ケネス・バーク『動機の修辞学』 56

.. 純粋な説得

 

 明らかに、修辞学の問題で行ける所まで行くと、「純粋な説得」の問題に突き当たる。しかし、それは形而上学の、よくとも「メタ修辞学」の境界に足を踏み入れることなので、できる限り個別例を心にとどめておくべきである。

 

 それでは、『不思議の国のアリス』を「メタ修辞的に」見返し、「純粋な説得」と判断すると、どう見えるか考えてみよう。精神分析学は、そこに「不純な」性質を、年長の男性がまだ婚期に達しない少女に求愛するいかがわしい色事を認める。状況も精神分析に明白な材料を与えるので、エンプソンのアリスについての素晴らしい章は、彼の最上の洞察から常に逸れていくことになる。だが、ここにあるのは、主要な目的が性的ではなく、階級間のコミュニケーションである求愛の完璧な例であり、捉えにくい訴えかけとあらわな「よそよそしさ」が強く混じり合っている。

 

 ドジソンは抽象的な女性の原理にはさほど関心を抱いていない(処女崇拝、売春、不特定な相手との性交、誘惑など多様なあらわれ方をする)。しかし、彼は決して社会的作法を忘れはしない。アリスののどかな生意気さとは対照的な登場人物たちのコミカルな無礼さと残酷さを物語る幻想が、この原理をグロテスクに裏返している。

 

 悩まし楽しませるパズルで子供の注意を引くことにより、この本はよそよそしさを得ている。結局こう言っているのである。「私は君の言いなりだ。退屈させはしない。しかし、私にも自分のスタンスがあることは忘れないでおこう。君は私にとって魔術であり、音楽であり、神秘だ。でも、私も君を魔術的に、音楽的に、神秘的に惑わすことができるんだ」と。精神分析は倒錯的な性愛をあらわにする。彼がそこにいることは議論の余地がない。しかし、この存在は修辞的実践、芸術的説得を隠してはいないし、性的ではない社会的交わりを実現している。

 

 多分、「社会的」というのは正確ではない。若者と老人は、コミュニケーションする対照的な「種類」としては、性的、或いは社会的のように正確に分類できないからである。それは、弱さと強さとの位階的関係のように生物学的である。しかしながら、老年−若年、弱い−強いという対は、どちらも複雑かつ逆転可能で、権威の家庭的政治的シンボルという点から見ると、特に社会的要素と同一化しやすいのである。

 

 『不思議の国のアリス』を『城』ばかりでなく、D・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』と同じ分野に入れても法外とは言えないだろう。いずれも、それぞれの仕方で社会的崇敬を、グロテスクに、倒錯的にあらわしている。いずれも、それぞれの仕方で『宮廷人の書』の分析に答えている。これら三作は、単に宮廷作法の原理を暗黙のうちに体現している作品ではなく、宮廷作法の原理があからさまな主題となっている。

 

 我々が躊躇うのは、ロレンスの作品自体が強い精神分析的色彩をもち、しかも「性的」であることで、我々の事例を損なうかもしれないことにある。だが、ロレンスの登場人物の関係を特徴づける強い社会的位階の要素を認め、彼の捉える「無意識」そのものが炭鉱労働者の急激な増加を意味していると分析する読者もいるだろう(こうした反感を精神分析的用語に翻訳することは、政治的な意味合いを超越し、否定することになるにしても)。性に関する「卑猥な」語は、精神分析的ロマンスの場にあらわれた位階的崇敬の裏面に過ぎない。そこで、彼の本にある性現象を、社会的起源をもつか身体的起源をもつのか単純に二者選択するなら、社会的なものをとった方がより真実に近いことになろう(彼の興奮性の病いでさえも、そこに弱さと強さの、鋭敏さと鈍感さの対立が含まれている限り社会的で、まず「社会的ねたましさ」の範疇に入る)。

 

 「純粋な説得」を語る際、程度という要因は我々を混乱させることとなりうる。例えば、直接的な性的刺激や宣伝広告と対比すれば、社会的或いは文学的求愛を純粋な説得と考えることができる。同様に、討論と対比すれば教育も純粋な説得と呼びうる。また、政治的イデオロギーを通じて教義を注ぎこむことに比較すれば、科学的、宗教的種まきは「純粋」に思われる。しかし、こうした表現様式は、我々が語っている絶対的な、それゆえ存在することのない限界と比較すれば、「不純」であり、互いに有利さを争っているだけである。だが、我々が語っているのが、どこにも存在しない絶対的で純粋な説得であるにしても、それはどんな修辞にも、どれだけ強く有利さを求める修辞にあっても、動機づけの要素としてあらわれうる。この点は、論を進めるに従ってより明らかとなろう。この段階で確認しておく必要があるのは、どんな活動にもある純粋な説得は、取得という点から判断すると、「距離」を生む、或いは「自己干渉」の要素になることである。それは、本質的には自己犠牲的ではないが、何ものかの取得に反するという点で自己犠牲的に<見られる>のである。

 

 純粋な説得は言説を含むが、言語外の優位を得るためではなく、言説に本来備わる満足のためである。命令する感覚が好きだから命令する。命令に応じられたら困惑することだろう。攻撃するのは悪罵そのものに満足を覚えるからである。「地獄に堕ちろ」と言うごとに実際に魂が地獄に送られるのを知ったら恐ろしくなるだろう。直観的に「その通り」と言われることがあるが、それはまさにその通りだからこそなのである。

 

 これは形式的な問題なので、まったく異なった動機づけで表現される可能性があり、ある本が発展してそれ自身の要求をもつにいたり、既に書かれた部分によって条件づけられ、著者も予期しなかった方へ進んで、本来の意図に干渉するよう要求することもある。我々はここで、「究極的な」動機(「別の面からの」動機とは異なる)に直面する。そうした動機が「幻影」に過ぎないと主張するにしても、そしてたとえそうだとしても、この「幻影」は動機として働くには十分な強さをもつ。ド・グールモンの「自由の幻影」という表現から借りれば、「純粋説得の幻影」ということになろう。

 

 こうした絶対的な領域においては、もちろん、「自己干渉」から「自由」へと素早く進むのは困難なことではない。それを例証するには、普遍的な法を「自由に」制定することで制定者自身が拘束を受けるというカントの発見を裏返してみればいいので、その弁証法的奇蹟は、ある種道化じみてはいるが、人は自殺において「自由」であり神であるという実存主義の考え(ドストエフスキーの『悪霊』に登場するニヒリストの説に近い)に見られる。(自己干渉という観念は自殺のイメージにおいて究極的な表現を得ることができるので、実存主義者による自殺の理論的解釈には真の喪失が理想の獲得に変わるある種の宗教的快活さが伴いうる。)

 

 人類学者のマリノウスキーが「交感的言語使用」と呼んだものが「純粋な説得」に近いかもしれない。自由に共に語る満足、語り手と聞き手の社会的結びつきを確立するための会話に彼は言及している。だが、「純粋な説得」は、有利さを得ようとするレトリックから判断すると、まったく目的がなく、しばしば目的の頓挫のようにさえ見られる「純粋な」目的よりも、ずっと強い目的性をもつこともある。その場合、目的はパズルを解くことに似ており、パズルに取り組む者は荷物を投げだすためにわざわざ背負い込み、しかも、物質的な利益に関してはなんら得るものはないのだが、他との相対的関係ではなく「絶対のなか」を進むのである。

 

 だが、「純粋な」説得の「自己干渉」は「不純な」原因からも多く生じうるし、「もつれ合った同盟関係」によって妥協させられることもある。私的な野望、罪、復讐心の手段となりうるし、同じような動機で他者の道具ともなりうる。争奪戦による勝利で問題を解決できない人間は、任意のパズルを解くことで「欲求不満を補償する」ことにもなろう。任意に選んだパズルを解くことで、自分ではどうにもならない諸条件に課せられた難題を「類似療法的に」解くのだと自らに言い聞かせるなら、魔術の要素(悪しき科学という意味での)も姿をあらわすだろう。

 

 信心深い人間の神との関係には、ある種の隔たりがある。というのも、罪とは反抗であり、自分が常になにかしら罪を犯していることは忘れようがないからである。ここに、厳格なまでの内気さの基礎がある。

 

 「純粋な説得」に近しいのは、俳優と観客との関係であろう。そこには同性愛的な意味合いがあり、同じ「説得対象」を共有する恋人を募る間接的手段であることは容易に見て取れることで、特に、俳優の才能が、もともと社会的に「優位にある」同性への訴えかけとして発達してきたところではそうである。観客は、厳密に言えば性のない役割だが、密かに社会的に理想化された愛すべき自己、ナルシシスティックなある種の<アルター・エゴ>をあらわし得る。

 

 ドジソンの場合、「メタ修辞的」動機が風変わりな性的苦境と絡まり合っているのは間違いない。だが、本当にそれが「先行する」動機であったかどうかは疑問であり、「位階一般」に対する反応から発展したこともありうる。そして、位階秩序は性的であるよりは社会的であるにしても、究極的には、社会「以前」とさえ言えるコミュニケーション<そのもの>から発しているのである。

 

 本質において、コミュニケーションは訴えかける目的のための言語的シンボルの使用を含んでいる。かくして、形式的には、語り手が聞き手と「交わる」ために言葉を形成するという具合に、語り手、言葉、聞き手と三つの要素に分けられる。この純粋に規則的なパターンは<あらゆる>訴えかけの前提となる。「隔たり」は形式に必然的なものであり、それなしでは訴えかけを維持することはできない。完全に相手と一体化していたら、罵倒がどうして訴えかける力をもつことがあり得よう。修辞学的に言うと、分離がある限りにおいてのみ、礼儀作法が存在しうるのである。それゆえ、干渉があってこそ人は求愛し続けられるのであり、真の「修辞の自由」を永続させる。

 

 我々は、「純粋な」修辞というこの概念を、人間の行為の最上の理想として提示しているわけではない。こうした修辞的動機がそれ自体で干渉の原理となり、その起源はどうあれ、最近アーヴィング・バビットが提示した「内的検証」に見られるような、高い倫理的価値を持つことがあると示したいのである。

 

 こうも言える。近親相姦に対する恐れのない性的タブーが存在すると仮定してみよう。特権のしるしとなる実在的、個人的、感情的特性が「崇敬」の対象とならず、高低のない社会階級が存在すると仮定してみよう。自慢もなければ、より以上の勇敢さを示そうとする刺激もないと仮定してみよう。そうした場合、例えば、僧侶や宮廷の純潔崇拝や清貧の誓いのような自己否定的な活動の生じる余地があるだろうか。

 

 これらの誘因は象徴活動そのものにある「超越的」性質に含まれると思える。そこから、<象徴性に根づいた>取得の不信、単に「奪い取る」だけではなく、誘惑したり、感謝の念を示したり、殺害の弁解が必要だという感情が生じうる(ある種の野蛮人が捕らえた獲物に示す「自然な礼儀」のようなもので、そうした行為は、合理的には、見事に狩りの成功を助けてくれた獲物に対する野蛮人なりの感謝の仕方だと解釈されるが、基本的に本来的な礼儀への誘因が生みだしたものである)。別の例は、恐らく、神経症的芸術家に見受けられ、神経症からひどい苦痛を受けていても、奴隷のように象徴に隷属しているので、自分の芸術の説得力を損なうのではないかと治療されることに躊躇を示すのである。

 

 こうした動機の「啓蒙化による」不在は(現代自然科学のプラグマティズムにおいては、力の取得について唯一認められる抵抗は物理的条件でなければならない)、「啓蒙的な」考え方の通りに行き渡れば、より露骨な事態を引き起こすこととなろう。

 

 事実、社会構造から間接的にというより、言語の本性から直接的に生じる動機を認めたとしても、位階化され秩序だった多くの制度とそれに対応した特性と作法をもつ複雑な社会では、その動機が正反対の姿を取ってあらわれることがないとは言えない。つまり、強制への不服従から生じる激しい取得本能としてである。特に、争奪戦で、最初につかみ取れず、しかもつかみ取る機会が多くない場合はそうである。「解放された」社会とは、「自己干渉」の重荷を背負った社会より決して優れたものではなく、一打ちの大網で容易にすくい上げられてしまう。

 

 少なくとも、強い競争への強制がない場合でさえ、自己否定の礼賛が、禁欲のうちに、身体と精神が再びばらばらになることに満足する立場を生みだすことが十分あり得るだろう。自己否定が説得から生じうるように、「否定の否定」である取得本能も同じ場所から生じうる。我々の見方からすれば、帝国主義者の異様な取得本能を単に生物学欲望の「心的な模造」として扱うよりむしろ、<自己否定の反対物への弁証法的変容>として間接的に説明しようとするだろう。

 

 抑制や距離を保つことはある体系で働き(禁欲的な運動競技のように)、新たな取得を可能にする道具である知的豊かさを生む。それは聖職者としての身分が政治的経済的優位を得る助けとなる場合に明らかである(特に聖職者が知識人である場合、その政治力は収税に役立ち、支配者の領域拡大に、そしてもちろん、支配者に「神性」を付与する助けともなる)。そして、資本主義的動機を、聖職者のシンボル操作の世俗化として詳細に見るなら、同じような間接的展開を見て取ることができよう(資本投資による利益は、「引き延ばされた消費」に対する報酬として正当化されるという説にあるように)。金融資本主義者の金銭的<シンボル>の蓄積とそれ以前の段階における「原始的蓄積」のあいだには相違がある(もっとも「原始的な蓄積」においてさえ、富はそれ自体のためではなく、「超越的な」価値のしるしとして求められるのではあるが)。

 

 かつて、梅蘭芳による中国の伝統的な踊りを見たことがある。我々多くを印象づけたのは、ものに近づく際の儀式だった。手、手首、腕をゆっくりと動かし、長い裾を引いて指を隠し——辛抱強い準備ののち、ためらいがちに自由な手を対象に近づけ、最後に注意深くつかみ持ち上げるのだった。次の日、我々はたまたまアメリカの映画を見に行った。ある場面で電話が鳴った——ヒロインはぶっきらぼうに振り返り、虎が羊に躍りかかるように受話器をひったくたのだった。普通は気づくこともない出来事だったろう。このときには飛び上がったのだった。

 

 誤解をしないようにしよう。こうした儀式を説明するのは「階級的な」動機だけである。なにかを得ることが、所有の構造そのものによって保証されている階級では、ひったくる必要などない。従って、そうした価値の美的代弁者もひったくる必要はないのである。他人に、ひったくったりするなと教える我々もまた、そうした特権を永続化しようとしている。(ものをつかむときの内気さとともに、剣を使った踊りで、作りものの頭が素早く切り落とされたのを覚えている。)

 

 だが、ここでは、別の要素、儀式であることに注目しよう。これは象徴的な獲得であって、現実のものではない。それゆえ、行為を引き延ばし、遅らせることによってのみ、或いは剣の踊りでは、「純粋な目的」(カントの言う目的を欠いた目的性)によってのみ、存在できる。この要素は儀式的行為に本質的であり、階級的な動機がない場合でも引き出すことができる。純粋に儀式的な獲得は、また、獲得しないことでもある。「神秘化」について多言を費やした後で、最後にいたって、階級的動機の重要性を否定することになるのかもしれない。我々はただ、階級的動機に先行する要因が存在しうること、儀式的獲得は獲得ではなく、本来獲得に干渉するものとして認められるべきだと言いたいだけである(非獲得的な儀式そのものが演者に名声と報酬をもたらし、もっとも直接的な意味での取得をもたらすことは否定するつもりはないが)。

 

 ここでは道徳的な発言をしているわけではない。純粋な説得が存在「すべき」であるとか、それ以上のものがあるべきだと言っているのではない。「人間の弱さ」が永久に説得を「不純な」ものとするというのでもない。あらゆる説得の究極として、その形相、原型として、純粋な説得が存在<する>と言っているだけである。お望みなら、議論のために、正反対の道徳的立場をとり、純粋な説得など存在「すべきでない」、純粋でないものだけが存在「すべき」だと言ってもいい。重要なのは、どんな技巧にもその究極的な形(範型或いは観念)が存在し、働いているということである。この形式が「純粋」という言葉であらわされている。

 

 説得の究極的な形式は三つの要素から成り立っているので(語り手、言葉、聞き手)、説得という行為だけで言えば、嘆願になにも答えられない限り、その形式が維持されないことは明らかである。嘆願が答えられたとき、説得から別のなにかに移ることとなる。キルケゴールで見たように、以前は入ろうとしたところから、今度は出ようとしなければならない。これこそが、説得の動機として「自己干渉」が技術的、形式的に必要であることの意味である。この故に、究極的な説得の礼賛は、『宮廷人の書』の第四巻がその前の三巻を超越するものであるように、部分的な優位を求めるための説得を超越するものとなろう。魅力ある説得では、「仲直りをするために喧嘩する」恋人や、内気さと節度ある好色さを両義的に兼ね備えた「純粋な説得」として、「裸のうちに」カーライル的な衣装礼賛を展開する「貞淑な」女性のように、観衆のなかで打ち勝つべき障碍を自ら設けることで説得力が維持される(いまでは「修辞的な」動機が主要産業の基礎を形づくっている)。

 

 人類学者や社会学者は、性的タブーを制度的なものと見なすが、我々はそれを否定する。我々は、制度を超えたところ、説得の行為に、<言語そのものに含まれる>と言うだろう。そして、<説得を永続化させるには>(説得が普遍的で、純粋に、つまり、範型的形式的となる)、<干渉が必要である>。というのも、成功してしまった説得は、死に絶えるからである。(形式として)永続化するためには、到達可能な優位性に向かうだけではいけない。優位性が獲得可能なものであるなら、説得の<この>特殊な対象は、障碍によってのみ保ち続けられる。ここに、礼儀作法におけるタブー、「隔たり」の条件となる究極的な修辞的土壌があると考えられる。

 

 同じように、優位性を得ようとする人間の熱狂、獲得できても実際の優位をもたらすわけではない多くのものを求めることは、最終的には、こうした「メタ修辞的な」説明を必要とするように思われる。(少なくとも、そこに<起源>が求められるだろう。制度的な要因は<強さ>に関わるものとなろう。)ある社会が説得的行為を永続化する仕掛けとして「内部からの」障碍を拒絶するにしても、「新たな必要」を礼賛することによって同じ結果を得ることができる(我々の経済システムの性質に従い、移りゆく対象に刺激され続けることで)。こうした引き延ばしによって、説得の形式は永久に維持されていく。対象物を手に入れることで説得力を失う恐れのある者は、他の対象を求め、そうした対象の不断の転換が(あたかも「外部から」与えられたかのような)、結果的に、説得的な行為を永続するのに必要な自己干渉の原理を与えることになる。Aを手に入れるにはBを手にする必要があり、Bを手に入れるにはCを手にする必要があるという具合に、Aを永久に、距離を置いて求め続けるかの如く同じ「形式」が繰り返される。キーツギリシャの壺のように、永久に求め続けることは、自己干渉によってのみ可能となるだろう。自己干渉を止め、「外に向き直り」、永久に変わり続ける新たな必要物を追いかける「いたちごっこ」に加わっても同じ結果を得る。(永続的な形式は、極度に注意を固定化することによって得られる場合もあれば、極度に注意を分散することによって得られる場合もあろう。「新たな必要」が「単一の」金銭シンボリズムによって合理化されている限り、分散もある種の連続性をもつことができる。)

 

 我々はそれを、道徳的、政治的、制度的意味において、「いい」とも「悪い」とも見ることができないので、純粋な説得を考えることについて道徳的であることはない。我々に察せられるのは、人間喜劇の大本に近づいているということだけであり、そこで用いられる衣装こそ歴史的条件によって変化するが、その形式は、笑いと同じように、言語の本性とシンボルを使用する動物である<弁証法的人間>の「合理性」に発しており、そこで使用されるシンボルは、非シンボル的な「現実」を反映していると同時に超越しているのである。

 

 生物学的には、人間の本質は欲望することである。しかし、同じように、生物学的には、人間の本質は飽きることでもある。「神秘」の動機だけが(「より高い」場に発展することによって)、子供が最初に「最も大きい数」を考えるときに学ぶような、無限の広がりをもつ。

 

 シンボルを通じた現実の弁証法的超越は、少なくとも、自然な動機に関する限り、この神秘に根づいている。それは純粋な説得、絶対的コミュニケーション、懇願のための懇願、物理的な対象に特定することができないほど普遍化された称賛と非難において頂点に達する(そうした普遍化を伝える唯一可能な「聴衆」としては、一般的な善悪の原理を仮定するしかない)。

 

 ここでは、崇敬、神、位階は弁証法的過程の究極と見なされる。お望みなら、それを弁証法の「基本的錯誤」と呼んでもいい。それは我々が気にする必要のないことである。我々が語っているのは、言語的過程を完成するものとして「神」や「神−語」をもとうとする究極的な弁証法の傾向である。それでは「言語過程として不適切だ」と結論したいなら、それはあなた方の問題である。我々としては、言語は本質的に無感覚な諸対象を超越するための手段であり、そこには、<究極的な>超越である「神」の観念に向う「誘惑」が含まれていることさえ認めてくれたら、我々の修辞学研究の議論の場としては十分である。

 

 原始人は、「自然神」として完全に説明できる神々をもっていたかもしれない。我々はそれを疑うが、議論のために疑いを解いてもいい。我々が言っているのは、完全に自然の力を擬した神々が存在するにしても、少なくとも、「自然神」を併合することができるような(新約の神が旧約の神を併合したように)「弁証法的神」(「ロゴス」)を認めないなら、「神秘化」をまったく捉え損なうだろうということである。この名称の名称が、カントなら「超越的弁証法」といったであろう究極であり、すべてを要約する観念であろう。

 

 我々の論点はこうである。この弁証法の結論において、<弁証法的人間>の究極的な修辞的動機を探しだすべきである。人間の努力は「優位性」を求めること、「合理化」や「道徳化」によってそうした行為を単に「昇華する」ことにはなかろう。むしろ、位階的秩序そのものがもつ説得力、その<形式>に根づいているものであろう。そして、弁証法的に考えると、純粋な嘆願としての祈りは、特定の<対象>(返礼をもって祈りに「答え」られるような)に向けられたものではなく、<位階原理そのもの>に向けられており、答えは祈りそのものに含まれていると言えよう。形式を過剰に重視する解釈の謬見があり、動機の「純粋さ」を強調するあまり、優位性を求めるという要因が軽視されることもある。しかしまた、過剰に物質主義的な解釈があって、弁証法という要因を軽視してしまうのである。タブーが、個別な所有構造の条件によってその性格を決めるという事実は、それが<言葉の用い方>に本来備わった傾向に根ざしているという事実を消し去るわけではない。