ブラッドリー『仮象と実在』 172

[それゆえ、全体的な真理あるいは誤りはなく、ただ正当性の多少があるだけである。]

 

 しかし、ここにおいて我々は誤りと真実が落ち合う点に行き着くことになる。完全に間違いであるような誤りが存在しないように、完全に真であるような真理は存在しないだろう。厳密にとると、すべては同じく量の問題であり、より多いかより少ないかということになろう。我々の思考は、確かに、ある目的に従ったときには、完全に間違い、あるいはまたまったく正確であることもあり得る。しかし、絶対によって測ったとき、真理と誤りは常に程度に依存しているに違いない。一言で言えば、我々の判断は決して完全な真理に到達することはあり得ず、より多いあるいはより少ない正当性で満足しなければならない。この言葉によって、目的に向けて作業している際に我々の判断は認めうるものとなり、許されるということを単に意味しているわけではない。それらは多かれ少なかれ、実際に絶対的真理と実在の性格や型を持っているということがいいたいのである。それらは多かれ少なかれ性質をそのうちに有しているので、実在の場に多様な拡がりをとることができる。それらは多かれ少なかれ混乱に影響される真理の割合として我々に提示される、よりよいこともより悪いこともあるあらわれである。端的に言って、我々の判断はそれらが実在の基準と合致し、そこから逸脱しない限りにおいて正しい。別の言い方をすると、真理は、それを多かれ少なかれ実在に移入しうる限りにおいて真である。

 

 その限りにおいて、真理は相対的で、常に不完全であるとわかる。完全には届かないまでも、あらゆる思考はある程度において真であることを次に見なければならない。一方においてそれは足りない部分があるが、他方において、同時に基準を実現している。しかし、我々はまず基準とはなにかを探求することから始めねばならない。