ケネス・バーク『動機の修辞学』 57

 我々は神学者的な意味における「神」を発見しているわけではない。神学者にとっての神は、弁証法的に到達される「観念」以上のものであるに違いない。正統的な教義の観点から判断すると、純粋な「弁証法的神」は単なる「自然神」と同様不満足なものだろう。しかし、実在の事物を指す言葉から名称へ、更に名称間の秩序、そして最後に名称の名称へという言語的道筋を通ることで、我々は修辞学と弁証法の赴く限り、この本が我々に請け負う限りの場所へ行ける。

 

 だが、これでは恐らくは問題を誇張しすぎていよう。神は一般化と人格化とを結びつける。「弁証法的神」は人格化の要素を欠いているように見えるが、一般化を有しているのは明らかである。この意味において、「純粋な説得」はパンテオンに列せられ得る。ギリシャ宗教とギリシャ科学とが重なりあった「女神ペイト」に等しいと言えるだろう(ギリシャでは科学は<一般化された>知識と等しい)。だが、人格の原理も、間接的にではあるが存在している。観念は人格的なものだからである。

 

 人だけがもつことができる故に、観念は人格的である。シンボル使用(「人間の合理性」)の本質的に人格的な側面をもっている。観念が非人格的に思えるのは、多くの人間、或いはすべての人間がその人格性を共有できるからである(聖体拝領で、神の血と身体を儀式的に食することで、神の実質を分かちもつように)。

 

 実際、一度この人格性という問題にとらわれると、人格性と非人格性とが微妙に入れ替わる弁証法パラドックスにいらだつことになろう(このパラドックスでは、修辞的刺激として「神秘化」を加えるのは重要なことであるから、人間に密かに「神性」が付与されることになる)。ある形象が非人格的動機の人格化であるとき、結果としてなされるのは<脱人格化>である。人格はある「絶対的」実質のためのカリスマの容器となる。そして、こうした魔術的な付与がなされると、人格は個人としての本性を超越し、彼が指し示す観念のイメージとなる。彼は自身をあらわすのではなく、彼が同一化している同族或いはクラスの代表である。この点において、彼は「神性」をもつ(そして、衣装のような顕著なしるしが同じ精神を具体化する)。

 

 かくして、社会的崇敬の原理が愛される者の人格に集約されると、彼女は「彼女自身」の故に愛されるのではなく、彼女が「あらわす」もの故に愛されるのであり、愛する者、或いは聖体拝領者は社会的動機をカリスマとして受け入れる容器を間接的に求めることとなろう。実際、社会的崇敬と宗教的崇敬とを縛る秘蹟である結婚において、どこで「経歴重視」が終わり、どこから「神の」領域が始まるのか見分けることはできまい。

 

 愛される者が社会的身分において「優れている」にしろ、「劣っている」にしろ、「同等である」にしろ、位階原理をあらわすことができ、その限りにおいて神秘であり、購うことのできる奇蹟である。彼女は絶対的秩序に「叙階されて」いる。彼女の輝き、見て取れるほどのオーラは修辞的なものである。しかし、この修辞の説得力は恋人の弁証法的働きの完璧さ、一貫性から生じる。彼は彼女があらわしている叙階のために彼女を愛している。彼女の死さえ甘美に夢見ることができる。というのも、その叙階において彼女は神であり、その神性において不死であって、不死の観念は人間的には死ぬという形象を通じて捉えざるを得ないが、神に連なって共に死にゆくことは、象徴的には性交でもあるからである(総じて、弁証法錬金術では、取得は容易に放棄に変わる——そして、弁証法は言語的で、「知的」であり、アクイナスの天使や使徒が「知識人」であるべき理由、聖職者の独身生活で叙階に対するある種の求愛が許されている理由を我々は純粋な弁証法的理性に見て取る)。

 

 異なった角度から修辞的「神秘」に接近することで我々は脇道に逸れてしまった。「純粋な説得」にある「弁証法的神」にいかに到達したかを我々は語ってきた。続いては、方向を逆転するべきである。弁証法的形式の「純粋な位階」から個別な運動の具体化に向かうと、最初に認められるのは、現世の位階に向けられた「崇敬」である。高位の者と下位の者との「牧歌的な」関係、或いは(その紐帯が断ち切られたときには)「労働者」の代表たちが「支配階級」という観念そのものに対して抱く、または支配階級の代表が反乱や改革の指導者に感じる「神秘的な」憎しみもそれに等しい。かくして、我々は希薄化された神秘を探し求めることになる。修辞学の学徒として、我々は神秘の偉大な説得力を認めているからである(実際、ジャーナリストとして資本主義を擁護する者たちが、クレムリンの動機は「謎めいて」いて、「測り知れない」という考えを確立しようとするとき、皮肉なことに自分たちの目的を裏切っており、「東洋」の古来の神秘が啓蒙的な「西洋」を押し流す脅威であることを認めているのである——現在の神秘的な物語の流行は、人々が神秘に進んで蹂躙されていることを示すに十分である)。

 

 しかしながら、言語の本性には位階への誘因が(その「神秘」とともに)埋め込まれていると考えるとき、「神秘」を制度的な源のみから生じると見なすのは誤解だと主張するとき、我々はどんな個別の制度に対して賛成しているわけでも反対しているわけでもない。制度の相対的な価値は、時と場所に固有の条件で、生産、配分、消費の問題とどう実際的に、ダーウィン主義的に適応していくかによっている。例えば、一般的状況では「神秘」の印のついたある特殊な秩序(或いは所有構造)が、別の秩序よりも適したものとなりうる。それゆえ、位階は不可避だと言うことは、ある名称のもと取り除かれたものが別の名称で取り入れられることを根拠に、新たな秩序に反対するカテゴリカルな論議をすることではない。その原理は言語の本性に根づくものであり、結果として生じる職業階級の多様性によって補強されるものであるが故に、いかなる秩序にも位階の神秘は存在するだろうと言っているに過ぎないのである。修辞学の最終的な有効範囲に関して、この主張は重要である。神秘の強さ、病的状態、特殊性は制度的な原因からくるが、<姿勢>そのものは<シンボルを使用する動物>という属としての人間の本性からくるものである。

 

 同様に、尊大な威圧感を与え、プロイセンの司令官を文化的領域に移したかのような教員を見ると、社会的差別から学校におけるあらゆる差別を引き出したくもなる。しかし、こうした見方は教育課程に本質的な序列の原理を軽視するものであり、そこでは段階的な成績や教授法が避けられないのである。それは、永久に学問という「パントマイムの場」での道化芝居に留まるだろうが、純粋に「弁証的な」動機は十分にそこにも働いている。