ケネス・バーク『動機の修辞学』 61

...   2.ジェイムズにおけるイメージの「社会的評価」

 

 『ポイントン邸の蒐集品』のジェイムズの序文には、「社会神秘的解釈」による批評一般の方法の根拠となる発言がある。だが、我々はいまだ個物の位階的価値をあらわにする正確な手順を手にしているわけではない。

 

 更なる一歩は、オースティン・ウォーレンの『秩序への渇望』にあるヘンリー・ジェイムズについての優れたエッセイの一節を考察し適応することで示すことができる。ちなみに、この本は全体として大いに我々の目的に適うもので、主として、宗教的、世俗的双方における位階を扱っている。ほとんどすべてのページにおいて、ウォーレン氏は我々のためになる考察を巡らせている。例えば、カフカにおける官僚制のテーマについての言及。或いは、イエーツにとって占星術は、「人間と自然との間に、そして、個人と国家との不明確な決定論に栄誉ある連関をもたらす」ものだったという示唆。或いは、社会を「驚異」と見なすポープについての分析。或いは、「ジェイムズの若さについての性格学(恐らくはその神聖化)」についての言及。

 

 ジェイムズの後期の小説についての議論は、まさしく我々が必要とする架橋的な役目を果たしている。我々の論点をはっきりさせるために、幾つかの部分を貼り合わせることにしよう。

 

ジェイムズ的な神話の等価物は・・・隠喩のなかにあり・・・それは『黄金の盃』と『象牙の塔』でもっとも豊かにあらわれる・・・想起されるイメージが隠喩となる。長年の間ジェイムズは勤勉にフランスとイタリアを旅し、熱心に聖堂、城、回廊についてメモを取ってきた。人々は彼に自分の仕事を思い起こさせ、ほぼ例外なく彼は、そこに移しかえられた自分の小説のヒロインを連想したのである。・・・同じように、男性の登場人物を絵画や彫刻に移しかえるには障碍があった。しかし、公爵(結局それは、芸術作品として購入され、ルイーニを称賛する同じ趣味をもつ義理の父親に称賛されることになる)は芸術の歴史なしにはほとんど記述できないのである。男性の優れた実利性と重量感をあらわすために、ジェイムズは建築物のなかに彼を描きだす。・・・こうした連想の目的は、明らかに栄誉を授けんとしている。彼らは高次の神聖なる「文化・・・」の世界に属している。「社会的な下層を・・・決して見たことがない」公爵とは異なり、ジェイムズは「ノートを取りながら」、動物園や水族館やサーカスを注意深く観察した。遠く離れたアメリカでぎゅうぎゅう詰めになった「ボーイ」たちを見たことを覚えている。・・・ニューサム夫人は、想像力がないために堂々としている。ゆったりと座り、<存在している>——弾力性のない一事実である。他の者は、想像力があるために、調整し、適応しなければならない。・・・俗物たちが剛直で堂々としており、金属的(想像力がない)なものと「想像される」なら、光の子らは柔軟性をもって平衡を保つものである。彼らは、公演で永続性と軽快さを伴う芸当を見せる、華やかな儀式の担い手であるバレー・ダンサーの思い出に要約される。・・・『過去の意味』で、もっともよく「想像力された」関係は、内省的なアメリカ人であるラルフ・ペンデルと彼に対立する無遠慮で堂々とした外向的なペリー・ミッドモアである。・・・ペリーには「洗練」されていないという利点がある。彼は、動物のように、本能を信じ、「森の動物が罠のにおいをかぎつけるように」如才なく異質なものの存在をかぎつけるのである、等々。

 

 

 

 多くのページを費やして、ウォーレン氏はジェイムズが登場人物のそれぞれに割り当てた個々のイメージを示している。この一覧を見ると、我々の目的には、<方向を逆転する必要がある>のがわかる。ジェイムズはあるイメージを用いて、社会的道徳的身分の明確な登場人物を作り上げるが、我々はその過程を逆転して、身分をイメージの位階的な位置づけとして解釈することができる。我々は、かくして、ジェイムズが等価物として扱った道徳的社会的位階と自然的人工的対象とを結びつける橋(或いは「架橋性」)を手にすることになる。こうして、ジェイムズがあるイメージのなかに込めた位階的判断を曖昧なところなく方法的にあらわにすることができる。

 

 かくして、我々は諸対象の「位階的内容」を明らかにし、芸術における認知(特有の共鳴が伴う)と純粋に経験的、心理学的な認知との相違を示す方法を完成することができるのである。