ブラッドリー『仮象と実在』 179

[他の基準は可能ではないこと。]

 

 それらの生の各分野については、後に立ち戻ることだろう。しかしいま、注意を引いておくべきいくつかの点がある。第一に、私は世界の異なった諸側面を完全に提示するつもりはないことを繰り返しておかねばならない。また、現実と真理の比較された程度に従って並べ替えようとするものでもない。まじめにそうしたことを行おうとすると、第一原理による合理的な体系によらねばならないが、この作品で私は事物の主要な特徴だけを扱っている。しかしながら、第二に、私が読者に主張する考察がある。世界に対する見方において、時間における存在に現実を限定し、出来事の系列を再現することに真理を限定すると――単にある事物が存在する、あるいは存在しない、ある観念が間違っている、あるいは真である――多様な現象の秩序に対してどうして公正であることができようか。というのも、我々が整合性を保つとするなら、主要な人間的な関心を区別がないものにまでおとしめ、非真実な辺土に追いやることになる。もし我々が整合性をもたないなら、知的な基準なしにどうして合理的に進むことができよう。我々はこの二者択一に迫られると思える。我々は事物の相対的な重要性を述べることができない。比較される意味について語ることができず、芸術、科学、宗教、社会生活、道徳性によって得られるものを世界に位置づけることはできない。我々はそれらがもつ真理と現実の程度について完全に無知であり、宇宙においてそれらがなんらかの意味を持つのか、程度の相違をもたらすのか、問題になるのか言うことができない。どちらの場合にしても、我々の一面的な見方を改革しなければならない。しかし、私が見る限り、二つの方法のうちの一方でのみそれは改革されうる。我々は私が示そうとする真理や現実についての見方を受け入れるか、大胆にもあらゆるものを感情の検証に従属させねばならない。以前の不適切を除けて、真理の理想を打ちたて、それに沿った独立した価値の基準にあるわけではない。この手段は、第一に、「真理」や「現実」の「程度」についてなんら明確な意味を残してくれないだろう。第二に、実際上、我々の二つの基準はあらゆる場所で衝突する傾向にあろう。それらはそれらを越えたなんらかの統一に訴えることなしに、なんの希望もなくぶつかり合うだろう。たとえば、なんらかの宗教的信念について、美的な表象について、我々はこう主張されざるをえないだろう、「どれだけそれは全体的に間違っているか、真理からどれだけ優れているか、可能な現実以上のどれだけのものが我々にはあるのか」と。そして成功した包括的な理論に関しては、それは完全に真でありながらまったく価値がなく、おそらくは注意を向けるまでもない物理的事実に関わるものとなろう。現実と真理を世界から分離することは、自然を切り刻み、非合理的な妥協や動揺に終わらざるをえない。しかし、この変わりやすい姿勢は、生においては一般的であるとはいえ、ここでは認められないように思える。そしてそれは、感情に対する従属ということで私が意味していることではない。私は可能性としてはより低いが、より首尾一貫したものを指していた。それは、価値ばかりではなく真理と現実のある種の絶対的な検証の形として打ちたてることを意味しているだろう。ここでは我々が感情を、目的として、快と同一視すれば、ある事実をどれほど明確なものであろうと、これは絶対的に何ものでもないと主張することもできる。苦痛を生みだすので、より悪く、それゆえ、無以下でさえある。どれほど明らかなものであろうと、ある種の真理は快を増すことに寄与しないように思えるので、それを単なる間違いや錯誤として扱うべきであろう。こうした姿勢は、どれほど非実際的であろうと、少なくとも世界にある種の統一と意味を導入しようと試みてはいるだろう(1)。

 

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 しかし、もし単なる感情を我々の基準にすることが結局のところ不可能であるならば、二重の検証や支配の混乱に我慢できず、隘路に、古くからの切り刻まれた不整合な見方に逆戻りすることもできないなら――別の変革を受け入れる勇気をもたなければならない。知られる現実というものが、外的内的な出来事の系列で成り立っており、真理とはそうした存在の形式に対応するものでしかないという観念を完全に拒否しなければならない。あらゆる現象はそれ自体、真理(1)のではないとしても、実在の程度を有しており、我々はどこにおいても、単一の基準を当てはめることによってその程度を評価しなければならない。(既に言ったように)その評価を一般的なものにしようとしているわけではない。詳細においては、合理的な比較に希望がないように思える事例が見いだされることは認める。そして、この点における我々の失敗は、我々の原理を正当化しないであろうことは疑いない。我々の無知と不足だけをもってしても、基準は適用され得ないように思われる。繰り返しになるが、この問題について簡単に触れることを許してもらいたい。

 

*2

*1:

(1)こうした姿勢は、非実際的である以外にも、内的に不整合であろう。それは 真理を与えてくれる立場を壊してしまう。事物の傾向を判断するのに用いられる限 り、理解というのはある部分独立したものである。我々は以前のように二重の基準 に立ち戻ることを余儀なくされるか、それらの傾向に対して単なる感情に判断させ ねばならないかどちらかである。明らかにそれは単なる気まぐれか、無秩序に終わ る。

 

*2:(1)実在のあらゆる現象はどれであっても、またどんな意味でも、真理をもつこ とは、第二十六章で取り上げる。