ブラッドリー『仮象と実在』 177

[現象との関わりにおいて、基準をさらに特殊化する。]

 

 上述したように、我々の単一の基準は様々な側面をもっており、簡単にその詳細を例証してみよう。(a)第一に、時間における現象を取り、その実在の量を評価しようとするなら、一方においてその調和を考えねばならない。つまり、その内容が真なるものの形容に位置を占める前に、どれだけ再配列が必要とされるかを探らねばならない。他方において、我々は時間や空間、あるいはその双方の拡がりを、現象が占めるものとしてみなければならない(1)。等しい他のものが空間においてより拡がり、時間においてより持続するなら、より真であることになる。しかし、(b)出来事を別にすると、諸法則について考慮する必要がある。それらは多かれ少なかれ、抽象的あるいは具体的で、その適用の基準はさらに分岐することになろう。たとえば、数学の抽象的真理が一方にあり、より具体的な生や心に関係するものが他方にあるとき、それぞれ様々な主張をすることになろう。前者は事実からより離れ、より空虚で自ら存在することはできず、それゆえより真ではない。しかし、他方において、後者は、より狭く、明らかに現実への拡がりにおいて劣っているためにより間違っている。あるいは他の側面から見るなら、より抽象的なものは、より広い領域を排除するために、より自己矛盾が多い。また、一般化がより感覚に近く、不適切なことがより満ちているとき、この観点から見るなら、より内的に不調和なものとなろう。簡単に言うと、体系や真の個人が時間的な存在のうちに見いだされるなら、あるいは出来事を超えた領域にあるなら、基準はいまだに同一である。それは包括と調和の二重の形式のもとに常に適用される。こうした側面において不十分なことは完璧には足りない。最終的には、いかなる不十分さもどちらの側面でも同じく失敗を含んでいる。

 

*1

*1:(1)現象の強度は二つのこと(i.)拡がりと(ii.)その効力と関係づけられる。 しかし、限界を超えた事物の影響力は、後に言及するようなある側面に下落するこ とになろう(376ページ)。