ブラッドリー『仮象と実在』 174

[基準とはなにか。本質的に関連する二つの特徴を持っている。]

 

 真理と実在の完全性というのは最終的には同じ性格を持っている。それは明確で自律的な個物である。第二十章で私は個物であることが何を意味するのか示そうとした。その議論の主要な点を読者が思い起こしてくれたものとして、私は個物があらわれる二つのあり方を指摘しよう。真理は内的な調和のしるし、あるいはまた、拡張とすべてを包括するしるしを示していなければならない。これら二つの性格は同じ原理の別の側面である。第一に、全体がその内部に衝突する部分をもつことになるから、矛盾するものは食い違いをもつことになる。すでに見たように、調和を見いだす方法は、そうした齟齬をより広い配列に再配分することにある。しかし、第二に、調和は制限や限定と両立不可能である。というのも、全体を包括しないものは、その本質において内的に一致しない部分がなければならないからである。反省してみれば、その理由は明白である。ある全体に存在するものは外的な関係をもっている。それ自身の性質の内部に包括し得ないものはなんであっても、全体によって関連づけられ、外的な関係をもっていなければならない。そうした付帯的な関係は、一方においてそれ自身の外部にあるが、他方においては、それはありえない。というのも、関係は双方が影響し、項とならなければならないからである。それゆえ、有限なものの内的な本質は、それを限定する関係であり、そうではない。それゆえ、その本性は救いようもなく相関的であり、つまりそれ自らを越え、再びその核に異質なつながりを持ち込むのである。かくして、外側から限定されることは、原則的に、内部を分裂させることである。そして、要素が小さくなればなるほど、本質の散乱は広範囲にわたるものとなり――本質の消散が深く完全なものとなり、内的分裂という呼称を支えることになる(1)。しかし、反対に、要素の拡張は、内的な実体に外的な関係を持ち込むものであるから、調和を増加させるだろう。成長によって、要素はより一層それ自らに本性を含む首尾一貫した個的なものとなる。そしてその形は、より一層食い違いを包括する全体となり、それらを体系的なものに還元する。かくして、実際的には(後に見ることになるが)ある程度別なものなのだが、拡張と調和という二つの側面は、原則として一つのものである。いまのところ、それらを別個に使うことで満足しなければならない。

 

*1

 

 それゆえ、多かれ少なかれ真であり、多かれ少なかれ実在であるものは、その間にあるより小さいものであれより大きいものであれによって、全体を包括するもの、あるいは自律的なものから隔てられている。二つの現象が与えられたとき、より広範囲の、より調和に満ちたものがより実在である。それは単一の、すべてを包括する個物により近しい。別の言葉で言えば、その不完全さを治すにはより小さな変更をしなければならないことになる。絶対に移入されたときにより少ない再配列と付加しか必要としない真理と事実は、より実在で真に近い。これが我々が実在と真理の程度というときに意味していることである。実在のより多くの性格を保持していることと、内部により大きな実在を含んでいることとは同じことの二様の表現である。

*1:(1)物質的粒子の散乱について語ることはパラドックスであるように思える。し かし、それではないものを持ち込むことなしに、それがなんであるかを述べるよう 努めてみよう。もちろん、その散乱は感じられることはない。しかし、問題は、自 己の異質化がいかなる感情あるいはいかなる自己にとってもあまりに極端なもので あるために存在できないことにある。