ケネス・バーク『動機の修辞学』 62

...   3.神の修辞的な名前

 

 しかし、ある条件に従えば、人間は社会的身分による曖昧な美化の背後で、或いはそれを越えて、究極的な存在の土壌と真に神秘的な交感をすることができると信じている人間についてはどうなのだろうか。自然の対象が天上の位階のしるしをもち、その動機と輝きを受け継いでいるという信念を受け入れる余地はあるのだろうか。

 

 「幼児期」の(或いは言葉をもたない)身体と精神にあっては、事物の言葉を欠いた究極的な土壌と直接的にであれ間接的にであれ、交感していることは考えられる。だが、そうした神秘的「啓示」の可能性を認めるとしても、その「神性」のどれだけが神経医学的に、どれだけが言語学的に、どれだけが「社会神秘的解釈」によって説明できるものか自ら問うてみるべきである。この三つの道筋によって可能な限り考えてみるべきだろう。神が、真に超越的なものであるなら、いまだ考えられたことのない方向が探求されることとなろう。創造の謎、無限大と無限小の限りなさ、愛、忍耐、喜び——恐らく、我々のほとんどにとってはこうしたものだけで十分なしるしとなり得よう。しかし、神秘家にとっては、それらが神であり、実際に神とともにあるという確信を得ない限り満足がいかないのである。

 

 しかしながら、彼らの主張を認めたとしても、神秘的経験をできる限り自然主義的な言葉で考えるべきだということは変わらない。というのも、神秘家も身体をもつからである。公的には<真実の>神秘的人格とは認められない人格が宿る身体でも、「真の」神秘家に似た自然のしるしがあらわれることがある。そうした重なりあう部分に真の啓示があるとは思われない。それゆえ、それを自然な動機と超自然的動機の正確な<区別>の基礎として、真の啓示を信じる者であっても、できる限り自然主義的な説明を求めるべきなのである。

 

 しかし、我々の目的とより関連の深いもう一つの考え方がある。たとえ自然的動機と超自然的動機との区別を認めたとしても、修辞の力はむしろその二つの秩序の<混同>にあるという厳しい事実である。『弁論術』のなかでアリストテレスは、無鉄砲を勇気があると言い、臆病を慎重と言う場合のように、いかに我々が悪徳に最も近い美徳でもって人を飾り立てるかを示している。政治的な道具として宗教を修辞的に用いることは、こうした両義性に基づいている。聖職者が問題のある党派や原因を超越的秩序と同一視する場合は問うまでもない。或いは、ラジオでよくあるジャーナリストの決まり文句は、攻撃する対象は悪魔であり、もっとも無遠慮な帝国主義者でも我々の野心を満たすようなら「神聖」であり、より利益を上げるための世界規模の拡張は勇敢なる神の軍隊と下劣な悪の群れとの聖戦として表現される。そのすべてに見られる俗悪さは、彼がその声の出る機械と同じくらい精神的であることを証明している。機械の一機能として雇われ、仕事をしているのである。宗教が主として憎悪しか意味しない者にとっては、挑発に応じるよう強要される必要もない。

 

 多くの「神−語」が人間の思考に常に点在するために、そうした修辞の多くは深く真正なものとなる。アレオパゴスのディオニュシオスは『神聖なる名について』を書いた。<修辞学必携の>手引き書として使われるべきなのは、明言されているものもされていないものもあるが、数多くある神の同義語をあげている部分、或いは、「神」を「神−語」一般にまで拡張しているところにある。手当たり次第にあげてみよう。

 

 神:あらゆる可能性の根拠、実体、自然、歴史、社会、必然性、精神、意識、自己意識、真理、<土地の守護神>、作用因。名称の名称、包括的動機づけ(そこから、究極的一般化、還元、抽象)、言語の原理或いは弁証法(ロゴス)、観念、中心、周縁、頂点、基底(すべて一緒が望ましい)、分類不可能なもの、整理され得ないもの、雑録、「すべて」。位階の原理、位階の原理を吹き込まれた人物、事物、状況(それゆえ、君主、貴族、人民はそれぞれ様々な位階的秩序を要約し代表している)、権威、或いは権威への抵抗、理性、崇敬の対象や源(「閣下」という呼びかけに含まれる崇拝)、恐れ、愛、欲望、正義、所有の原理、特権、身分、親であること、或いは親子関係の原理、家族的社会的結合の原理(「実質の共有」と「コミュニケーション」)、権威、権威への対抗、国家、「優越人種」、都市。職業、天職、そこから、科学、芸術、テクノロジー、ビジネス、そこから、実験室、仕事場、不動産、会計課、金銭、商略。(プロテスタントが世俗的な労働における宗教的動機を強調することは、二つの秩序の橋かけとして顕著なものである。)行動の原理、そこから、「パーソナリティ」(「人格を越えたもの」に根ざす)、理想、計画、目的、最終因、魂、自由(そこから自由市場)、良心、義務、責務、善、したいことをするための根拠、誰かがしたいことに対する反対、実現(そこから「願望の実現」、そこから、願望、そこから、努力、そこから、実現の失敗、そこから、欲求不満を補償する称号)、休息、行動の終わり、美、普遍的動詞状形容詞(なすべきことの最大限の普遍化であり、役割に、それゆえ位階に近い意味をもつ)。死(救いや不死という好ましい言葉で語られる)、行動の「完成」はその「死」や「終結」で、物事の終結がその完成である限り、死は行動に関係する。(ピコによる終結、死としてのteleutein参照。)無意識、眠り、潜在的なもの、表現されないもの、表現されるべきもの、分節されないもの、幼児期、直感、「想像力」、合理性を越えたもの、狂気、神秘的献身として経験される神経症的強迫(服従の敬虔さに不服従の敬虔さ)、自然な動機(非言語、そこから「非合理」、栄養摂取、性、排泄物、生殖)、自然現象(それにあった精神状態を含む)、火、雷、電気、自然災害、山、平野、海。祈り(最後の訴えかけとしての)、一般化された観衆の原理、純粋な説得。再生の原理、そこから、変化或いは変化の奥にある基層の原理。偽装された「悪」。自ら求める栄誉。極端な正義を求めるスローガン。「無」(象徴的に言えば、「無」は実在というよりは弁証法的なもので、なにかと等しいものだという保留がつく)。対立するものの衝突、対立の解決、感じられてはいたが明確に区別されてはいなかった多様な動機の総合(神によるキリストという神−人間の橋であり、それによって神は犠牲者と勝利者を同一化できる)。

 

 ローマ人はある形容詞を取り、それを抽象的な名詞に変えさえすれば神を手に入れられると知っていた。(名詞は反復動詞の意味合いを含んでいることをつけ加えるべきだろう。)また、神のある属性を切り離し、別の神的な抽象としてたてることもあった。信義の女神、自由の女神勝利の女神、徳の神、幸運の女神は「抽象的な神の性質、形容詞的な第三名と密接な関係をもつ例」である。(『宗教と倫理の百科事典』、「擬人化」の項。)ターレス、「世界は神々で満ちている」。カフカの『城』、「最低限の権威といえど全体を含んではいないだろうか」。

 

 詩人のイメージは「謎めいた形で」、位階の精神が吹き込まれている。或いは、キリスト教神話の神−人間や、カーライルの衣装や、キーツギリシャの壺のように、二つの秩序に橋を架ける「架橋」を可能にする。