ブラッドリー『仮象と実在』 176

[あらゆる思考は、単なる想像であっても、何らかの真実をもっている。]

 

 しかし、なんら真の意味のない判断が存在すること、実在に何も寄与しようとさえしないような単なる思考が存在する、と反論されるかもしれない。そしてそれらにおいては、もはやほんの少しの真実も残され得ないと主張されるだろう。それらは実在の形容であるかもしれないが、実在に関する判断ではない。この反論についての議論は、おそらくこの著述の主要な範囲を超えることになるだろうが、簡単にそれがある間違いに基づいていることを指摘しよう。第一に、あらゆる判断は、肯定的なものであれ否定的なものであれ、そしてどれほど馬鹿げた性格のものであれ、実在に関する主張をなしている(1)。そして、すでに見たように、その究極的な真理はもともとの意味をまったく変えてしまうのであるから、主張される内容が完全な誤りだということはできない。第二に、あらゆる種類の思考は、観念的に実在を性質づけているという意味において判断を含んでいる。問うこと、疑うこと、示唆すること、単に観念をもてあそぶことはあからさまに判断することではない。多くのことが確実で明白である。しかし、それらの状態が必然的に含むものをさらに探っていくと、我々の結論は別のようになるに違いない。無意識であろうが不明確にであろうが、思考を実在に参照するために判断を用いるならば、例外なく考えることは、ある意味で、判断することである。最初期の段階における思考は直接的な感覚的存在を即座に変化させる。一面において、性質づけとは条件的なものであり、他面において、実在は部分的に非感覚的なものとなるが、思考の主要な性格は保持されている。実在への参照は、多様な程度において、非限定的で漠然としている。主語に適用された観念的内容は多かれ少なかれ変容している。その苦闘や条件的な性格は我々の注意を逃れるかもしれないし、多かれ少なかれ意識的に理解されるかもしれない。しかし、実在のいかなる側面あるいは領域とのどんな関係もなしに、いわば虚空において思考をつかむことは、結局のところ、不可能であることがわかる(2)。

 

 

*1

 

 

 この発言が大いに逆説的に思えることは私も気づいている。単なる想像は実在には関連していないと言われる。反対に、意識でさえばらばらであるかもしれない。しかし、さらに反省すると、我々の一般的考察が正しいことを見いだすことになる。想像的なものは常に実在についての形容だと見なされている。しかし、そうした参照関係において、(a)我々は多かれ少なかれ意識が適用されうる領域とそうでない領域を区別している。そして(b)我々の観念が真理に達するまでに必要とされる付加と再配列の量は程度において異なっていることに気づいている。これらは同じ原理の二つの側面であり、それぞれについて簡単に説明しよう。

 (a)第一の点に関しては、我々の内部にある場合と同じように、世界には統一が欠けていることを思い起こさねばならない。我々が確かに感じる宇宙はひとつだが、それが分裂してあらわれること、異なった範囲と領域にに分けることを妨げるようなものはない。そして、我々の生の多様な部分のあいだには、目に見えるような関連はないかもしれない。芸術において、道徳や宗教、貿易や政治、あるいは理論的な探究などにおいて、個々のものはそれ自体の世界をもつことができるというのは決まり文句である。あるいは、合理的な統一性のないいくつかの世界をもち、それらはひとつの人格において共存しているだけだとも言える。この分離と無関連は(観察し損なうかもしれないが)、ある程度普通のことである。その多様な部分が合理的に結びついており、常に体系立ってあらわれるような世界をもつことは不可能であろう。しかし、もしそうなら、諸観念を受け入れるかあるいは拒否するとき、自分が肯定あるいは否定するものの正確な意味を常に知ることのできるような者はありえないことになる。彼は実在によって、通常は区別し定義することに失敗する真なるもののある領域を意味することもある。そして区別の試みは全体的な混乱に導くだけだろう。真の世界とは、おそらく意識的に、我々が構築する空間的な体系と同一視することができる。それが「実際上の事実」であり、その他のすべては単なる思考、あるいは想像や感じとしてすべて等しく非実在に分離され得る。しかしもしそうなら、我々の意志に反して、そうしたうち捨てられた領域は、にもかかわらず、感じ、想像、思考の諸世界として現前することになる。どれだけ我々がそれを望まないにしても、それらは、結果的に、真の世界の事実上の構成要素を形づくる。そして、それらいくつかの領域に属する観念は、どれだけ曖昧なものであろうと、実在の部所とそれぞれ同一化を行わなければ、保持され得ない。我々は想像物を、いかにしてか想像力によるある世界あるいは副次的な世界に存在するものとして扱う。我々の否認にもかかわらず、そうした諸世界は、不可避的に、我々が単一の実在と感じる全体というあらわれをとっている(1)。

 

*2

 

 命令や願望の極端な例を考えたとしても、結論は揺るがない。ある欲望は判断ではないが、それでもある意味それを含んでいる。実際には、命令されたもの、欲望されたものは、その本質によって実際上の現実から切り離されてあらわれるかもしれない。しかし、この第一印象は間違っているだろう。あらゆる否定は相関的であることを思い起こさねばならない。現実によって排された観念は、にもかかわらず、主語が変更されたときには述語たり得るのである。また、(同じことではあるが)それ自体が変更されたときにも属性たり得る。この最後の改良を無視すると、我々の考察が欲望の場合にもいかにあてはまるか指摘することができる。願望された内容は確かに、ある意味においては現実には不在である。その観念は存在しないと言えなければならない。しかし、他方において、真の存在はここでは限定された意味に受け取られている。それゆえ、観念を拒否する事実の領域の外側では、同時に現実と肯定的に関わりうる。実際、この関わりが欲望の矛盾を耐えがたいものにしていると言える。私が欲望しているものは意識的には存在するとは思えないが、ある見知らぬ領域にはどうかして、漠然と存在することが感じられるのである。それがそこに存在するので、それがあらわれていないことは苦痛に満ちた緊張を呼び起こすことになる。この問題を追っていくと、あらゆる場合において結局のところ、思考の対象は現実として受け入れ、判断されるべきだということが見いだされる。

 (b)このことは第二の点に我々を導く。我々は、あらゆる観念は、どれだけ想像のものであろうと、ある意味において、現実を指し示していることをみてきた。しかしまた、真の主体の多様な意味に関しては、またそれがあらわれる多様な場所や領域については、我々は多かれ少なかれ無意識であることをみた。その量は様々だが、同じ意識の欠如は我々の述語の当てはめ方についても見て取れる(1)。あらゆる観念は現実の真の形容となり得る。しかし、他方において、(すでに見たように)あらゆる観念は変更されねばならない。多かれ少なかれ、それらはすべて付加と再配列が必要とされる。しかしその必要性と量については、我々は完全に無自覚であることができる。我々は通常観念を、それがどれだけ条件つきであるか、またいかに現実の完全な述語であることはできないかについて、明確な考えをもつことなく使用している。我々の言明に含まれる仮定について我々は通常盲目である。あるいはその正確な拡がりは、結局のところ、はっきりと理解されることはない。これは推し進めていくと興味深い問題であるが、すでに我々の結論にとって十分なことは言い終えているだろう。いかにそうは見えなかろうと、結局は、考えることは常に判断することである。そして我々が多かれ少なかれ真だと見いだす判断はすべて、異なった程度において基準から離れ、実現している。ここまでで、おそらくある意味逸脱であったことから戻ることができるだろう。

 

*3

 

*1:

(1)読者には私の『論理学原理』か、あるいはむしろ多くの点で私の著作から大 きく前進しているボザンケット氏の『論理学』を参照して貰いたい。私は僅かにで はあるが、判断についての考えを修正した。『マインド』60号参照。

(2)ボザンケット氏の『論理学』の序、また、同じ著者による『知識と実在』1 48-155ページを参照。

 

*2:(1)読者は第二十二章の自然の統一についての議論と比較されたい。一般的な心 理学によって確立された自己における統一の欠如については、最近の催眠術実験に よって顕著なものにされている。

*3:

(1)前に述べたように、これら二つの点は、最終的には、同じことである。現実 があらわれる多様な世界は単独で存在することできず、一方が他方の条件でなけれ ばならないので、ひとつの世界においてカテゴリー的に述語であったものは、全体 に適用されると条件でしかなくなるだろう。別の側面からいうと、全体の条件つき 述語であったものは、限定されたそれゆえ条件的なある主語の形容とされるときに は、カテゴリー的なものとなろう。こうしたものの見方は、結局のところ、ひとつ でしかない。最終的に、条件と条件づけられるものに相違はない。この点について は第二十七章を参照のこと。