ブラッドリー『仮象と実在』 184

[見えざる自然と心的な傾向。]

 

 このことから、いくつかの問題の考察に進むことができる。すでに見たように(第二十二章)、物理的世界の諸部分は存在し、我々にとっては思考という形でのみ存在した。しかし、また、絶対においては、あらゆる有限な自己の内容は融合し、それら思考-存在は何らかの形で、感覚と再び結び合わなければならない。同じ結論は心的な傾向においても保たれた(第二十三章)。それらは固有の性格においては、思考の世界以外に存在を持たない。というのも、すでに見たように、それらは条件的なものだからである。そして、条件的なもの自体は現実の存在を持たない。しかし、再びここでも、観念は――その詳細を言えないとしても――全体のなかに補完物を見いだすはずである。この別側面からの付加によって、それらは具体的な実在の部分となろう。

 

 おそらくこの章は、これらの点をより明確にする助けとなる。というのも、完全なものとなり、それによって実在となった観念的な諸条件はそれ自らを超越しなければならないからである。それらは単なる思考の世界を超えなければならない。そして第二に我々が見たのは、あらゆる観念はある程度の真理と実在を持たねばならないということである。観念的内容は存在の領域にあらわれねばならない。そしてそれがあらわれることができず、場所を占めることができないのでない限り、それを非実在と見なす権利はない。この原理を魂の可能性と自然の見えざる部分に当てはめることもできよう。前者は適切に存在できていないが、後者は(我々の見る限り)、確かにそう見る必要はない。どちらもあらわれることはできないと考えることはできる。しかし、それを認めることは(いま学んだように)、実在であるという主張を弱めるものではない。そして、我々の基準を適用すると、実在の量はそれぞれが宇宙において持つ影響力と意味の重要性によるだろう。