ケネス・バーク『動機の修辞学』 58

 制度的なもののみによる説明が我々を誤らせるように、精神分析的なもののみによる説明も同じように我々を誤らせる。第一に、言語の本性にある弁証法的動機は、精神分析では、心理学的動機の単なる派生物として扱われる。純粋に「形式的な」状況、言語が超越を生みだし、超越は距離を生みだすという事実(心理学だけに関わるというより、一般的な弁証法的考え方に関わるのだが)に強い影響を受けている「自己干渉」の原理が、心理学的な衝動の「昇華」だけで説明される。第二に、精神分析学は、性的関係の背後に社会的関係の本質を隠してしまうことが多すぎる。第一の点については、先に、制度的な説明が形式的要素の「優先権」を無視していると指摘したことが、精神分析についても<必要な変更を加えて>適用される。そこで、第二の点、精神分析は、正しく割り引かなければ、性的関係にすべてを囲い込むことで社会的関係の本質を隠し、我々に道を踏み誤らせるという点に向かおう。

 

 「公正」に関する単純な弁証法は特にこの誤りを招く。公正は一基準の<普遍化>であるからである。それゆえ、もし<社会的>差別に(階級の位階)よって神経症になったものがいるとき、疾患を性的に普遍的で、家庭に普遍的な関係にもっともらしい普遍的な言葉で翻訳すると、「真理」と「公正」としての魅力をもつことになる。「<私の階級>は<社会>問題の犠牲者である」と言う代わりに、公正さに必要な普遍化によって、「我々は<すべて><性的>問題の犠牲者である」と言うことになる。社会的問題には性的異常と対応する部分があるので、こうした偏りには数多くの「証拠」が見いだされるだろう。この偏った普遍化は、社会的見方には欠けているある種の「寛容さ」もある。

 

 間違いは、個人主義的に攻撃性、代償作用、劣等感などを強調してもただされはしない。個人主義も、普遍主義同様に階級の「神秘」を強く隠してしまうからである。同じく、「心理学的タイプ」の理論はある意味、階級の強調を回復するものだが、ここでの階級は社会的位階の動機を歪めるものであり、隠すのとほとんど変わるところがない。性的な動機で位階的動機を扱うこうした解釈は、新たな装いを取りながら、観念論による神秘化の初期から続いているように思われる。

 

 また、神経症の社会的起源を「生誕のトラウマ」に帰することで、我々はそれを露わにすると同時に隠すことができる。特殊な社会的苦境に生まれ落ちたという<他に類を見ない>トラウマ的出来事が、生まれ落ちるという<誰にでもある>不運になる。社会構造から神経に強い圧迫を受けて生じた病いが、かくして、出産によって説明可能なものとされる。種的で、<血族的な>意味合いをもつ<階級>が、属として、<普遍的な>生誕という<心理学的>事実で解釈される。

 

 かくして、文学では、社会的「恥」や「秘密」を持つ人間によって発達させられた謎めいたスタイルが卓越性のしるしとして用いられ、ある種の社会的差別や審判をこうむったり恐れたりする作家のように「罪」は象徴化され、強迫観念は同時に自慢でもある秘密の告白として、密かにあらわされることもなろう。こうした卓越性は社会的汚名から生じるもので、修辞的な説明を必要するにもかかわらず、問題となる「家庭」や「種族」の一員だという「実質」を含む事実によって、分析家は、生誕の衝撃と同じような、純粋に<医学的な>説明を求めることもあり得る。

 

 ここには「普遍的なるものの」教えが<存在する>。しかし、「位階による精神病質」はあらゆる国に行き渡っているが、特に悲惨なのが、現在と合致しない、過去の状況から発展した制度の「死者の手」によって支配されている国々であるのは事実である。それは、社会的階層の各場所にいかに目に見えない間接的な仕方であれ、影響を与えている。「心因性の病気」は恐らく、現在ではこうした「社会的病いの」一般的なしるしであろう——ここで、再び我々はその由来を隠蔽する「普遍的なるもの」の難点に直面する。精神分析が慢性的に病んだハプスブルグの官僚制の影のもと成長したのは偶然ではない。

 

 例えば、ある青年が、上流向けの中等学校に行く。そこは両親の経済力を越えている。あらゆる手段を使って親は子供をそこに送り込もうとする。子供のためを思ってである。子供の「ため」とは何であろうか。彼らが考えているのが「人との関係」であるのは間違いない。彼らが考えていないのは、子供が性的苦境に「ごく正常に」立たされたとき、社会的な苦境を押しつけ、更なる混乱にさらすという事実である。彼は自分の見せかけだけのいかがわしい身分につきまとう罪悪感で病的になり、過剰に追従的か攻撃的な反応をし、実際に自分がここに「属している」かどうか秘かに疑いをもつこととなる。そこで両親は彼を心理学者のもとにやり、心理学者はすべての疑念は家族との幼児期の関係から生じることを発見する。痘瘡を患ったとき、隣の庭から果物を盗んだとき、親戚の誰かからなにかのことで驚かされたり失望させられたりしたときにも、そうした要因が含まれているのは間違いない。新たな位階に「生ま変わって」からも、この徹底的な魔術が働いており、新たな自己をつくりだしそのしるしを得ようとするときにも、過去のあらゆる事柄に影響される。しかし、こうした「普遍的な」或いは「個人的な」要素が強調されればされるほど、神秘の主要な源からの逸脱は大きなものとなる。それを公準化すると、神秘が存在するところ、神経症あり、となる。実際、幼児期の経験は価値あるものだが、それだけを強調することは、より広範囲な<社会的>性質を<家庭的な>動機に置き換える偏りを生む可能性がある。

 

 「劣等感」についてのごく一般的な説は、実際には<階級的>性質をもつ動機が個人性(そしてその弁証法的な対応物である普遍性)という誤った外観を取るもう一つの例である。「劣等感」はある<種>の存在が、別の<種>の存在に劣っている(或いは他の<種>によって危険にさらされている)という感覚である。単なる自己と他との暗黙の比較などではない。自分が代表していると思うものと他人が代表していると思うものとの<社会的>判断による比較である。個人が別の個人に「劣等感」を与えることなどできはしない。関係を判断する観衆や外部の観察者がない場合、なにかを感じるとすれば、文字通りの劣等性の自覚であろう。しかし、劣等性と「劣等感」とはまるで異なる。前者は単なる「事実」である(検証方法によっては誰にでも当てはまる事実である)。後者は<告発>であり、実在する或いは想像された良心の法廷(「宮廷作法」のテーマの一変種である)から自身に対して社会的判断を下し、自らを責めるのである。

 

 この理由により、自分の階級や「人種」から離脱した人間は(黒人の知識人、リベラルなユダヤ人、いい方にであれ悪い方にであれ社会的立場を著しく変えるキリスト教徒のように)、共同体の伝統に完全に留まっている人間よりも「劣等感」をもつことが多い。「離脱したタイプ」の人間は、一緒に離れた親友にでも会わない限り自らの<特殊性>と孤立感を感じるものだが、変わらずに共同体に留まっている者は、むしろ、同じ種類の人間たちによって、ごく現実的な意味での後ろ盾を得るのである。(数多くあったボヘミアン的な国外脱出組の文学運動のあり方を思い起こしてみると、社会的神秘がしばしば秘教的修辞の形を取り、その本質は<ブルジョアの度肝を抜く>という標語にあらわれているのだが、そのつむじ曲がりの宮廷作法は、根本的には、ドジソンが幼いアリスを困惑させたやり方と違わない)。

 

 精神分析学は、実際には分けられないものを重要な区別として強調しているように思われる。人間は、シンボルを使用する動物として、<この>存在と<あの>存在との相違を、<この種の>存在と<あの種の>存在との相違として経験すると我々は語ってきた。ここに、リアリズムのまさしく中心にある<純粋に弁証法的な>要因がある。我々の事物への姿勢に含まれているのは<分類化>の原理である。そして、言語或いは形式的な意味での分類化は包括的なもので、社会的意味のみによる分類化に「先行」している。階級の「妬み」という側面は、「階級的な動物」ではなく「分類化する動物」という人間の本性から生じている。

 

 例えば、意味のない言葉によって二つの対立するグループに分ける室内ゲームのことを思い起こしてみよう。「進歩的と保守的」、「外向的と内向的」、「ブルジョアボヘミアン」といった区別ではなく、「ヴィズルとボズル」、「スリッフとスムーヴ゛」といった意味のない言葉で分類されるわけである。各メンバーが交代でそうした「分類」を特徴づける要素をあげていく。最終的に、ボズル党に熱狂的に対抗するヴィズル党、スムーヴ党を嫌悪することに狂喜するスリッフ党が認められることになろう。

 

 人々が赴きがちな「位階的精神病質」を戯画化しているとはいえ、このゲームが「秩序への熱狂」を示しているのは間違いない。つまり、意味のない言葉を遊戯で使うことによってさえ、実際にゲームの背景をなしている「妬み」の社会的状況へ向かう傾向を辛辣に引き出すのである。最初にあったどうにでもなる意味のない言葉は純粋に<形式的な>根拠を示しており、そこには、社会的分類化がその特殊な一例であるような<弁証法的人間>の合理性、分類化の包括的な傾向が含まれている。

 

 心理学者が人間の制度から人間の本性を引き出すのではなく、人間の本性から人間の制度を引き出そうとするとき、明らかに彼らは、このナンセンスなゲームが示すように、制度の力だけで人間に関わるすべてを説明することはできないと感じている。しかし、「優先順位」を探すとなると、形式的な源である<弁証法>よりは心理学的な源である「無意識−非合理的なもの」へ向かうのである。シンボリズムの研究に関する彼らの実り多い貢献は、形式論理を単なる心−理学の派生物と捉えるなら、誤った方向へ向かうことになり得る。

 

 次の著作である『動機の象徴学』では、フロイトの著作の分析によって、夢の働きにはいかに多くの論理的弁証法的原理が含まれているかを示してみたいと思う。それらの要素はあらゆる「合理的」思考の基礎でもある限りにおいて、夢に「先行」している。しかし、人間の動機に関する心理学者の考察が、シンボリズムの重要な強調において、制度による説明よりも<弁証法的人間>の起源に近づいているにしても、我々はフロイトの用語法を幾分割り引いて考えなければならない。さもないと、弁証法家として彼の見事な腕前を正当に評価できないし、家庭における幼児期の経験についての分析がいかにうまく位階的動機の働きをあらわにしているか見て取れないことになる。

 

 クラフト・エビングの『性的倒錯』に見られる途方もない性的倒錯の一覧を見直してみよう。多くの倒錯者の事例において、(翻訳者であり、編集者であるヴィクター・ロビンソンが言っているように)「通常のやり方で性行為を楽しみ、行うことがもっとも困難なように見える」という事実を見てみよう。そこに位階的動機の証拠を見てみよう。様々な支配と服従の宝庫のなかで、数多くの中間種が即座に見て取れないだろうか。単純直接に手に入れられないものを間接的に距離をおいて得ようとする半端な同一化が認められる。下劣なものを崇拝する深遠な「高貴さ」が認められる。社会が低俗だと見なす性的表現を放棄することが、いかに謀反であり自責の念を生むものでありか、拘束されることを拒んだ判断を受け入れることがいかに病的な緊張状態をもたらすか考えてみよう。「靴やハンカチに固執するフェッティシスト」、「毛皮やヴェルヴェットの愛好者」、「美少女の小姓になるという考え」に恍惚となる「小姓趣味」のねじれた懇願を考えてみよう。リンチをめぐる物語は、性的暴力の幻想や行為における位階的動機を明らかにする——「相手を傷つけるサディスト、鞭を見ると興奮するマゾヒスト」や「<フロッタージュ>【服を着たまま性的快楽を得ようとする者】、<窃視症>、<臭いフェチ>、<糞便愛好>」も同じことであり、敵が考えられる以上に自分のことを卑しく言うときのように、陰惨なる屈従は「スカトロジーの奴隷、偶像を汚す者、女性や子供からの略奪者」として身を飾ることになる。死体愛好、小児性愛、老人性愛、異常性欲、色情狂——こうした動機に身体的快楽がどれだけ関わっているにしても、多くの部分に位階的動機がなければならないのではないか。ここには不自然なやり方で求められるあらゆる種類の不自然さが認められる。なぜそれをもっぱら自然な性癖から生じるものと扱うべきなのだろうか。

 

 こうしたことはすべて、ディドロなら「身振り姿勢」と呼んだであろう道化芝居である。社交的宮廷作法のグロテスクな形式である。それを純粋な説得の遠く隔たった変種と呼ぶなら(処女崇拝や恋人の冷淡、残酷、よそよそしさ、不実を訴える詩のように)、性的原因のみによって説明するよりも真実に近づいたこととなろう。

 

 精神分析的考察および制度的考察は、こうしたあらわれの背後に、<原動力>として重要な源のあることを示している。分類、抽象、比較対象、合併と分離、派生等々は、社会的個人的問題を越えた<包括的な>人間についての考えを特徴づける。しかし、社会的個人的問題は個別な表現の力点を導く誘因ともなる。例えば、「白人優位」説の形式的、或いは弁証法的技巧を分析してすべてが終わりになるわけではない。形式の「純粋な説得」は、実際には、特定の修辞的適応に比較すると弱い。ある「種」が本質的に優れていると主張し、共謀者共々自分たちに有利な忌まわしい不正義をでっち上げて病んだ精神を嬉しがらせる「スケープゴートのメカニズム」の本性を暴露するために、精神分析的、制度的批判は必要である。

 

 しかしながら、我々の論点は、こうした批判が早急に必要だからといって、動機のすべての配合を隠すことは許されない、ということにある。さもないと、修辞的党派性の分析であるはずのものが、それ自体修辞的説明となってしまう(その完成には弁証法が与っているにしても)。しかし、体系的に「純粋な説得」の領域にまで後退することによって、心理学的および制度的動機づけ(つまり、行為者と場面のそれぞれの動機)を修辞的要素として含む一般化の度合いにまで我々は達する。また、「神」が弁証法において項をまとめる項である限り、修辞的発言において神学的動機に容易に接近することになる(究極的な場面について、自然主義的語を修辞的に使用する場合を含む)。

 

 まさしくこうした理由により、「純粋な説得」というのは、常に、まさに見いだされんとするものであり、まさに見失われんとするものだと予想される。修辞の個々の例を挙げてそれについて語ることは、常に、利害追求の「不純」さを見いだす結果となる。究極的な形式が語り手と聞き手を関係づける言葉でしかないにしても、この説得の関係は本質的に「宮廷作法風」のものであり、位階として関係する秩序間のコミュニケーションを含んでいる。確かに、秩序間の関係は固定している必要はない。例えば、金銭的な面から言えば、「都会風の」洗練を売りにする芸術家は、彼が称賛を得ようと努めている「理想的観衆」よりは「社会的に劣っている」こともあり得る。だが、「職業上は優位にあり」、「理想的な観衆」の多くを個別には軽蔑しているかもしれない。しかしまた、そう捉えるやいなや、(『千夜一夜物語』に見られるように)芸術家−芸人は君主−観衆の僕に過ぎないことが思い起こされるに違いない(雄弁家が厳密に発言の範囲と性質を限定することで、観衆に支配されることによってのみ観衆を支配することができるように)。

 

 「理想的観衆」について述べることは、純粋な説得の得失がいかに動機の修辞学を複雑にしているかを示している。象徴の面で言うと、芸術のための芸術という「純粋作業」は、去勢と不能の間のどこか、恐らくはその黄金分割であるマスターベーションと密かに、自滅的に結びつこう。芸術家の誘いは他者に向けられたものではなくなる。コミュニケーションが、外から与えられる必要のない叙階と精妙に混じり合う。個々の観衆は口実に過ぎなくなり、自分自身の内部での超越の(或いは、より正確に言えば、シンボルそのものの本性からくる超越の)シンボルになる。金銭のために「レベルを下げる」芸術家でさえ、金銭が彼にとって叙階の原理をあらわすのであれば、「観念的に」動機づけられている。たっぷりした余暇が高度な文化の発展には必要だとしばしば言われてきた。この発言は通常、量的な意味で解釈されている。必需品を生産するだけの社会の能力があれば、「人的労働」が生物学的、経済的に必要な仕事以外に向かうのが許されるのは間違いないところだからである。だが、向上心の動機である「神秘」を分析すると、「質」の要素が大きな誘因となっていることがわかる。生産力の法外な大きさは、経済的には不必要な作業に集中することを許す物理的条件を与える。しかし、真に平等主義的な社会(平等主義は現実の不平等の観念的な否定に過ぎないから、むしろ実際に平等な社会)において「純粋な」創造への誘因となりうるものがあるとすれば、特権としての余暇の観念、過去においては位階的構造から生じていた「神の如き」属性(余暇は奴隷とは相容れない条件であるから)が野心を駆り立てるものとなろう。

 

 しばしば芸術家は幼児的で「退行的」だと言われる。しかし、専制君主としての観衆の役割にも子供っぽい部分がある——幼児−観衆は恐らくはもっとも専制的なのである。(子供相手の女教師がかつて繰り返し見る悪夢について語ってくれた。その夢は、授業をしていると、生徒たちが揃って立ち上がり、教室を出て行くというものである。)ドジソンの場合(エンプソンの図式に従えば「不作法な恋人である子供」)、もてなす側は楽しませることによって専制的な幼児−観衆を遊戯的に罰することができた。彼の挑発的な社会的「神秘」をこの二重の目的に役立てることができた。宮廷作法としては、彼のコミュニケーションは、本質的に、性的であるにはあまりに「よそよそしい」ものである。それはある部分、社会的性質から来ている(洗練が粗野に含まれるといったグロテスクな逆転で表現されてはいるが、「上流階級」と平民として若者と老人との交渉が捉えられている)。しかし、<純粋な>修辞的動機は訴えのための訴えであって、その「絶対的要求」は象徴的なレベル以外でしか要求に応えない観衆に対してなにをなすべきか知らないだろう。

 

 幼児−観衆−専制君主の関係を実際的関係の領域に移し替えると、リベラルの子供礼賛がいかに「実質的な」不平等(実際に或いは不安として起こりうるどんな形の差別待遇だろうと)の感覚と関連して働くかが見て取れる。両親(「より低い」、「臣下」の階級にある)と子供(「自由」としての)との関係は、子供を自分たちと共にあり、かつ「上位の」階級と同一化する主要な属性を入れる容器とすることにある。子供を家庭の「専制君主」にして、それに従う両親の宮廷作法とは、自分たちが苦しめられている位階原理を間接的に、理想的な形であらわしている。自分たちのものでもあれば歓心を得ようとする高位の存在でもある子供は、位階的階梯の両端を同時に表しているのである。

 

 美徳の魔術が、こうした家庭的に作りかえられた公的秩序にも潜んでいる。(美徳の魔術ということで我々が思い浮かべているのは、ミルトンの「コマス」で純潔の力が野獣を征服したときのような、少なくとも比喩的には真実であるような力である。獣の野性が男性の凶暴な性的欲求をあらわし、女性の純潔が性的冷淡さをあらわしているなら、真の「純潔」は激しい「野性」の勢いをそぐことができよう。)「リベラルな」子供の扱い方に潜む魔術的部分とは、穏やかな作法によって子供に接する両親が自分たちも同じ扱いを受ける「価値がある」と考えることから生じる(単なる<模倣>、「美的な一貫性」を遵守することが魔術的「使用」に「先行している」にしても)。いずれにしろ、人は「両義性」をもつことになる。子供はその血肉においては「劣等性」をあらわしているが、同時に本来自分たちが示さねばならない「優位者」への服従を手に入れるのである。

 

 カーライルが道具とシンボルを同一視したことを思い返してみよう。彼は自分の説を正当化するのに比喩以上のものをもっていた。発明された道具が高度に発達するには、対応する言語の発達がなければ不可能である。より形式的に言うと、道具をつくるために使用する道具である思考は人間の「理性」に特殊なものであり、非象徴的なものからは二段階の隔たりがある。それは言葉に関する言葉(「思考についての思考」)の能力であり、近代の観念論者が「意識」から「自己意識」への決定的な段階として扱った「反省的な」働きである。

 

 動物の声と身振りを「事物についての言葉」、或いは状況についての言葉と考えることにはある正当性があるかもしれない。そうした模倣が文法、修辞、象徴の要素にあると言えるかもしれない。ある姿勢を示すものとしては象徴的で、威嚇や呼びかけとしては修辞的かもしれない。文法的な面から言えば、彼らはダンサーのように、過去と未来の時制を現在の行動に「実質的に」翻訳している。かくして、犬はよだれを垂らすことで「じき食べるだろう」と示し、三ぺん回ることで「食べていること」を示し、眠りにつくのである。しかし、(我々が誇っていいことだが)犬は自分の言葉について論じることはできないし、文法、修辞、象徴について語ることもできない。同様に、すべての動物は直接的にしか道具を使用しない。人間だけが二次的な意味で道具を使用している(海外の部局が、別の海外部局をつくるために使われるように)。かくして、テクノロジーは「合理性」の弁証法なしには不可能な類の直感と伝統に依存している。

 

 言語使用は、卑猥なしゃれの意味においてさえ道具使用に先行している(人間の動機を論ずるためには常にこうしたことも考慮されるべきである)。幼児における言語使用は性的能力の発生よりも何年も先行している(それゆえ、幼児期の性における「多形倒錯」的な性質は、明白で直接的な性的目的が発達する遙か以前に象徴と絡み合っている。そして、直接的な性的目的に発達したときには、「性的状況」だけでなく、それに先行していた象徴的実践へも適応しなければならないのである)。

 

 総じて、言葉と機械的な発明とは、諸道具(「武器」)のように、一緒に分類される面も多いのだが、また、区別されなければならない重要な点もある。人を「職人」と「聖職者」とに分けようとする試みは、この区別に基づいている。実際的なことと美的なこと(ブルジョアボヘミアン)の区別のもとでもある。かくして、<工作的人間>(道具使用)は<弁証法的人間>(言語使用)とは異なった源から来ているように思われる。しかし、複雑な文明化された振る舞いにおいては、この区別は曖昧である。聖職者は、世俗的な政治家、ジャーナリスト、金融業などとともに、しばしば非常に実際的な職業である。反対に、表面上実際的な振る舞いにも、常に、広い範囲にわたる象徴的要素が動機づけとして働いている。

 

 こうした考察は、言語的生産力(「合理性」や「人間の意識」の本性である)と経済的な「生産力」(人間の脳の働きによって発明され、言葉の助けを借りて伝えられた)との区別を可能にする。

 

 「人間」は人間外的な土壌から生じる。お望みなら、その源泉を「自然」、或いは「神的なもの」、或いは(スピノザのように)その両者だとしてもいい。いずれにしろ、人間が生じる場面は<究極的>である。この点において、「人格を越えたもの」であり、「言葉を越えたもの」でなければならない。というのも、それは、人格の原理、言語化の原理を含むからである。人格性と非人格性との区別は、言語的と非言語的との区別のように、科学的であり実際的であって、我々の関心が実際的であるときには正当化される。しかし、究極的考察の観点からすると、そこにはある<秩序>が存在しなければならない。第一に、人格以下の意味における「自然」がある。次に、観念が事物とは区別されるように、「非人格的な」自然とは区別される「人格的な」自然が存在する。しかし、究極的には、「全体的な」意味における自然が存在しなければならない。この意味における自然とは、「人格性」と「非人格性」とを包括するものであるから、「超人格的な」ものでなければならない。

 

 さて、道具の発明は、人格以下の自然の法則に従っているかぎり不可能なように、限定的な意味での場面の状況(「人間以下の」、人間的なもの、人格的なものが差し引かれたところに存在する自然)だけに関わっている場合にも不可能である。人格性や人間性の要素(動作主とその行為)は、自然の場面と発明される道具を必然的に仲介する二次的な条件である。人間が絶滅した後、たとえしばらくの間機械が、より良くかより悪くかはともかく、(超越の一様態として)我々を作り直すくらいのことをしたとしても、機械そのものを発明し続けることを誰も期待しはしまい。場面と媒体の間には必然的に人間という動作主が介入しなければならないことは、<工作的人間>の発明が人間の弁証法的働きの原動力となる所有と階級の区別を否応なく与えるにしても、「言葉」が「道具」に先行し、<弁証法的人間>のほうが<工作的人間>より根本的だと言うときに我々が心に抱いていたことである。

 

 人間の思考の根本として、毎日のようにもたらされるニュースを通じ、風聞だけで見知った人物にも同一化し、生活と思考の伝統を形づくるには実質の文法が必要である。そうした人物と「文法的に」そして「象徴的に」共通の実質をもっていると考えるとき(その人物は純粋に言語的な産物だが、自分と同じ利害関心をあらわしているとされる)、経済的な生産力で形成された所有と社会的身分の諸条件から、同一化への熱意を得ているのである。このより深遠な発達(言葉から道具へ、さらに所有された道具から生じる社会的「実質」をあらわす言葉への)は、言葉にまつわる論争の大本となっている(「冷戦」という表現は、そのよそよそしさによって古い人間には好印象を与えたのだが、不運なことに、より若い世代には「暖かい」、「熱い」戦争という観念をもたらし、最終的にはマルスとヴィーナスが一緒くたになった「実戦」へと向かうのである)。

 

 もしあなた方が言い張るなら、議論のために、自然が「超人格的」だという考えを捨て去ってもいい。「人格性」のようなものが人間の領域には存在しているという仮定に基づいて議論はなされている。だが、人格性を意識の流れや、分裂した下位人格、または「条件反射」、または身分や役割といった純粋に外的な要因からくるあらわれに分解してしまうと、本来的な核がなにも残らないように思われる。そこで、我々はより擁護しやすい立場まで後退することとなろう。つまり、自然は言語以上の存在であるに違いない。その全体において、言語的なものと非言語的なもの双方を含んでいる。「非言語的」土壌は言語的なものを「潜在的に」含んでいなければならず、さもないと、言語はそこから生じることができないのである。

 

 「人格以上」な自然についての議論は、こう守り、再構成でき、それで我々の目的にとっても十分である。「超人格的な」自然というのは弁証法の「自然な結論」なので、修辞に「おとり」としてあらわれざるを得ない思考の重要で究極的趨勢なのだと、ごく単純に言える。修辞的な訴えかけにおいては究極的「誤り」は究極的な「真理」と同じくらい重要である。どちらの場合も、修辞と弁証法との関係ゆえに、「あらゆる行動の超人格的な基盤である弁証法的証明」を考えることになろう。完璧な弁証法的対称をなして進む修辞より深く訴えかける表現はあり得ないからである。そうした対称を愛好する者のなかには、自分たちの神は無神論だと主張する者もいるかもしれないが、いずれにせよ、「神の存在の秩序だった必然性」が具体化されるとき、説得は「もっとも自由」で、もっとも「啓発的な」ものとなる。