ブラッドリー『仮象と実在』 182

[より真であるもの、より実在であるものはより多くあらわれるはずである。しかし、どんな意味においてか。]

 

 あらゆる実在は出来事の世界であらわになるはずである。そしてそうした秩序、あるいは諸秩序のなかで、自らと異質な部分が最も少ないものがもっとも実在的である。それゆえ、他の条件が等しいならば、時間的な体系に確たる位置を占めている、そしてそれに関連しているものが実在の程度を増すことになる。というのも、いずれにしろ決定づけられるに違いない他の諸要素との関係は、少なくともある範囲において、内的にも決定づけるからである。その限りにおいて、想像されたものは知覚可能な事実よりは貧しいものに違いない。別の言葉で言うなら、それはより広範囲にわたる異質で破壊的な諸関係によって性質づけられざるを得ない。私は「他の条件が等しいならば」ということを強調したが、この制限は重要である。単一の感覚事実よりより高次で、より真であり、はっきりより実在的な想像が存在する。このことは古くからの区別に我々を引き戻すことになる。あらゆる真理はあらわれねばならず、存在を従えていなければならぬ。しかしこのあらわれは、まさしく所与の感覚-知覚に現前するものと同じではない。科学の一般的原理にこのことはすぐ見てとれるだろう。また、芸術や宗教に必要なあらわれについても、明らかに同じ結論になる。いかなる場合でも、永遠の経験は空間や時間の系列のなかに入ることはできない。或いはその系列に不正に入り、多様な仕方でその本質に矛盾することを示すことになる。事物の中枢部に近づくことは、その末端部を支配することである。しかし、非実体的で一時的な表現様式、不完全で部分的な記号を通じてしかそれはあらわれることはない。なにものも、実現され堅実な道徳的意志でさえ、時間において存在するもののようには実在ではなく、本質的な性格のもとにあらわれ得ない。しかし、そうしたあらゆるあらわれが合わさった究極的な実在は、最終的には観念と存在とが現実に同一となる。我々の世界においては、個別的なものがより実在的で真である。というのもその限界のなかにより広い絶対的なものの領域を含んでおり、より強い自己充足性をもっているからである。あるいは、別の言い方をすれば、そうした要素と絶対的なものとの間隔はより小さなものである。我々はこの高次の要素を完全な実在にするために、その特殊な本性をさほど変更することも、破壊する必要もない。