一言一話 82

 

道教 選ばれた瞬間が回想、追憶であること

 道家、たとえば荘子にあって事情はまったく異なる。経験的日常的次元において世界はその無定形・不安定・了解不能性・不気味さ等々においてきわだっている。世界は不可解であり、抽象的思考の入りこむ隙をみせず、心理的にいえば不安それ自体である。人間は僥倖的に落ちかかる<坐忘><喪我><忘我>といった選ばれた瞬間の恍惚裡に世界の秘奥へ飛躍しなければならない。しかも老荘的人間にとって厄介なことは、かかるトランス状態を<坐忘>と呼ぼうと、あるいはその願わしい持続の状態を<死灰槁木>と譬喩しようと、さらに恍惚自失裡に己の胸奥に鋭く刺している、清澄で軽快な、世界存在の確かさを存在論的に<道>と言表しようと、反対にこの一瞬の万物照応におけるまぎれもない生の跳躍への主体的な内的契機を<明>と名づけようと、すべてはしらじらと醒め果ててのちに頽落した意識が想いなす業にすぎないことであった。トランスそのものはすでに回想であり記憶である。だから<名づけ>とは荘子にとって胸躍る回想に誘発されるところの想起そのものとなる。

しかし、トランスをある理想状態として認めることは、老荘思想に特有のものであり、言葉にならないものを中心に網の目状に言葉が張り巡らされることになる。