ブラッドリー『仮象と実在』 181

[感覚の世界、その正当な場所。単なる感覚も単なる思考も実在ではないこと。]

 

 それは、感覚―現前性にまさしく位置づけられるような基準でしかない。我々が二つの甚だしい対立する間違いとして避けられるような検証を受け入れるものでしかない。感覚-現前性を知られる現実ととる、あるいはとろうとする見解が存在する。他方において、時間における現象を無関係なものと考えようとする見解も存在する。それは非感覚的な思考の世界に現実を見いだそうとする。どちらも結局のところ、同じような虚偽の結果に導かれる間違いであり、どちらも誤った原理を含み、またそれに根ざしている。最終的には、どちらも現実全体を無味乾燥な切り刻まれた断片であり、結果的に内的にちぐはぐなものとして受け取らざるを得なくなろう。どちらも事物の本性についての一にして同じ誤りに基づいている。我々は実在を観念と存在に分けることは、現象の世界においてのみ許されることをすでに見た。絶対においては、そうした区別は融合し、消え去らねばならない。しかし、そうした側面が消え去ることは、また、その主張が完全に満足させられていることを意味する、とも主張した。それゆえ、細部にわたってどうと指摘はできないが、どちらの側も全体においては対立するものと一緒になるはずである。思考と感覚はどちらも他方に補うものを見いだす。現実が現象のこれら二つの面のどちらか一方から成り立ちうるという原理は、それゆえ、根本的な誤りとして却けられる。

 

 この幹から生じる二つの錯覚をより近しく考えてみよう。第一に、この根拠からすると、出来事の系列を知覚するのは、本質的に、外的であれ内的であれ、単なる感覚であり、それが現実である。あるいは、それには及ばないまでも、実在であることは知覚可能であるといまだに論じられている。つまり、時間的な系列における現象が必然的なものであるので(1)――その前提は正しい――この真理から間違った結論が無意識に導きだされる。あらわれることは、つねにいわば、人間における現象を意味するよう解釈される。そして、身体的に与えられ、系列の一片としてあらわになり得ないものでないなら、何ものも実在であることを許されない。しかし、この結論は根本的に間違っている。すでに明らかなように、知覚にはそれ自身のなかにある性格を持ってはいない。事実であるためには、それぞれの現前は同一性を、あるいは、別の言葉で言えば、自己の超越を明らかにせねばならない。そして、そのようなものとしてある瞬間にあらわれるものは、自己矛盾している。別の側面から言えば、あらわれることのできる性格が少なければ少ないほど――その必然的なあらわれが時間や空間において狭められれば狭められるほどより多くの拡張と内的な調和が可能になる。そして、すでに見たように、こうした二つの特徴は、現実のしるしである。

 

 

*1

 

 第二の間違いも第一のものに似ている。再び、現象が誤って、感覚への現前と同一視される。再び、間違った結論がこの根拠から引きだされる。しかし、間違いは今度は反対の方向へ進む。最高度の諸原理は明らかかつ明白に、感覚に知覚可能なものではなく、純粋な思考の世界に住み、そこに存在するものととられる。そしてこの別領域が、多かれ少なかれ整合性をもち、唯一の現実を形成しているものとされる。しかし、出来事の系列を完全に排除してしまうなら、この思考の世界は外的には制限され、内的には不調和なものである。更には、我々が宇宙を我々の単なる観念的抽象によって特徴づけ、それを知覚にあらわれる実在の内容に付与するなら、混乱はより明かなものとなる。感覚-あらわれが真理とは異質なものとして放棄されてしまうので、それは結果的に放免され、完全に非従属的なものとなる。その具体的な性格は明らかに確定されており、我々が実在を性質づけようとしている思考がどんなものであれ、外側から影響を与える。しかし、感覚と思考についてのあらゆる知覚との融合いたるところにある事実のあらわれと観念性との共存――それは真理のひとつの基礎である。そしてこのことに保留の区別として、存在をもつということは存在するという意味である必要はないこと、時間において実現するものは常になんらかの感覚によって可視的なものとなるわけではないことをつけ加えるとき、最悪の間違いからは身を守ることになる。このことからすぐに我々は真理と実在の程度に関する原理へと導かれる。我々の世界と生はもはや気ままにできあがっているとみる必要はない。それらは事実と空想の二つの半休で構成されている必要はない。絶対的なものが、比較と価値が不在の混沌のなかで見境なく姿をあらわす必要もない。我々は高次なものと低次なものとの区別に合理的な意味づけを与えることができる。(1)現われないものは非実在的であり、より完全にあらわれるものはより実在性を示すことに我々は確信を深めるが、その原理は十分なものではなく、半分が述べられたに過ぎない。というのも、感覚の領域で個別に比較を許す形で存在できるということは、その限りにおいてはいずこにおいても、存在の尺度のなかでの降級を示すしるしであるからである。

 

   *2

    

 あるいはより抽象的ではない問題を扱い、時間的存在の真の立場を示そうとすることもできる。既に見たように、それは実在ではないが、他方において、我々の経験のなかで本質的なひとつの要素である。そして、事実のない単なる思考が実在であり得る、あるいは真理に達しうると想定することは明らかに馬鹿げている。出来事の系列は、あらゆる観念内容の源泉となるものなので、我々の知識にとって必要であることは疑いない。(1)おおざっぱではあるが十分な適確さで、知覚から得られるものを除いては、ものであろうが関係であろうが、思考にはなにも存在しないと言える。第二には、空間と時間の現象について体系を打ち立てるには、現前するものからはじめるしかない。確かに(第十八章で)、我々はどんな統合物といえど、相関的で、不完全で、部分的であることを見た。しかし、にもかかわらず、実際にある現前を根拠にして感覚世界を打ち立てることは、あらゆる知識の条件である。たとえ時間的なものであろうと、あらゆるものが、空間や時間の我々のひとつの「実在の」秩序に位置づけられるというのは真ではない。しかし、間接的であれ直接的であれ、知られているあらゆる要素が出来事の順列に関連づけられているはずだということ、少なくとも、ある意味においては、そこにあらわれているはずである。結局のところ、真理の検証は現前する事実のなかにあると言える。

 

   

*3

 

 ここで我々は深刻な間違いを避けるよう努めよう。存在なしには思考は不完全であることを我々は見た。しかしこのことは、存在なしの単なる思考そのものが十分完全なものであり、存在は異質であるが必要な補完物としてつけ加えられていることを意味しているのではない。というのも、何かが完全であるなら、それは外側からの付加物によってなんら得るものがないという原理を既に見いだしているからである。そして、特にここでは、現にある事実を追い求めることにおいて、思考の最初の対象はまさしく自らの観念的な内容を拡大し、調和させることにある。その理由は、我々がそのことを考えるやいなや明らかになる。銀貨は単に考えられたり想像されたときには、抽象的で特質をもっていない。しかし、空間において照合されるや、諸事物の巨大な構築物のなかに場所を得て確定される。そして、こうした諸関係の具体的な文脈がまったく内的内容物を性質づけないこと、この性質づけが思考と無関係であると想定することは、まったく擁護しがたい。

 

 単なる思考は、存在とは異なる観念的内容を意味するだろう。しかし(既に学んだように)、ある思考をもつとは、常に、我々の意志に反してさえ、実在と関連づけることである。それゆえ、実在と関連してある我々の観念は、また、時間における出来事の現象的な体系にも関連する。関係しているが、それは内的な秩序、その体系の配列とはいかなる関連もない。しかしこのことは、単なる観念はまったく外部からの体系によって決定されることを意味する。それゆえそれは内的に浸透し、混沌とした諸関係を通じてその内容に強いられる偶然性によって破壊されるだろう。この側面から考えるなら、現実にそれだけの思考は、いわゆる感覚にまつわる偶然の事実より低い段階にあると言えるだろう。というのも、後者の場合、我々は少なくとも文脈とのなんらかの内的関係をもち、どれほど不純なものだろうが、普遍との固定した関係を既に持っているからである。

*1:

(1)第十九章と二十三章と比較のこと。

 

*2: (1)価値評価において快と苦痛が伴うという立場は、第三十章で論じられるだろう。

*3:

 (1)その正確な性格においては、もちろん、系列は観念的な構築物である。しかし、ここではそれを無視できる。