ケネス・バーク『動機の修辞学』 59
しかしながら、「純粋な説得」についての議論は、神学の修辞にまで我々を導いたのであるが、「純粋な説得」そのものは「宗教的」説得と同じではないことを再び強調しておかねばならない。純粋な説得は具体性を取り去った亡霊のようなものである。しかし、宗教的説得の祝福と呪いは甚だしく血色が豊かで、血なまぐさくさえある。黙示録の切迫感を考えてみるがいい。どんな闘牛でさえあれほど血まみれではなく、どんな宗教裁判でさえあれほど恐怖をあおろうとはしない。「正義の名において判決は下され、戦争が行われる。」バビロンの堕落に与った者、「地上の商人たちが」「富ではち切れんばかりになる」まで、「飾り立て」、「快楽に満ちた生活をする」者たちには罰に継ぐ罰が与えられる。
黙示録のすべては十八章の「大バビロンが倒れた」という叫びを巡って転回しているのではないだろうか。そこには復讐の満足と混じり合った愛らしい哀悼の念がないだろうか。「ああ、大いなる都、強大な都バビロン。」注意深く十八章を読んでみるがいい。予言者が「第二の死」を宣告する都は驚くほどニューヨークの姿に似ている。悪臭の代わりに香水の香りが、雑音の代わりに音楽があることで、ニューヨークではなく、破滅が言祝がれる神秘なるバビロンとなるのである。
自称詩人やもと詩人たちが広告代理店や商業的雑誌のためにしているのと同じく、忌まわしい恐怖を聖人が人々に与えているのは確かである。(もと詩人たちに文学的行為として残っているのは初版や稀覯本の収集だけである。彼らはページの切っていない本を好む。処女崇拝の遠い一変種として、青年期の宗教性の一斑が残っているように思われるからである。しかしながら、初版を集めるということは、禁じられた処女性を敬虔に受け入れることでもあり、「犠牲的」行為と「取得」とを巧妙に結びつけ、宗教的関心が美的かついい商売として口当たりよく復活されてもいるのである。)
明らかにバビロンの罪は大都市には典型的なものに過ぎない。高い場所で高価な飲みものを飲み、ラジオからはダンス音楽が流れ、女性は客たちが出払ったあと、仕事場で有力者を喜ばせる一夜を過ごそうと密かに思いめぐらしている、ペントハウスのパーティーの浮かれた気分と同じである。神秘は性的なものに還元されており、こうした翻訳は、男性に不安な、機械に囲まれた愛が供される現在と違って、神聖な売春が行われていた当時にあってはより劇的な刺激をもたらしただろう。「姦淫」はより豊かな意味合いをもっており、性的欲望を満足させるだけでなく、聖書の神と敵対する神へ敬虔な姿勢を示すことでもあった。このテーマは、ティアティラの教会メンバーを甘言で騙し、「姦淫をなし、偶像に献げられた生け贄を食べた」「イゼベルなる女」への言及によって既に導入されていた。かくして、娼婦としてバビロンに身を献げることは、神であるバビロンに身を献げることであり、聖書と敵対する動機秩序の究極的段階に足を踏み入れることである。それは性的に表現された「崇敬」であり、社会的崇敬と宗教的崇敬とが同一視され、自らの帝国を神と呼んでいた人々のなかでの崇敬なのである。
だが、呪われた者たちの苦しみが詳述されていくに従い、我々は不思議に思い始める。我々が語ってきた、裕福な広告業者や大都市の聖職者たる罪人たちは神によるかすかな雷鳴が響き渡るや心から後悔するはずである。しかし、黙示録の悪人たちは、天界を拒否することにおいても堂々たるものだと言える。復讐者の熟練した手さばきによって、服すべき恐怖と戦慄が一つ一つ積み重なっていき、視覚的にも壮麗な劇的演出があるにもかかわらず(例えば、七つの封印が破られ、その六番目までは速やかに進むのだが、作者は六番目と七番目の間にまるまる一章を入れて、第七の封印が解かれたことによる七番目の災厄への期待を高めるのである)、人間のか弱さでは、すべてを創造した全能の主に逆襲することなどまったく不可能であるにもかかわらず、彼らは自分たちの冒涜行為に固執する。
修辞的に言えば、彼らの邪悪さが責め苦が続くことを正当化している。彼らが許しを請うことにでもなれば、宇宙規模の正義について限られた理解しかしていない我々でも、主が彼らに平安をもたらすことを願いたくなるだろう。しかし、身を焼かれている間にも冒涜を続けることによって、彼らは更なる調理が必要なものとされる。象徴的に言えば、聖人も彼らのうちに自分の抵抗力を読み取っていた。神への証しとして自分が経験するであろう苦しみを知っていた。無意識の寛大さによって、彼はバビロンの宣伝屋やニュースキャスターなら同じように猛烈な熱意と行動で証明したであろう荘厳なる動機づけを敵に与えている。
だが、ここではもう一つの点に注目すべきである。報酬と罰、怒りの神の賛美(新約のなかでもっとも旧約的な部分)といった終末論的な構図のなかで、バビロンの代表者たちは異国にあって脅威を与える秩序のメンバーであることが理解される。十八章で理解されるところによれば、彼らの社会的崇敬は、天上の神に向けた崇敬と比較すれば脆弱ではあるが、我々の産業と金融とが結びついた社会での崇敬と同じくらい偉大なものではあるのである。つまり、都市というのは、そこに住む個々人ではなく、その<叙階>によって脅威だった。敵対する叙階のメンバーとして穏やかなバビロンの人間がしていることを見たとき、熱烈なる聖人は彼らが冒涜行為に固執していると考えた。バビロンが崩壊し、ニューエルサレムがそこに建設されるまで、自分たちの秩序に身を献げていたのだから、ある意味固執していたと言えるからである。
我々は最頂部にあらわれた位階原理について語ってきた。しかし、全体的な本質をあらわにする神話では特に、最下部で「牧歌的に」あらわされることも可能である。或いは、全体をもっとも効果的に圧縮するには両者の観念を含んだイメージ、血を流す生け贄の羊でありながら、あらゆる者を従える勝利者でもあるような自己犠牲的な王がいいだろう。そこでは、叙階が、同じ段階の最高と最下位を結びつけることによってあらわされる。
宗教的表現の諸例を見ると、聖アウグスティヌスが異教的デカダンスの「第二の詭弁法」として開拓した誇示的な名人技と同じく、「純粋な説得」の特徴が認められることは間違いない。また、純粋な説得の対象として考えると、ダンテのベアトリスは理想化された女性ではなく、むしろ絶対的観衆が具体化されたものである。同じように、祈りは、利害について考えることなく、愛のみによって究極的な観衆の観念に純粋に求愛し、普遍的な称讃を献げているのだとも言える。
だが、いかなる物質世界もそうした動機によって動くことはあり得ないし、動機の理論における正真正銘の超自然的世界であってさえもそうである。「純粋な説得」は、不可抗力に動かない物体があり得ないように、生物学的に実行され得ないものである。エリオットなら、諸動機の「死点」と呼んだであろう。それはサンタヤナの超越的懐疑主義の条件でもあり、振り子はぶら下がるのではなく、支点のちょうど真上で均衡を保つのである。それは、心収縮から心拡張へ永続化された方向の変化である。心理学的には、相反する衝動の葛藤に関係する。哲学的には、正確に等距離にある二つの干し草の山の間で飢え死にした、極度に理性的なビュリダンのロバの苦境を示唆している。大なたが振り上げられ、まさに落ちんとするときの静止の瞬間である。それは仮死状態のように居心地の悪いものである。
神学的、政治的には、新たな説への転向に先立つ耐え難い不決断の状態である。それほど過酷ではない状況で言えば、通りに降りていく前に、窓に立ち止まる瞬間である。※
*1:※最後の文章は本来、『書物戦争』に関する部分に移行するためのものだった。それについてはまた別の著作をまたねばならない。