、「道徳的」あるいは「比喩解釈的」批評に等しいものは、作者と読者にとって、改善し、安定化し、元気づけ、浄化し、社会化する等々の、儀式としての詩への関心に見いだされるだろう。ある秩序が別の秩序のしるしとして解釈される際の意味は、恐らく「寓意」に現代的に相応したものであろう。例えば、ヴィーナスを母性をあらわすものとする精神分析的解釈、あるいは、ヴィーナス、アドニス、猪を三つの異なった階級と同一視する場合である。寓意的意味と道徳的意味は、位階の神秘が重視される限りにおいて、社会神秘的なものに赴く(様々な気後れ、宮廷作法、形を変えた攻撃、よそよそしさ、気象を利用した荘厳化、地上において天上の寺院、礼服、希少な霊的器に相応するものを演出する、等々の世俗的な神聖化の原理)。端的に言って、社会神秘的意味は、様々な書物に、また自然という書物にある事物が、いかに「世俗的な栄光に関連したものをあらわす」かを示している。

 

 スコラ哲学者は四種の意味を区別する次のような調子のいい詩をもっていた。

Littera gesta docet;quid credas allegoria;

Moralis quid agas ;quo tendas anagogia.

 

神秘的解釈に特徴的な要素として風潮、傾向、方向性などが言われること自体、神秘的解釈の概念が世俗化されうることを示している。