ブラッドリー『仮象と実在』 178

[さらに高次の現象との関わり。]

 

 この考察は宇宙のより高次な現象を考えるときにも見いだされるだろう。単なる現象的な出来事とそれらを支配する法則だけで成り立っているのは貧しい世界であろう。日常生活において我々はすぐにこの不自然な原理と事実との分離を超越する。(c)我々はその影響に比例して、つまり、その存在が個人的な限界を超える領域に影響を与えるまで拡がるものを重要な出来事を数える。ここでの二つの特徴、自己充足と自己超越がすでに矛盾していることは明らかである。なんからの経験が具体化し、いかなるしかたによってか法則と原理となるときに我々はより高次な段階に到達する。しかしながら、ある普遍的な真理の単なる事例では、事実と法則とはいまだに本質的に相互に異質であり、その結合の欠陥のある性格は明らかに見て取れる。我々の基準は、それ自身の法をもつ個的なもの、単一の存在の生気ある実体を形づくるような諸法則へと我々を導く。こうした性格を持つ不完全な現象は、最後の章で、魂の個別的な慣習のなかに認められることになろう。さらに、実現された美については、原理を伴った事実の結合のもうひとつの形式を見いだすことになる。そして、このことから意識的に向かうには、我々の基準の一歩進んだ使用と新鮮な適用が要求される。個人、あるいは共同体の意志では、それが適切に実行され、外的な事実に表現される限りにおいて、我々は調和のある自己内包的な現実を新たに主張する。そして我々はそのそれぞれの場合において、存在を支配する原理をもち、それを伝える範囲と領域をもった首尾一貫性を考えねばならない。このことから我々は、部分的な欠陥はあるとしても、より高次の存在を見いだすだろう。我々は個的なものと理論的実際的な諸目的との関係を、その実現を求めるが、その本性において限定的な個人性のなかでは実現されえない目的との関係に到達するだろう。ここでもう一度、我々は比較による評価を行わねばならないが、そのときにも基準が必要である。というのも、個人の意志の成功や失敗を離れては、究極的な善や実在の観念は、もちろん、まったく異なる価値を持つからである。我々は個々の場合において、絶対の多様なあらわれに帰せられる場所を固定し、その不調和と限界の量を量らねばならない。