ケネス・バーク『動機の修辞学』 53

.. 弁証法的叙情詩」(キルケゴールの『恐れとおののき』)

 

 一昔前のデパートには、支払所と個々の売り場とのあいだを走る小さな運搬台があった。(いまでも時折見かけるが、ほとんど空圧式の送菅に取って代わられている。)それらは急発進し、それぞれの角で素早く曲がり(キルケゴールの跳躍のように)——天井を越えてジグザグに進み、どこかこちらからは見られない部屋に突然消えると、そこで受け取られ、調べられ、適当な手続きを経たあと、もとの場所に送り返される。直進しては突然に曲がるその様子は魅力的なものだった——信心深い子供は、それを見て、天に知らせをもたらし、すぐさま答えを得て戻ってくる使者のようにも感じたのだった。カプセルが送風菅で送られるのを見たり、それが再び戻って落ちるのを聞くといまでも同じような考えがよぎることがある——もっとも、地獄の会計課とやりとりのように思われるのだが。

 

 とにかく、有限が無限の流出に変容するキルケゴール的な弁証法を考えるとき、中心と辺境との交通を担う小さな使者のことが思い起こされる。弁証法はあるものを取り上げ、なにかを抽出し、別のものにして送り返すことだからである。しかしながら、変化は単に元々の総計からなにかを引いたり、抽象するものではない。ある注目に値する要素がつけ加えられもするのである。この種の変化が再生であり、変容である。

 

 それでは、キルケゴールの「弁証法的叙情詩」、『おそれとおののき』の「運動」で送り出され、戻ってくるのはなんであろうか。まず始めに、単純な行動主義的観点からすると、キルケゴールがある少女の気持ちをもてあそんだことを我々は知っている。結婚をあきらめたと彼が告げたとき、彼女は懇願した。そして(英訳に付したウォルター・ローリーの序文から引用すると)、「レギーネを自分に対する愛着から自由にし、『引き離す』ために、S.Kは冷酷になり、自分を彼女の愛情をもてあそんだ悪党だと信じさせるしかないと感じた」。傍で見ている者も同じような印象を受ける。キルケゴールは自ら疑惑に苦しめられ、残りの非常に多産な生涯を、プロテスタントのうちでも最も独創的な弁証法によって、自分の無実を主張することに費やしたのだった。

 

 『おそれとおののき』を読むと、彼が送り出し変化させるべきものとは女たらしで、「悪党」としての自画像である。それは抽象化され、「無限の断念を行う騎士」に変化して戻ってくる。あるいはそれは、意味が加工される<中間地点>に過ぎないのだろうか。いずれにしろ、さらなるやりとりの結果、女たらしは完全に作り替えられ、その場所には、永遠の反復のうちで女性を崇拝する信仰の騎士がいる。それは無限の流出であるが、あらゆる事物に本質を注ぎこみ、単一の光のもと照らし、世界の偶然的なばらばらの事実を、皮肉にも不条理と呼ばれている超越的な単一の原理のもと従えようとする神の化身、聖霊としてもたらされる。この変容は、「通約できないもの」を越える「跳躍」とも言える。

 

 その背後には、ネオ・プラトン主義者の標準的パターンがある。つまり、我々は日常的な偶然性の世界から始めることができる(そこには少々疑わしくはあるが、女たらしも含まれる)。そこから始めて、無限の一者に達するまで登りつめていく。かく純粋化されたあとは、ビジネスとゴシップの世界へ戻るべく降り始めるのである。そのようにして帰ってきたものを見ると、純化された形式には、動機づけの全く異なった用語法が必要とされることがわかる。初期の条件と較べると、極めて重要な「跳躍」がある。「通約不可能な」なにかが介在している。この新たな段階では、根源的かつ精神的である新たな弁証法的操作が呼び起こされ、自らに適用されるだけでなく、自然、人間、神を含めたあらゆる事物にまで拡張されることになる。少なくとも、この用語法は、キルケゴールレギーネの関係を正当化するには十分超越的なものである。しかし、こうした目的に適う超越を作り上げる過程で、キルケゴールはあらゆる有限存在に適用できるような原理に行き当たった。ごく自然な弁証法の道筋によって得られる「無限」の原理である。「有限」内での一般化しか得られないときに、唯一正当な弁証法的対、或いは対抗する語となるのは「無限」である。

 

 それだけで包括的な弁証法には十分である。抽象的な過程を具体化する寓話やイメージもある。第一に、鍵となるアナロジーとして、キルケゴールレギーネをもてあそんだことと、アブラハムがイサクを殺そうとしたことの対応がある。

 

 しかし、聖書で語られるこの物語は、この目的には全く役に立たない。キルケゴールが「悪党のように」振る舞ったという非常に重要な点で対応するものがないからである。聖書は、アブラハムがイサクのためを思ってイサクに嘘をついたとは言っていない。しかしながら、高度に心理学主義的な世紀の人間であるキルケゴールは、アブラハムのための「心理学」を即興的に作り上げる。そして、<聖書の物語ではなく、この即興的な心理学が>彼の振る舞いを正当化する上での最も重要な問題を解決する助けとなるのである。それに平行して、レギーネの愛情をもてあそんだ悪党としてのキルケゴール像に対応するものが聖書の聖なる物語に設定される。

 

 恐らく、ここでは、聖書の物語の「敷衍」と「心理学化」とを区別するべきだろう。物語が例証している本質を読者により差し迫って感じさせようとするとき、物語を敷衍することもあり得よう。鈍い想像力を揺り動かすために、だれも誤解できないほどの長さにわたってアブラハムの息子への愛を詳細に解くこともあり得る。既にそこにある本質が修辞的に敷衍されているわけであって、新たな本質がつけ加えられているのではない。しかしながら、叙述の「心理学化」で、キルケゴールは新たな本質をつけ加える——まさしくそれが、「悪党」として明らかな振る舞いを超越するための動機として彼が必要としたものである。

 

 もちろん、我々はジイド風の巧妙な奇想のことを言っているのであり、それは聖書の物語には見いだされないものである。

 

 アブラハムはモリアの山を登った、イサクには父のこころがわからなかった。そのとき一瞬、アブラハムはイサクから面をそむけた。しかしイサクがふたたびアブラハムを見たときには、父の顔はすっかり変っていた。そのまなざしはけわしく、その面差はものすごかった。彼はイサクの胸をとらえ、彼を地上に投げつけていった。「ばか者め、わしがおまえの父であるとでも思っているのか?わしは偶像崇拝者なのだ。これが神の命令だとでも思っているのか?そうじゃない、わしの慰みなのだ。」するとイサクはふるえながら、不安のうちにさけんだ。「天にいます神さま、わたしをあわれんでください。アブラハムの神さま、わたしをあわれんでください。地上にはわたくしは父をもちません、ですから、あなたがわたくしの父になってください!」しかし、アブラハムは静かにひとりでつぶやいた。「天にいます主よ!わたくしはあなたに感謝いたします。イサクがあなたへの信仰を失うようなことになるよりは、わたくしを人でなしだと思ってくれるほうがましでございます。」(桝田啓三郎訳)

 

 

 聖書の物語へのこの付加が聖書解釈についてなにかを我々に教えてくれるとするなら、教訓は、結局、宗教は嘘を認めるということであるように思える。しかし、それはいいとしよう。キルケゴールが聖書に純粋に個人的な付加を行ったと認めるだけで十分である。彼は既にある本質を敷衍しただけではない、新たな本質をつけ加えたのである。この本質がつけ加えられなければ、聖書の物語は彼の求めるものには足りなかっただろう。

 

 キルケゴールは最終的にこう言う、「ここに私の神学的弁証法のもととなる聖書の挿話がある」と。しかし、実際に行ったことを見れば、こう言うべきだった、「私の神学的弁証法をできるだけ説得力のある方法で提示したいと思う。想像力をかき立てるために、個人的な挿話、私自身の創案した話から始めよう。権威づけのために、聖書によるものだとしておく。夕食後の会話で、語り手が自分が言いたいことの例となり、聞き手にも好意的に結論を受け入れてもらえるような機知に富んだ物語で始めるように、私も都合のいいように物語を変えることになるでしょう」と。

 

 しかしながら、疑問が多い面もあるが、また別の面では極端な誠実さがあらわれてもいる。キルケゴールは聖書の心理学化を一種の寓話で行っているからである。それは、物語を補強し、同じことを語ろうとしている。しかし、それは元々の物語以上に(アブラハムがイサクを生け贄にすること)彼自身に潜む動機に深く潜り込むことにならないだろうか。

 

 子供を乳離れさせようと思うとき、母親はその乳房を黒く染める。子供に飲ませてはならないのに乳房に魅力を残しておくのは、まことに残酷なことであろう。乳房を黒く染めれば、子供は乳房が変わったのだと思う、しかも母は同じ母であり、母のまなざしはいつものように愛情にみちてやさしい。子供を乳離れさせるためにこれ以上の恐ろしい手段を必要としないものは幸いなるかな!(同上)

 

 

 

 乳離れのテーマは幾度か繰り返されるが、胸を黒く塗ること(女たらしの「悪党的な」要素に対応するだろう)は抜け落ちる。母性的な愛と別離の悲しみというモチーフが言及されるだけである。別の言葉で言えば、まさしくそのために物語が導入されたと思われる当の要素が抜け落ちてしまうのである。だが、それなしでは、彼が申し開きをしている行為は説明されないままに止まる。

 

 胸を黒く塗ることが除外された部分は次のような具合である。「子供が大きくなって乳離れさせようとおもうとき、母は処女のようにその乳房をかくす。すると子供はもはや母をもたなくなる。・・・子を乳離れさせようと思うとき、母と子がおたがいにだんだんと離ればなれになっていくことを思い、母の心も悲しまずにはいない。はじめは母の心臓の下でいこい、しかしやがてのちには母の胸に抱かれて安らっていた子が、もはやそのようには母の近くにいなくなることを思って、母の心もいたむのである。・・・子を乳離れさせようと思うとき、子が飢え死にをしないように、母はいっそう滋養に富んだ食べ物を用意する。いっそう滋養にとんだ食べ物を用意する者は幸いなるかな!」巧妙な「跳躍」がここにもある。女たらしの疑問の残る説明で始まり、超越的な滋養物への言及で終わっているのだが、弁解がましい部分はなく、代わりに教化され教化することへの約束がある。

 

 この控えめな副次的な例によって我々は、キルケゴールレギーネとの関係についての動機に、より近づくことが可能になるのではないだろうか。アブラハムとイサクの物語(加えて、極めて重要な心理学的即興)は問題を形式的にあらわした。乳離れする子供の姿は、非公式な、内緒ごととして論じられている。内省の天才によって書かれた本は本質的に自伝であるから、この例はでたらめに選ばれたのではなく、モチーフをあらわす本質的で明晰な表現だと見なしうる。少なくとも、編者が『日記』から引用するもう一つの例があって、キルケゴールは「この謎を解き明かす者は私の生涯をも解き明かす」と言っている。そこで彼は二つのテーマを著作でよりも完全な形で絡み合わせ、こう結論する。

 

 子供が乳離れしなければならないとき、母親は乳房を黒く塗るが、その眼は愛情深く子供に注がれている。子供は、乳房は変わってしまったが、母親はもとのままだと信じる。なぜ母親は乳房を黒く塗るのだろうか。なぜなら、と彼女は言う、子供が乳離れしなければならないときに、乳房がおいしそうに見えるのは恥ずべきことだからである、と。——乳房は母親の一部に過ぎないのだから、この葛藤は容易に解決される。<自分自身>を黒く塗り、悪魔がどんな姿か見るために地獄に行く必要のない者、そうしたより恐ろしい葛藤を経験しない者は幸せであり、そうした葛藤を経た者だけがしかるべく身を染め、それによって神との関係で他人を救うことが可能になる。アブラハムの葛藤もそうしたものだったろう。

 

 

 自分自身にされたことを他人にもするという考えには何らおかしなところはない。キルケゴールが離乳期に多大な不安を経験<した>なら、立場を逆転し、離乳する立場に自らをなぞらえて考えるのになんの難点もなかろう。

 

 ただ想定しておくべきなのは、キルケゴールは書くことすべてが本質に関わりそれを表現している作家なので、彼自身言うように、この挿話をその思想の中心と見る必要があるということである。そこにあるものを見据え、他のイメージではなく離乳のイメージを選択したということ、離乳のイメージは他のイメージよりも彼の基本的なモチーフにより近いことを見る必要がある。また、離乳の経験そのものが目立った重要性をもっていたためにそうなったことも想定される。

 

 しかしながら、我々は離乳の経験からキルケゴールの考えのパターンを引き出そうとしているわけではない。心理学者なら、ここで多くの関連を指摘できるだろう。口は食物摂取と言葉を発することどちらにも使われるので、栄養摂取の障害は、キルケゴール的な跳躍によっておしゃべり熱に変わるとも考えられる。そうした逆転も想像に難くない。しかし、同じような正当性をもって、因果関係を逆に辿り、離乳時に大多数の者とは異なった段階にキルケゴールがいたとも考えられる。この子供は既に離乳の瞬間が来ることを予期していたかもしれない。生まれつきおしゃべりであるなら、離乳期において、多くの子供たちよりも「口唇意識」が高いかもしれない。そして、青年期になって、母性的女性とエロティックな女性との区別にこの乳離れの問題を結びつけることができたのかもしれない。(少なくとも、母親の胸を「処女のような」と言うことには、レギーネを「王女」と見る「騎士的な」見方と同じモチーフがある。愛情はあるが超然とした様子がどちらにも含まれている。)

 

 だが、我々に必要なのは、言語的モチーフがレギーネに対する振る舞いをどう説明するかだけにある。というのも、この「信仰の騎士」が無限において求愛するなら、永遠に、際限のない反復において求愛することになろう。そこにあるのは、ソクラテス的な性愛の、弁証法家のモチーフであろう(『文法』中、プラトンの『パイドロス』を扱った箇所で考えたような)。しかし、永久に求愛し続けるとしたら、求愛の相手は喜んでそれに応じるだけではなく、しつこいくらいに応じることとなり、良質の弁証家たるもの、「内的検証」によって、必要な距離を保つ感情的実際的な状況を作り上げることで自身の内部に抵抗をもうけねばならない。まず第一に、ある種のおびえから、必要とあらば「悪党」のように振る舞うこともあろう。誠実な個人主義者として、動機の純粋性を保つ必要があるからである。もし女性が彼を拒まないなら、煮え切らない態度さえ喜んで受け入れるなら、彼は冷淡にならねばならない。あくまでも女性が愛情をもって迫って、どうにもならない場合、彼は彼女を辱める。彼は「悪党」になる。

 

 しかしながら、彼が彼女から離れ、彼女が他人と結婚すると、両者共に非常に正しい場所を得、彼は再び自分に必要な目的の状況を手に入れる。永遠の名において、つまり、際限のない反復において求愛できるのである。ジレンマは解決された。堅固な道徳的、法的根拠によって二人の結びつきは不可能である。それゆえ、再び安全に彼は彼女の騎士になることができる。騎士的な振る舞いで自分の行った辱めの埋め合わせをするために、心理学的に聖書を修正できる。すべてがあるべき姿になった——彼女の結婚が「客観的相関物」となって、彼の主観的な「内的検証」と合致し(シェリング的な「主観と客観の同一化」が行われた偉大なる世紀だった)、彼は無限、通約不可能、不条理のもと、不可能を成し遂げる信仰によって彼女に求愛することができる。キルケゴールは信仰の正当なる根拠を不可能性にもっていた——というのも、結婚の実現不可能こそが「王女」に求愛する「信仰の騎士」たることを許すからである。「沈黙のヨハンネス」が遠くから「王女」を愛する騎士的な「恋慕者」として次のように言えるのも不思議はない、即ち「至福に満ちた愛の歓喜が全神経を巡るにもかかわらず、魂は毒の酒杯を飲み干し、それが血液のすべてに染み渡っていくのを感じる男のように厳粛である——この瞬間こそ生と死が一つになっているからである」と。

 

 いま我々が論じたいのはキルケゴールが聖書を心理学的に敷衍することで招いた、間違った力点の帰結である。弁証法に関する限り、そこに真のキルケゴール的跳躍があると思われる。というのも、そこにつけ加えた言葉以上のものを引き出すことができないのは弁証法的な事実だからである。それをもとにして、神学者たちは聖書の「啓示」を信仰の根拠と主張する。技術的に言うと、聖書を「啓示」として議論の根拠にすることで、神学の弁証家たちは「普遍的な」権威に立脚することができるが、私的、個人的関わりはそうした意味を明らかにすることとは相容れない。その権威が実在するかどうかをここで決める必要はない。既に言ったように、キルケゴールは聖書に含まれているものを単に引き出そうとしているわけではないからである。むしろ、聖書に<戦略的につけ加える>ことから始めている。テキストの単なる敷衍からテキストの心理学化に転じたとき、跳躍を動機づけるような物語が必要であるから、<彼自身が物語に跳躍を加えたのである>。それによって、巧妙なジイド的転倒に非常によく似た生成原理を手にしたのである(後にニーチェが、完全に世俗的な逆説で歯切れよく述べた価値の転倒を神学的な用語でいち早く行ったものと言える)。

 

 あるいは、次のようにも言える。神への信仰においては、拒否したいことを不条理にも受け入れるのが真実なら、なぜアブラハムは、実存主義的不条理によって神は宗教と道徳との明らかな裂け目を処理しようとしたのだと確信をもつことがなかったのだろうか。あるいは、実際にそうなったように、父親は試練にあうと同時に息子を守ることも可能なのだと、なぜ神の全能への信仰を持つことができなかったのだろうか。キルケゴールが修正した挿話がレギーネとの関係におけるキルケゴールの振る舞いを正当化するなら、なぜイサクに対するアブラハムの行為に同じような確信が認められないのだろうか。あるいは、そこには、古い律法から新しい律法へ、更には不条理な律法へのもう一つの跳躍があるのだろうか(十九世紀の個人主義的な心理学主義が繁栄するまで明らかにならなかった)。

 

 両方の路をとることはできない。不条理への信仰によって、キルケゴールが有限性において(無限と混じり合ってはいるが)レギーネを再び得るとを知っているのが正しいなら、同じように、生け贄にしようと真剣に息子を殺す準備をしていたまさにそのときに、アブラハムは息子を再び得るだろうと知っていたことになる。この場合、アブラハムの確信は道徳と宗教との明らかな齟齬を取り除くことになろう。一方、イサクの復帰がアブラハムにとって完全な驚きであるなら、イサクを進んで生け贄に捧げようとするアブラハムの行為は、キルケゴールが「信仰により、不条理の力で私は彼女を得るだろう」という高揚した逆説に従ってレギーネを進んでもてあそんだ場合ほど力強い信仰を示してはいないことになる。そして、これは実存主義的な不条理の埒外にある類の不条理に思える。

 

 こうした難点から脱出する唯一の道は、彼の弁証法をメタレトリックとして弁証法的に説明することにあろう(際限のない求愛によって、彼は永久に彼女を得ると同時に永久に手に入れず、放棄と前進が一つの姿勢に混在している)。技術的に言えば、これは有限のなかに無限を導き入れるものとして歓迎される——相反するものが調停され、「人間の理性よりも高次な」不条理がもたらされるからである。

 

 レギーネをもてあそんだこととその後生涯にわたって彼女に求愛し続けたことが「無限」の領域にある諸動機を含んでいると言うとき、キルケゴールが本質的に正しいことは我々も信じる。「純粋な誘惑」は絶対的であり、いかなる誘惑的な行為にも論理的に先行するからである。それは言語の本質である。包括的な称号の称号が「神−語」であるように、純粋な誘惑は求愛を祈りに、目的のない祈り、それ自身のための祈り、崇拝の、絶対的賛美としての祈りに変えるだろう。我々が試みたように、そうした諸動機は完全に世俗的な弁証法によって考えることもできる。しかし、たとえそうだとしても、少なくともプラトン主義的な弁証法に関して言えば、抽象的で普遍化されているので、技法的に「神的な」側面をもっているであろう。