ケネス・バーク『動機の修辞学』 51

.. 宮廷作法の範型:カスティリオーネ

 

 多分、我々の目的にとって最適なテキストは、マキャベリの同時代人であり、彼と同じく君主の原理に関心を払ったバルダサール・カスティリオーネの『宮廷人の書』である。大きな構想のもち、段階を追って変わる宮廷作法の階梯が弁証法的に描かれ、最終的な段階では社会的神秘を越え、プラトン的な神秘、天界の神秘の神秘的ヴィジョンで終わっている。通常この作品は作法の教則本、または礼儀に関する本として研究されており、エリザベス朝詩人の宮廷風スタイルに強い影響を与えた。しかし、我々は修辞的動機が弁証法的に純化される際の形式的な手続きをあらわしたものとしてみたい。形式的な観点から見ると、通常は断片的にしか見て取れない説得の有効範囲が見て取れる。そして、多様な説得の形を統一してみると、断片しか見いだせないときにも、その意味合いがよりよく理解できるようになる。

 

 この本は、1507年、ウルビノ公の宮廷での連続四夜に渡る会話を描いている。公は不在であり、会話は公夫人の前で行われる。宮廷人の多くがこの対話に参加する。最初は「気晴らし」として、恋するものが「愛する人物」から受ける「甘美なる軽蔑」について議論される。しかし、最終的には、「良き宮廷人たる者が、その名に値する存在となるためにはどんな条件、性質が必要であるかを詳細に述べる」ことに決まる。

 

 第一巻は、完璧な宮廷人がもたねばならぬ主要な資質があげられる。高貴な生まれ、財産、剣の腕、馬術、優雅さ、「笑い、戯れ、冗談を言い、ダンスをする」能力、上手に話し書くこと、楽器を演奏すること(宮廷では女性の「優しく柔和な胸はメロディーによってすぐさま揺り動かされ、甘美さでいっぱいになる」から特に必要である)などがそれである。宮廷人はまた、デッサンや絵画にも通じているべきである(ギリシャでは、絵画は「自由科の第一等であり、後には使用人や奴隷に教えるべきではないとはっきり制定された」とある語り手は述べる)。

 

 幾つか反論があがる。例えば、ある者は、宮廷人は武術を最も重要だと考えるべきで、「他の資質はその飾り」に過ぎないと言うが、枢機卿ピーター・ベンボは武術も他の資質も「学問の飾り」と考えるべきで、学問こそは、「精神が身体に勝るように、その品位において武術に勝る」と答える。ベンボ枢機卿の立場は第四巻の最後で明らかになろう。とりあえず、宮廷人の資質はまず第一に<訴えかける力>だということにだけは着目しておこう(本質的に修辞学の領域である)。第一の目的は「栄誉」を得ることだが、強く志向される動機として、他者によく思われて生活することが求められている。

 

 最初の対話は「各人が夫人のもとを恭しく去る」ことで終わる。

 

 第二巻で、修辞的動機がより明らかになる。この章は礼儀正しい態度、最も利益を上げる訴えかけの方法が扱われている。例えば、「小競り合い、襲撃、戦い、などが自国、あるいは他国であった」場合には、「大多数からは身を離し、賢明に問題に当たるべきである」。いかに「傑出した剛胆な勲功」をあげるにしても、「できるだけ少ない仲間で、軍隊で最も尊敬を受けている貴人の前で、(できうれば)自分が仕える王や最高位の人物の目の前で、うまく演じられる見せ物のようになされる」べきである。

 

 このように立ち会いを求めることで、宮廷人の社会的上位者への関係は、殉教者の神に対する、作家の公衆に対する、俳優の観客に対する関係に等しい。「自己顕示欲」という名称のもとに、修辞的動機の一分野をつくることができる。似たようなラ・ロシュフーコーの格言が思い起こされる、「本当の苦行は誰にも知られないことである。Les veritables mortifications sont celles qui ne sont point connues;la vanite rend les autres faciles」。ラ・ロシュフーコーは純粋な宗教的訴えと単なる虚栄心への訴えを対比して明らかにしている。苦行は目撃されて<いなければならない>。それは、眼には見えない神に提示される証拠である。(証言である)殉教は本質的に修辞的であって、その言葉自体法廷用語からきている。しかしながら、虚栄心は絶対者の目撃を望むのではなく、人間の観客を望む。前提として超自然的目撃者がいないなら、殉教はある種の過酷な「誇示的雄弁」でしかなくなるだろう(キリスト教の説得は本質的に修辞的であって、修辞学におけるキケロの徹底ぶりが、彼を本質的にキリスト教徒であるかのようにみせている)。

 

 ラ・ロシュフーコーは、超現世的原理への証言と思われるものが、実際には<上流社会>へ向いていると述べることで修辞的な状況を論じた。しかし、『宮廷人の書』はあからさまに世俗的原理に向けられた証言を論じている。(二つの領域が修辞的に影響し合い、社会的崇敬と宗教的な崇敬とを交換可能にする方法については、編者もあげているが、世俗的君主には片方の膝を、神には両膝を屈するよう若者に教えている初期イギリスの作法書を思い起こすことができる。エドマンド・バークが、ヨーロッパ文明は「二つの原理、紳士の精神と宗教の精神」で成り立っていると言うとき、その発言は、「二つの原理」が、二つの用語法のなかで名づけられた一つの原理だという可能性を示唆している。「閣下=崇拝されるべき」という古くからの封建的な表現にあからさまな異教精神と一致する、宗教を、ごく自然に政治的道具として修辞的に用いることを許す魔術的混同がある。)

 

 かくして、我々は三種類の相手に向かっている。神の証人、君主の証人、神の証人を装った仲間の証人である。それらを一緒くたにし、「栄光」に天上的動機とともに宮廷的動機があると考えると、共同体の理想に向けた振る舞いが必要とされる「良心」そのものに修辞的な要素が見て取れないだろうか。

 

 体制順応と偽善も説得の一種ではあるが、十分に普遍化して考えられていない聴衆に向いている。犯罪者が「無意識に」捕まることを望むとき、自己処罰の動機、自らに課した正義への服従が彼を危険に追い込むのだと仮定する必要があるだろうか。そうした動機もあるかもしれない。しかし、より一般的な動機、「論理的に先行する」動機があり得ないだろうか。修辞的動機<それ自体>、観衆に向かい証人たらんとする欲望によって動かされていることもあり得るのであり、その場合、違反は「殉教」であり、またそう見られるべきである。

 

 ハリウッドの犯罪ミステリーでは、位階的動機(階級関係の魔術)は、たいてい個人的所有のイメージの背後に隠されている。所有に対する崇拝は(規範に対する違反によって逆の形で例証される)、時に、階級のしるしである所有の特殊な性質を曖昧にする。しかし、金銭によって、低家賃の地下室から高価なアパートやナイトクラブへ移るという転換が、「上流夫人」の獲得をめぐる争いとともに基本的なパターンであって、そこにはヴェブレンが示した追従を受ける「栄誉」とその誇示が多く見られる。誇示は「神秘」と感じられる場合にのみ行動とも感じられる。

 

 テクノロジー社会では、労働の分化があって、互いに助け合う専門家同士の社会が必要とされる。自動車修理工は皿洗いの使用人で、皿洗いは自動車修理工の使用人であり、「ねたましさ」の関係は金銭と役割の交代で「民主的」になっている。主人と使用人とが入れ替わるローマのサチュルス祭を思い起こして貰えばいいが、我々の民主主義は、上下の関係が常に逆転し、ある種永遠に続き微細に変化していくサチュルス祭として描くことができる。ごく一般的な意味ではともかく、身分制の神秘に関して、「質」を量的、金銭的な尺度で測ろうとする極めて「不敬な」状況である。ハリウッド犯罪ミステリーはこうした状況に対する回答であり、位階を行き来する「自由な」あるいはわがままな衝動を十分に表現し、同時に、資本主義の本質にある位階の規範、階級区別のしるしとしての金銭の神秘を大いに補強するのである。

 

 (『宮廷人の書』からずいぶん遠くへきてしまった。しかし、まさしくこうした目的のためにカスティリオーネの作品を範型として導入したのである。だから、逸脱も辞さないことにしよう。テキストに明らかな推論を借り、同じ要素が条件の変化でどのように変容しているかを確かめてみたい。我々は、宮廷や位階的関係が、そうした言葉では考えられていない異なった表現でどんな形を取るか見てみたいのである。一見異なり、様々に変容しているが、同じ修辞的宮廷的な動機が存在しているのが認められる。だが、それらを一緒にしてつきあわせてみれば、それぞれの特殊性に気づくので、それらがすべて同一だと言う必要はない。)

 

 対話に戻ると、第二巻では、宮廷で有利な地歩を占めるための方法が扱われている。一人の語り手は、社会的身分の低い者との戦いの妥当性を疑問視しており、というのも、勝ったとしても得るものは少ないが、「負けたときの損失が非常に大きい」からである。音楽に優れている者が、いつでも歌いだそうとしたり、市場であった剣士が、「剣を振るうかのような身振りで」挨拶をするといった、ひっきりなしに才能を見せびらかすことも警告されている。宮廷人にとって有益で反語的な手段として示されるのは仮面をかぶることである。無骨な羊飼いのような低い階級の者に仮装してみるがいい。馬上で堂々とした演技をすれば、観客の期待を遙かにしのぐことになり、見せ物は二重に効果的になろう。宮廷人は「なにをおいても忠誠を尽くす君主を愛し、(いわば)尊敬し、その意図、作法、流儀において柔軟に彼を喜ばすよう」勧められる。(「主人に向かう召使いのような尊敬と恭しさを持ち続け、特に海外では気を遣うこと」という命令には、この原理が宮廷人と君主との関係から、宮廷人と一般的な世俗的判断の関係に移されるている。)

 

 君主に直接に恩顧を願うのは、拒否されたり、更に悪い場合には、不興を招くことがあるので用心しなければならない。「偉大な方の恩顧を受けたいと」願うあまり、「君主が引き上げた部屋や個室にまで押しかける」べきではない。というのも、支配者が一人のときには、「好きなように語り振る舞う自由を愛している」場合があり、驚かされたことに怒りが示されるかもしれない。君主にとって重要な事柄に関わる宮廷人が「内密に部屋を訪ねる」ような場合には、「煩わしいと感じられていない」ことを見定めるまで、「素知らぬふりをし、重要な問題は先送りするべきである」。宮廷人は、「多くの者がするように、公衆の面前で君主の恩顧や引き立てを切望するのではなく、与えられるのを待ち望む」べきである。「恩顧を得ることに成功するや、それに酔い、喜びでなにをすべきかを忘れ」、「慣れないことに出くわしたかのように、それを共に認め、喜んでくれる仲間を呼ぼうとする」べきではない。*宮廷人は「恩顧や引き立てを尊重」すべきだが、それなしでは生きていくことができないとか、それが「不慣れで身につかぬ」という印象を与えるべきではない。他方、「うっかり恩顧を受け損なってしまったり、自分にはその価値はないと信じて」しまったりするのも避けるべきである。かくして、宮廷人は前に出すぎても、後ろに下がりすぎてもならず、常に 慎ましやかに分を守り、恩顧や引き立てはたやすく受けたりはせず、謙虚に辞退して、尊重していることを示しておけば、そうした機会はより頻繁に訪れることになろう。

 

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 宮廷人は、恩顧や引き立てを謙虚に受け入れるのがより望ましいと覚えておくべきである——そして、語り手は聖書と匹敵する位階的思考を示す。「結婚式に招待されたときには、一番下座に行って座るがいい、そうすればあなたを招待した人物が現れたとき、友よ、こっちへきてください、と言うので、招待客の前で栄誉を受けることになろう。」しかし、第二巻の冒頭で扱われているような、宮廷人風の「方向性をもつ行為」の性質(修辞的要素)については既に十分に例を挙げた。

 

 様々な話題、特に乱暴な振る舞いと自分の身を犠牲にして冗談を言う傾向を諫めたあとで、話は別の種類の方向性、つまり「人を笑わせる」という聴衆に効果的で価値ある喜劇的技巧の体系的な研究に移る(仮装行列として自己完結している社会では、宮廷人は互いにとっての聴衆なので、劇場という形式は必要ない)。

 

 笑いの礼賛は多くの点で「宮廷人病」に合っている。第一に、「リベラル」で、自由民階級にふさわしい(ラブレー的動機)。人間だけが笑うので、「人道的」でもある(恐らくそれは「合理性」の働きでもあって、シンボルという迂回路を通って現実に直面する)。不作法は、同時に、それが侵犯する礼儀正しさを再確認させるから笑いを引き起こすことができる。爆発的な驚きの笑いは予期されていることが突然破られるときに可能になる——「滑稽な笑い話」は自由に宮廷人の規範を再確認できる。「正しい」笑うべき対象を示すことで、宮廷人は自らの階級のしるしを誇示する。滑稽さを共有することで、同じ階級にあることを証明する。愚者や田舎者に対する優越意識には位階的原理が強く働いているが、こうした優越感は、様々な装いのもと、笑いが笑われている犠牲者との巧妙な同一化として働くことにより、個人的な心許ない感覚と容易に結びつく。笑いにおいては、笑われる者と笑う者との区別が超越され得るからである。喜劇が悲劇よりも著しく<観客に向う要素が強い>のは、舞台の喜劇俳優は虚構の枠組みを壊すことなく観客に自分の秘密を語りかけることができるが、悲劇では、観客への説明のために挿入されているのが明らかな場面でも、俳優は独白であるかのように語るのに明らかである。

 

 笑いにおける「ねたみ」の要素は、君主の恩顧を得る争いをそれほど重大でない方向に逸らすことができる。専門的な階級として、宮廷人にある種の結束をもたらすことができる。競争相手同士の共済組合のようなもので、自分たちより低い階級の者を冗談の的に選ぶことは、自分たちの結束を強める必需品なのである。

 

 議論は「愉快ないたずら」で終るが、それは、効果において笑いと同じ「場所」を占める。ボッカチオが例としてあげられるが、物語そのものではなく、階級のしるしを際だたせるためなのが見て取れる。しっかりと位階関係が確立されてしまえば、君主夫人が言うように、神秘は微笑にまで洗練されるのである。

 

愉快ないたずらをお偉方にすることが、礼儀作法に反さない場合もあります。フレデリック公、アラゴンのアルフォンサス王、スペインのイザベル女王など多くの君主へいたずらがされたと聞いていますが、ご不興を受けるどころか、多くの者が報賞を受けているくらいです。

 

 

 

笑いが不遜にも、宮廷で恩顧の原理を司る者に向けられる場合には、敬意もまた見て取れるような注意深い計算がされていなければならない——「犠牲になった王」は威厳を取り戻すために怒りをたぎらせる必要はなく、鷹揚にユーモアを楽しめるほど偉大だという具合にである。

 

 弁証法的見地から『宮廷人の書』を見て、真っ先に注目すべきは、第三巻から最終巻にかけて、動機づけの性質がまったく変わってしまうことにある。第三巻は、宮廷における男女のつきあいの規範を扱っており、ある意味最終的な超越の暗示となっている。性愛の主題が導入されるが、ベンボ枢機卿が我を忘れた説教であるかのように、それをプラトニスムに変容して締めくくる。しかし、新たな問題提起がなされるしるしが所々に見られはするが、全体的には、男性と女性は階級として向き合い、優位に立つことを考えており、性の戦争はダンスステップに還元される。

 

 第三巻は、女性に訴えかけるための秘訣で始まり、両性の貞節の誉れになる勇敢さの比較という関連した問題を論じている。むりやり処女を奪われたときの感傷的な悲しみ。名誉の規範という立場から、一人の語り手は「千年もの間、男性が女性を陥れようと利用してきた手段は言い尽くすことができない」と言う。別の語り手は、女性が冷酷なのに不満を漏らし、「ある種の慎重さは」、彼が「愛において受けてきた」ような「愛情、満足、快楽を覆い隠す」ものであり、女性たちに向かい、もし報いを与えてくれるなら秘密は守ろうと請け合うことを責められる。宮廷における女性の規範としてとりわけ必要とされるのは、踊りや芝居に招待されたとき、宮廷人が恩顧を受ける場合のように、「ある意味自ら進んで身を犠牲にするべき」であって——さもないと、機会を逸することになる。

 

 総じて、この章はセザール・ゴンザガ卿の発言に集約される。

 

どれだけ偉大な宮廷人だろうと、女性なしには見栄えのよさ、明るさ、楽しさを持ち得ないし、優雅でも快活でも大胆でもあり得ない、女性との会話や愛の満足がないなら、勇敢な騎士道精神など発揮し得ないだろうし、宮廷人の会話は女性が加わることで優雅さ加わり、完璧に飾り立てられねば永久に不完全なままである。

 

 

 

 愛と戦争とが同一視され、「愛する女性を前に戦う軍隊を集められたら、同じようにして集められる軍隊が敵でない限り、全世界を征服することができよう」と語られる。



 最初の三巻を通じ、優位さの獲得が様々な形で試みられるが、「崇敬」の動機は、君主と宮廷的性愛に関連した礼儀作法の領域に止められている。それは、笑いや陽気ないたずらによってあまのじゃくに、間接的にあらわされもした。男性、女性が宮廷において訴えかけることのできる性質について多くのことが語られた。次に、より高次の説得の秩序が現れる。第四巻は他の三巻に較べて修辞的ではない。しかし、それがもたらそうとする優位性は前三巻の優位性を超越したものだろう。

 

 それにふさわしく、動機の質の変化は最終巻の冒頭におかれた死の知らせにあらわされている。会話は恐らく四夜連続で行われたと思われるが、四夜目の「苦い思想」を書きつけようとしている著者は、「こうした思索からほど遠からぬうち、繁栄と栄華を極めた三人の稀なる紳士が残酷な死によって奪われた」ことを思い出さずにはおれない。

 

 こうした仕掛けは、恐らくキケロから借りられたもので、『雄弁家について』の最終巻は似たような手段を使い、より荘重なものとなっている。正当性については、『宮廷人の書』がより高いように思われるのは(最終が目的と死亡のどちらをもあらわすという地口に従って)、最終巻が「完璧な宮廷人の最後」を扱っているからである。宮廷人の最終的な目的が論議される。既に死亡した偉大な宮廷人の考えが紹介され、著者は別の話題によってある最終性を補強する(生物学的な意味での最後から哲学的な意味での最後に議論は進む)。そこで、冒頭の仲間の死への言及が絶妙な意味をもっていたことが見て取れる。この後、優位を得ようとする多くの行為は、自己犠牲的な努力のうちに廃棄される。

 

 その繋ぎ目で二つのテーマが提示される。一つ目は、君主への<情報提供者>である宮廷人の権力を考慮した、<教育>の修辞学に関するものである。この文脈において、宮廷人は、個人的な立身出世のためではなく、人間関係一般の向上のために魅力を発揮するべきだとされる。「媚びへつらって厚遇を得」、君主が聞きたがるようなことしか言わない者とは対照的に、宮廷人は君主にとって不快な真理をも伝え、「悪事は諫止し、美徳に立ち戻らせる」方途を見いだすべきである(「というのも、今日の君主に数ある悪徳のなかで、最大なのは無知と自己愛で」、「邪悪な君主ほど一般を害する人間はいない」)。要約すると、「陽気な振舞い」は「宮廷生活の花」であり、その果実は「君主を善へと導き助け、悪を恐れさせる」ことにある。

 

 我々の目的には、議論の詳細を考慮する必要はないし、付随する心理学の理論についても、ごく慣習的な、理性と権威の同一視が認められると言っておくだけでいい。理性が身体の働きを支配するのであるから、理性は「君主にとって最も必要なもの」である。我々の目的にとって重要なのは、教育についての考察が宮廷作法の理論から生じていることにある。完璧な位階秩序に従えば、君主は宮廷人の模範となっていいはずであり、変わりやすい時間の本性によって、多くの君主が新たに宮廷の伝統で重要な役割を果すことになる。それゆえ、特殊な専門階級にある宮廷人は、自分たちの規範の神秘を君主に手ほどきする教育者の役割があると考えたのである。この状況は、地方の財政的産業的支配者の利益のために雇われる今日の科学者と異なるものではない。雇われ者として、彼らは立身の方策に関心をもつだろう。しかし、科学的な専門集団の一員としては、正直と追従の程度は様々だが、「支配者」の好みとは一致しない純粋に専門的な真理に関心を示す。

 

 しかし、時代の偶然以上に宮廷作法と教育との間には深い関わりがある。『文法』において、教育的に真、美、善を「愛する」ソクラテス的な性愛を考慮したときに見たように、弁証法的方法そのものに本来備わった要素である(絶対の弁証法への小道に若者を誘い込み丸め込むソクラテスの手管は、宮廷作法の一変種として尊重されるものである)。

 

 ソクラテスの教育における宮廷風の形象は神秘的に解釈される。その主要な動機は実証的ではなく弁証法的である。弁証法的に捉えられた教育は無条件に性的なものに還元することはできない。同じ理由によって、弁証法的に捉えられた教育は、無条件に単なる仕事に還元することもできない。それは、「純粋な説得」の一形式として、弁証法的に究極の修辞的動機として神秘的な満足を与えるものだろう。しかし、『パイドン』に見られるように、一種の宮廷作法であり、宮廷的な形象に引きつけられる。同じ動機の変種がカスティリオーネの本の第四巻にも見いだされるのであり、「宮廷人の最終目的は君主の教育者となること」であり、アリストテレスプラトンが「宮廷作法を実践し、その目的を達し、かたや大アレキサンダーの、かたやシシリアの王たちの教育者となった」のに倣うのだと語られる。

 

 君主の教育者としての宮廷人という適切な移行部分を経て、ベンボ枢機卿が「天上の美の影響によって生まれる」美について雄弁に語ることでこの作品は快活に終わる。枢機卿が語り終わるまでに、美のイメージから美の純粋観念へ(感覚から知性へ)導かれる。美と真理、有用性、善とが結びついた観念が得られる。「彼が称賛する美をもつことは、身体がなければ夢に過ぎない」という反論があがる。超越的な播種についての会話がなされる(美徳の種を心にまき、「美のなかに正しく美を生み、刻印づける」ことが主張されるが、反対者は、「美しい女性に美しい子供を産ませること」によってそうすべきだと主張する)。目と耳(最も肉体的ではない感覚)に口が結びつき、「魂の門を開く」ことによる洞察が勧められる(聖職者でもある雄弁家が語っているので、口腔は食物摂取の満足だけでなく、祈りの勤めとの関わりで提示されていると考えられる)。想像力は、「実際におけるよりもより公正に美」を形づくることができ、一つの美を踏み台にして「あらゆる美を一緒にする」ための「普遍的な比喩」を生みだす力があるために称揚される。「空想にも身体が伴うと同意」されるが、こうした段階は超越されねばならず、美は「心の目だけによって見られる」ものであり、魂は天使的である「自らの本質」を見るのだとされる。魂は燃え上がり、よじ登り、つなぎ止めるというイメージで、天上的な存在に参与しようと欲望に燃え立ち、「真の喜びと恵みと平安と慎みと善意の父」であるものへの祈り、「霊的な香気を感じたい」という希望、最後に身体的な死による最終的な到達について語られる——そこで枢機卿は語をとぎらし、「うっとりと我を忘れ」、「神の愛の閃光が彼を刺し貫いた」のだと他の者は思う。夜明けまで話し続けていたことがわかる。夜の果てまでの旅と、我々が予想していた普遍的な熱力学的死とは対照的に、「東は既に薔薇色に晴れ渡っており、すべての星は消え去り、夜と朝との境界を守る天上の美しい監督者である明けの明星だけが残り、そこからはさわやかな一陣の風が吹き込み、刺すような冷たさで空気を満たし、静かな丘の木々にいる愛らしい鳥たちのさえずりを促している」。

 

 説得の修辞学が、弁証法的に純粋な説得という究極にまで進む範例として、我々がこの作品をもちだした理由は明らかではないだろうか。宮廷の位階原則は「低位の」階級と「高位の」階級(あるいは家柄)とのコミュニケーションのあり方を定める。それは、身体から魂、諸感覚から理性を通じて了解へ、世俗的なものから天使的なもの更に神へ、女性から絶対的な融合に向って欲望を超越する美一般へ、という具合に普遍化される。さもなければ、相対的な格づけが普遍的議論によって確立されず、「異なった」種のコミュニケーションに過ぎなくなろう。もちろん、「宮廷作法」の具体例を分析してみれば、固定した基準はあるにしても、役割が逆転し、ある面での優位者が別の面では劣位者になったり、優位者が下役に仕えなければならない両義性が見いだされることもあり得る。

 

 「美」を宮廷と宗教においてつくりだすことで、『宮廷人の書』は宗教を宮廷的にし、「神秘的に」社会的「崇敬」と宗教的「崇敬」とを融合させる。「天空で、太陽と月と星々が(いわば)神の似姿を世界に映す鏡であるように、地上において神に近しいのは、神を愛し礼拝する良き君主であり、民衆に正義の澄み切った光を示すのである。」このように、あからさまに世俗的な位階から天上の位階に進むことは、「神の神秘」が、表面的には現世的な動機をもつ諸関係を活気づけている状況を我々に見て取れるようにする。

 

 こうした同一化は、無神論者となることなしには社会的反抗ができない人間にも存在している。逆に言えば、ある特殊な社会的位階への従属を内々に支持する神学的位階をあからさまに教え込むような宮廷と、そこに根づく宗教的崇拝があり得る。そうした動機が形式的に否定される場合も(科学技術、財政、政治行政のプラグマティックな用語法によって)、我々は少なくとも説得においてその痕跡がないか、新たな装いで再現しているのではないか調べてみた方がいい。

 

 シンボルを使用する動物である人間が<弁証法的人間>でもあるなら、そして、シンボルの使用がある種の<超越>であるなら、『宮廷人の書』に見いだされる洗練された弁証法的超越は、至る所に隠れて、断片的に存在する要素を明らかにして示している。かくして、この作品は、社会的位階と神学的位階に関する用語の修辞的転換の背後にある純粋に弁証法的な動機(究極的な言語的動機)についての我々の理解を正確なものとするだろう。ここには、世俗的な「崇敬」と超越的「崇敬」とが互いに栄養を与え合うことで生まれ、形式的思考の完成に基づいた「神秘」の源がある(その連続性を断ち切ろうとする反抗でさえ一変種であるような)。

*1:*引用はすべてサー・トーマス・ホビーの翻訳に依ったが、綴りは現代風に直した。