ケネス・バーク『動機の修辞学』 63

...   4.「山登りの意味の拡がり」

 

 アクイナスは、信仰の対象は二つの方向において考えることができると言っている(dupliciter)。(1)信じられるものの側面から(ex parte ipsius rei crecditae)。ここでは、信仰の対象は単純である(aliquid incomplexum)。(2)信じる者の側面から(ex parte credentis)。ここでは、信仰の対象は複雑である(aliquid complexum)。詩のシンボルにこの考え方を適用すると、「複雑化されていない」シンボル(単純なシンボル)は<批評される側から>捉えれば、容易に多様な動機の要素に分解することができるということになる。

 

 この問題の多様な帰結は象徴の主題のもと研究した方がいいだろう。ここでは、修辞的同一化の「位階的原理」を強調するために、山登りという行為およびそれに関連するイメージがどのような意味合いをもてるか考えてみよう(山はある種の静的な上昇で、舞台装置に固定された行為でもあり得る)。

 

 第一に、純粋に「運動感覚的な」側面がある。昇っている者に経験される高さ(或いは深さ)の意味合いは、努力であり爽快感である。また、コールリッジが記しているような(『アニマ・ポエタエ』)、山並みに眼を走らせているときの満足感が示す「感情移入的な」側面もある。

 

 山並に沿って旅をすること。数年前、この感覚をワーズワースに伝えようとしたことがある。ケジック渓谷の素晴らしいこと。私の魂は広い渓谷の上に横たわり休らっているかのようである。行動と言えるだろうか。凧のように頂上に放たれ、シャモア羚羊のように尾根づたいを走るのである——或いは、壁や狭い囲いにそって道を駆け回る少年のように。

 

 

 同じくコールリッジが書きとめたメモにはこうある。

 

 酔っぱらいがソファに寝転がり、のびをし、あくびをしてこう叫ぶ、「<これこそが労働というのんだ>」と。

 

 

 

 「これこそが労働というもんだ」。二つの文章を一緒にすると、純粋に想像的な行為のもたらす幸福が見て取れないだろうか。実質のパラドックスによって、巨大な山への理想的な同一化は多大なる努力という想像的な観念と、努力をまったく欠いた横着さが一致する「契機」を与えてくれる。

 

 アヘンのもたらす幸福感によってより悪化したコールリッジの熱を帯びた「衝動」は、特にこうした、身体的な束縛はないが、思い描かれた場面の巨大さと重量感は無限であるようなものについて、敏感に反応させたのだろう。



 この純粋に運動感覚的な魅力に近くはあるが、登山家の登頂には明らかに他の動機も含まれている。我々はそれを「ファウスト的な」魅力として扱うべきだろう。身体的な危険や力の行使も含まれているが、「神秘的解釈」、或いは「社会神秘的解釈」の説明が必要な象徴的要素が含まれているように思われる。山登りの記述にほとんど神秘的とも言えるものが読み取れるのは、身体的な働きとそれに対応する精神状態を含む行為のなかには、「詩大全」のような形で、山登りの象徴の様々な要素が仮定され数え上げられるからである。象徴的行為としての山登りは呼びかけに対する答えとしてなされる。そのままある「姿勢」を実行に移すことであり(実際に誰かを殺すことによって、殺人において「詩を行う」場合のように)、その動機はジイド的な犯罪のように完全に「美的な」もの(功利的、実際的とは正反対な)である。



 精神分析学とごく一般的な言葉づかいは、性的な意味合いの山登りがあることを思い起こさせる。そのもっとも途方もない形は、ヴェーヌスベルクにある(そのままラテン語に翻訳すると、「ヴェーヌスベルク」は「ヴィーナスの恥丘」となろう)。昇ったり飛んだりする夢はしばしば性的オルガスムへ向かっていることを示すが、「J・アルフレッド・ピーコックの愛の歌」では臆病な求愛者が階段で<躊躇っている>。そのテーマは「ある婦人の肖像」では皮肉な形で戻ってくる。

 

不安な気持ちなどまったくもたず

私は階段を上り、扉の取っ手を回す

両手両膝をついて山登りしたかのように感じている。

 

 

 より深い動機づけが含まれている場合でさえ、性的痕跡が見て取れるようである。例えば、ヴェルギリウスがダンテに『煉獄編』の第四歌で説明しているように、煉獄の山は高く上がれば上がるほど昇るのが容易になり、船で川下りしているかのようである(come a seconda giuso andar per nave)。ちなみに、この比喩は、詩人の心の状態をあらわし、夢で動くシェリーの魔術的な船(「アラストール」)をどこに位置づけ、ダンテがリアリスティックに描いた厳しい階梯で、観念的で夢想的な動機が<始まる>のはどこなのか示唆してくれる。

 

 『おそれとおののき』の英語版において、ウォルター・ローリーはキルケゴールの『日記』から、この「弁証法的叙情詩」が書かれていたときの状態を引用している。彼は「怠惰に」シャワーポンプを動かしていたのだが、「紐を引っ張った途端、観念が奔流となって襲いかかってきたのである」(「現代的便宜」が行き渡り、水をくみ上げることなく流すのが当然だと、シャワーを使うのにあらかじめ一仕事する必要もないので、この比喩の十全な意味合いは失われてしまった)。「怠惰に」というのは正確な語ではないようだが、いっぱいに水をためてそれを流す段階にくるまでは自分のしていることにさして気を留めないということだろう。



 エロティックな山登りというモチーフと分かちがたく絡み合っているのが、母性的な山というテーマである。母なる大地と同じように、親をあらわす山である。ホーソンの「巨大な石の顔」は、それが父親から来る場合もあることを示している。そのイメージは、大人に抱かれていた幼児期の経験からきていることもあり得る。

 

 ボードレールソネット「巨大な女」は、山というシンボルの近親相姦的な両義性を示す最大の例である。「巨大な女性」とともに生きるという奇抜な比喩において、詩人は恋人でありかつ子供である。「女王の足下にいる官能的な猫のように」彼女を見上げ、その心臓が暗く燃えさかっていないかと「霧に煙った眼を」覗きこみ、「のんびりと彼女の壮大なる曲線」を走りまわるのである。彼女がけだるげに田舎で横たわるときには、巨大な膝をよじ登り、「山の麓に平和にたたずむ村のように」胸の陰で眠るのである。

 

 こう考えると、ヴェーヌスベルクには、シェイクスピアの詩のヴィーナスと同一視されるような両義性が含まれているように思われる。



 一般的用法には、「よじ登る者=立身出世主義者」という語と同じく、物質的利益や社会的出世という意味合いも含まれている。「登り調子」と「落ち目」との間には残酷でごく一般的な区別がある。F・D・ルーズベルト政権のとき、上官への忠誠が認められ、名目上は高い地位でいい給金が払われるが、活動する場もなく、権限のない部署にまわされることが「二階に蹴り上げられる」と言われ、巧妙なやり方で一般化されるに至った。

 

 ジミー・デュラントはかつて、社会的階段を上ることについてうまいことを言った。彼は売れない俳優のように事務所の外で次の配役を待っている。売れっ子の俳優は知らない仲でもないのに、見下したように傍らを通り過ぎていく。そこでデュラントはこう声をかける。「気持ちよく挨拶をしていった方がいいよ、下りでもまた会うのだから」と。

 

 スタンダールのジュリアン・ソレル(『赤と黒』)の多面的な出世主義を考えると、このモチーフがいかに豊かなものか見て取ることができる。自分の父親を軽蔑し、ナポレオンを理想の父親として、彼は母親として味方してくれた女性を誘惑する。ここで、彼は兵士のように、義務に従って「良心的に」行動している(彼は性的、社会的な支配を軍事行動とのアナロジーで考えている)。社会的立場や富を得るための陰謀や偽善は、彼にとっては単なる功利的な利益を超越した目的へのより高い誠実さ、忠誠を示すものと思われる。その意味で、彼の姿勢は正当化される。彼の優位性を求めるレトリックの背後には、女性一般との関係にまつわる詩的な近親相姦的罪悪感がある。この動機への反応において(作者の根本的な部分にあるゆえに、ソレルにも内在していると思われる)、主人公と作者はジュリアンの出世主義は、本質的に彼の他のごく普通の性質とは異なるのだという尊大な確信を共有するのである。

 

 ヴェヴレンの『有閑階級の理論』は、善、真理、美の基準が、いかに、社会的地位の上昇と位階的な裏づけによって成り立っているかを示している。ラシーヌの自作の悲劇につけた序文は、彼の芸術を動機づける威厳、超然とした姿勢、厳密なスタイルに潜む社会的虚飾を十分あらわにしている。ある疑問を選択することにさえ、社会的主張があり得る。哲学、科学、批評のなかで人間が答えようとする広範囲にわたる疑問において、疑問の本来的な価値は位階のなかでの位置づけとは正確に対応していないからである。そして、通常、力点は<答え>の探求に置かれるが、「社会神秘的解釈」によると、その切迫性のほとんどは、<疑問>に含まれる位階的位置づけからくるのである。ジェイムズの「家の守り神」や自然の対象(「世界の身体」)と同じように、疑問には社会的魔術がしみこんでいる。かくして、異なった文学批評の流派においては(それぞれ異なった政治的、社会的照準をもっている)、疑問そのものに輝きを感じる者にのみ、答えも輝きをもちうるだろう。

 

 自然主義やイマジスムでは、作者がなにを捉えていると考えているかには関わりなく、位階化された世界が十分に記録されている。そうしたモチーフは、通常技術や心理学的な部分で語られることが多いが、象徴主義シュールレアリスムに対する認識をより明確なものとする。

 

 要約しよう。事物や状況が社会的特権の様々な段階と同一化している限り、「実際的」でもあり「美的」でもある対象は、そうした秩序に伴う官僚的な判断との同一化を通じて、政治や商売、税や価格が染みこんでいる。

 

 「観念の分離」でのド・グールモンの考察は、位階的原理のカリスマ的器となる人物にある「魔術的な」面について更なる洞察を与えてくれる。彼は、野蛮人の死の観念について述べているが、野蛮人は死を偶然や必然ではなく、神秘的な力によって引き起こされたものだと考える。(社会学者のレヴィ−ブリュールが「神秘的関与」と名づけた態度が扱われる。)同じ態度がいまだ残っている証拠として、彼は、著名な人物の死について、ほとんど常に、不正が行われたという噂が流れることをあげている。彼はまた、歴史的人物の死が毒殺されたものであるとか、秘密の筋書きがあるという説明に対するスタンダールの好みに言及している。

 

 人々を、或いはスタンダールのような位階的心性を持った作家をして、歴史的人物の死を「神秘的に」考えさせるのは社会的な「神性」の原理ではないだろうか。王や皇帝の神秘的な暗殺について公的に表明された「事実に基づいた」説明の多くは、位階に内在する「神秘化」の原理への対応から生じたものであることが示唆される。

 

 同じように、民衆扇動家であるヒューイ・ロングが殺されたとき、殺人犯の明白な証拠は出そろっているにもかかわらず、弾丸は別の銃から発射されたもので、その運び手はわからないという噂が人々の間に広がった。その死において、皇帝に匹敵するような、「神秘」の「神的な」領域に移されたのである。

 

 国家の政策を支配しているときどう感じるか、チャーチルは次のように書いている。

 

 最終的に、私はすべての場面において指示を与える権限を得た。私は運命と共に歩み、過去のすべては、このときの、この試練の準備であるかのように感じた。

 

 

 

 「運命」は最大限の普遍性をもった言葉である。かくして、人間の動機に関する包括的な言葉として、特化した意味合いをもつ「神−語」である。

 

 弁証法的ピラミッドの頂点についてはこんなところである。「状況の文脈」についてはどうであろうか。保守党の政治家はここで社会的位階の頂点にいる際の精神状態を語っている。彼は行動する立場にいるが、彼の役割に典型的な行動は、全社会構造を道具として使うことになろう。「中枢神経」に関連した原始的行動は最小限になろう。彼の仕事に特徴的な行動は間接的で、位階的であろう。

 

 その元々の意味が「教権制度」である(イギリスでは「高位の」という言葉がつく)「位階」という言葉そのものが天界の神秘という意味合いをもっている。そして、既に言ったように、位階の原理のあるところ、「神秘」はその一立場に限定される必要はないのである。「内部から」自分自身を見る支配者は、自分が「神」ではないことを知っていることが望まれる。だが、敬意をもって王家の行列を見やる身分の卑しい農民と同じくらい強く「崇敬」の動機を感じることもできるのである。というのも、支配という彼の典型的行為が社会的構造の弁証法的なピラミッドにおける位置づけに依存しているなら、その「行為」は、自分が権力を得ている<秩序の原理>に同一化することによってのみ可能だからである。目に見えるものはそこにはなにもない——それらはすべて「精神」に関わっている。

 

 その結果が「神秘的関与」である。「運命とともに歩む」という感覚は、「位階とともに歩む」という極めてリアリスティックな経験が「天界に移された」或いは観念化されたものであろう。



 しかしながら、倫理的、美的、哲学的、科学的規範が社会的優位の規範に大きく影響を受けているにしても、そこにはまた純粋に道徳的な動機があって、倫理的向上、生産道徳、改善の動機は「自律的」で、しばしば、職人が金銭のために自分の仕事を台なしにすることを拒む場合のように自己犠牲を伴うこともある。

 

 ダンテの『煉獄編』は、倫理的登攀を一貫して象徴化している。煉獄の山は道徳的美徳の典型であるカトーによって守られている。その直接の目的は地上の楽園を再び得ることである。テンプル版の編者は、「身体的精神的に、人間は『高みの楽園』に昇りなおさねばならない」と言っている。

 

 自分自身を一般的な形で訴えかけようと努めることは、この本の用語で言うと、純粋な説得の<倫理的>変種として扱うべきである。しかし、現在流行している文学では、動機の順序が逆転され、魅力のある善良な性格を形成することが、優位性を得ることの手段とみなされる場合が多い。

 

 テクノロジー進歩を説く教えは(「生活のより高い水準」)、「登攀者」の倫理的向上とより狭い優位性の追求とを解きがたくもつれさせてしまった。それは、人間の身体を下劣で堕落したものと見なす初期の宗教的教説から直接的に結果したように思われることもある。というのも、人間の自然な生活を奪う新たな機械化を無条件に向上として大事にすることは、宗教的な精神と身体との二元論を再確認しつつ、「精神」を(知性の生みだした)機械的発明の集成と同一視することだからである。

 

 「純粋実践理性」を論じてカントはこう書いている。

 

 道徳はいかに我々が幸福に<なる>か教えるのではなく、いかに幸福に<価する>存在になるか教える。我々が幸福に価しないことのないよう行なう努力に合わせて、いつの日か幸福になれるよう希望することにおいてのみ宗教が関わってくる。

 

 

 

 「幸福に価しないことのない」よう努力することは、幸福を<もたらす>象徴的行為に変わりうる。「美徳」が強要される限り(美徳がすべてを支配できるという信念のもと)、我々は魔術(悪しき科学という意味において。自然秩序や「神の行為」に儀式によって影響を与えようとする)の領域に向かう。そして、この種の操作が成功するという確信のもと、しばしば爽快な気分がもたらされるのは間違いがない。『倫理学』でスピノザは、美徳に価するよう努める精神的な善は、徳を求めるということ自体の至福において既に達成されていると説いている。

 

 倫理的登攀(「<より高く!より高く!>」)は「劇学」による動機の分析では様々な形を取り、倫理が行動の領域にあり、劇が行動の模倣にあるゆえに、あらゆる場所に見いだされるに違いない。そこで、このことについてはこれまでとし、いまだ考察されていない二つの領域に向かうとしよう。



 山の形は糞便的な意味をもつこともありうる。かくして、糞ころがしを神聖なものとしたエジプト人たちは、糞便を力強く様式化したピラミッドに王たちを埋葬したも言える(謎めいたシンボルにおいて、卑俗な意味合いは表現されると同時に隠され、肯定されるとともに超越される)。経済的に、毎年ナイルの氾濫によって土地が豊かになり、堆積した土が容易く堆肥になるという事実が動機づけとなった可能性もある。しかし、一度文化がその内在する位階的構造を発展させ、聖職者によってミイラ化やそれに伴う魔術的知識で腐敗が超越されると、以前に引用したマルクススイフトが非難として用いたモチーフを称賛として表現するある種の「糞便的観念論」が完成される。スカトロジーエスカトロジーとが重なりあうのである。

 

 ある表現が徹底しており、根源的で、「基本的」であるとき、「カタルシス」をあらわすモチーフが予想される。そこでの問題はこうである。この言葉は、プラトン派が「アナロジーとして」捉えたのとは対照的に、アリストテレス派によって「事実そのまま」を言いあらわしたものとして称賛されたのだが、我々はそれをどの程度事実そのままと解釈するべきなのだろうか。超越は、糞便的動機がなんらかの形で表現され、「あがなわれ」なければ完成しないというのが我々の確信である。心理学者は、糞便は幼児の最初の生産物だと指摘している。それゆえ、義務や労働といった道徳的モチーフは糞便的な意味合いをもちうる。そして、美的生産はしばしば、冗談めかして、或いは間接的に糞便的なものに装われる。

 

 イエーツのビザンチウムの詩にあらわれる黄金の鳥はそうした偽装と考えられ、そこでは「不死性」そのものが美的な産出と考えられているが、両義性はブランクーシの黄金鳥の彫刻でより明らかにあらわれている。ホプキンスの詩にも同様の謎が含まれていると思われる。

 

   私は砂時計の

  滑らかなくびれ——しっかりした

壁に一息で穴をあけ

  押し寄せ渦巻きながら落ちていく。

 

 

 我々の注意を引く上品な例は、十字架の聖ヨハネの『霊賛歌』の第二の歌である。

 

  Pastores,los que fueredes

alla por las majadas al otero,

si por ventura vieredes

aquel que yo mas quiero

decidle que adolezco ,peno y muero,

 

 

 翻訳では、

 

 羊飼いの者たちよ、丘の

頂上にある羊小屋に行き、

私がもっとも会いたいと望んでいる方に

会うようなことがあったら

私が病み、苦しみ、死なんばかりだと伝えてほしい。

 

 

 majadasという語は、「羊小屋、羊の檻」或いは「厩肥」を意味する。majadal(羊のためのいい牧草地、堆肥によって豊かになった土地)とmajadear(夜の避難所であり、肥料を施すこと)とは関係している。

 

 聖ヨハネによると、欲望、愛、あこがれは、魂を霊的な善に導く(この言葉はまた「放牧する」を意味する)ことから「羊飼い」と呼ばれる。羊小屋は「天使の位階と階級をあらわし、それを通じて我々の祈りが究極的な高さに聳える丘である神に届けられ、神のうちにあればこそ、丘の上に立ったときのように、高い所にも低い所にもある羊小屋のそのすべてを見ることになる」。

 

 また、ぼんやりとはしているが、母性的な意味合いがかけられていることも見て取れる。丘を示すoteroという語は、子宮をあらわすuteroという語と非常に近い。「丘の頂上」と訳されたスペイン語は、文字通りには「岡のなか」である。しかしながら、類似性はutteroが第一音節にアクセントがあり、oteroが第二音節にアクセントがあることでだいぶ軽減される。

 

 超越は純粋に音声上の変化によって得られることもあり得る。母音変化、母音交換、拡大的、縮小的音位転換、同族子音の代換、かばん語などが目立ったものである。例えば、「soteme」が糞便的な語で、「seeteme」と「siteme」が中性的な、或いは尊称的な語だとすると、あとの二つの語に第一の語が潜むこともあり得る。(こうした隠蔽が母音変化、母音交換を含むこともあろう。)「stome」は縮小的転換であり、「sozeteme」は拡大であろう。「metos」は音位転換であり、「sodebe」はdをtに、bをmに代える同族子音の代換である。かばん語は夢や、でたらめにつけられた固有名詞かなにかでのみ起こりうるだろう(もちろん、ジョイスのような例外はあるが)。「stobe」のように縮小したうえでbとmとを入れ替えるような、二つ以上の操作を結びあわせる場合もあり得よう。こうした任意の音節がすべて、ある言語体系のなかで意味があると仮定されるなら、辞書で定義されるような厳密な語義とともに、詩的な働きもできることになる。腎臓に障害をもつ男が、「尿urine」とひっかけるつもりもなく、手紙におどけて「yourn」と書いた例もある——「urn骨壺」というより深刻な語が同じ両義性を帯びることもある。こうした用法は、一語や一音節に限られることもあるが、カタルシス或いは儀式による浄化に還元され、位階を体現した犠牲者を献げることで浄化される洗練された儀礼として悲劇において発達している。※

 

*1

 

 先に挙げた、ドイツ観念論の「頭脳的体系」をエジプトとチベットの聖職者に見られる糞便的動機づけになぞらえたマルクスの文章は、弁証法的対称を備えた完全な位階的ピラミッドにはこうした両義性が染みわたっていることを示唆している。もちろん、その形式は、普遍化に登りつめていく象徴的媒体そのものの本性や可能性から生じることもあるが、絶対的「存在」という名称の名称にまで達すると、弁証法的な基盤として同じく絶対的「無」を有することになるのである。

 

 ここに、<否定を経由して>上方への道が方向を逆転し、下方への道をとって平地へと帰る運動の源がある。(この帰還において、体系は上方への道で達成された超越的統一の原理を含んでおり、それは世界のばらばらの個物に行きわたって、共通の普遍的実質を共有させる。)この究極的な弁証法的源は、あらゆる形象や個別の諸条件を越えることを目指してはいるが、個別の人物、制度や、それに伴う形象に同一化することもあり得る。それゆえ、普遍的な位階原理の純粋な形式であるにしても(究極的な弁証法的対称のもっともらしい原理)、特殊な位階を体現することもある。かくして、所与の社会的秩序から思弁的に自由になるために意識的に使われることもあるが——或いは、意識的かつ無意識的に、社会的秩序への人間の忠誠を固定化するために使用されることもあり得るのである。

 

 それは、劇でのように、激しさと沈静とが繰り返されるクライマックスの一般的な形だと言えるだろう。しかしながら、通常、ピラミッドの形は高次の段階として明示されるよりも、暗黙のうちに意味されている。同様に、超越の瞬間は、作品が新たなる洞察を得る瞬間、シャイロックキリスト教徒のユダヤ人への偏見を単に主張するだけでなく、突然普遍的な人類の状況に問題を引き上げるような場合をも含んでいる。(『コリオラヌス』では、国民と身体とが比較され、始まってすぐに、位階的原理こそ動機づけの本質であり、その動機は彼一人のものではなく、万人のものなのだとコリオラヌスに主張させることで、劇作家は<始めから>超越の契機を確立することを目指してはいないだろうか。)

 

 いかがわしさも含まれているが、究極的な登攀の興味深い変種が、トーマス・マンの『ファウスト博士』を書評したエリック・カーラーの「悪魔の世俗化」(『コメンタリー』1949年4月号)で言及されている。カーラー氏は、現代の「ファウスト的」人間を、「失墜という悪魔の窮状、疎外状態を——上昇によって、反語的な超越によって」体現する存在として語っている。

 

 弁証法的登攀が超越へ向うもっとも明らかな例として、次のような「正義」を仮定してみよう。

 

 あなた自身が決め、あらゆる命令があなた個人の便宜だけを考えているような、非常に狭い利害しか考えない道徳的規範を想像してみよう。かくして、それを正確に言いあらわそうとすれば、「<汝>は<私に>悪をすることなかれ」という形になるだろう。そうだとしても、この規範を完全に一般化すると、「汝」は規範が提示されるすべての者に適応され、「私」は「すべての人間」をあらわすこととなる。その究極的結論に至るまで弁証法的過程を追いかけることで、もともとあった規範の限界を超越したのである。もともとの利益追求がいかに限定されていようと、普遍化をすれば自己犠牲的な領域にも移るのである。

 

 別の言い方もできる。ある権利や特権の観念を普遍化する必要があるときには、貪欲さから倫理へと進む。他方において、普遍的な言葉で正義を考えることが許されない優等人種説の類は、本質的に欲求不満を抱えている。その欲求不満は、この言葉で通常意味されるような、望まれた便宜や昇進が得られないといった類のものではない。むしろ、「正義」を最大限に普遍化する「拡大の」望みが得られないことからきている。

 

 エンプソンについて考察した際に見たように、こうした自らに対する欲求不満は、「優等」階級においては、しばしばイロニー礼賛として表現され、それ自体が階級身分を示すこととなろう。そうしたイロニストが想像力豊かであれば、イロニーの原理を個別の動機づけを超越するものに拡大するだろうが、マルクスはこうした類の普遍化をイデオロギー的神秘化として疑問視するだろう。というのも、社会的な場に織り込まれると、そうしたイロニーが豊かに普遍的になればなるほど、結果的にますます「不平等を普遍化する」ことになるからである(「優等人種」を「普遍的な」説とする本来の不正義を巧妙に言い換えることで)。

 

 しかしながら、イロニーの高揚を許す疑わしい超越があるにしても、たとえある部分、人間の制度で位階的満足を助長するものではあっても、弁証法的形式そのものは、正義の普遍化に向けて努力するものである。そして、弁証法的登攀を通じた解放は、正しいにしろ間違っているにしろ、我々がある立場に限定された目的ではなく、位階のすべてにわたる普遍的原理によって動機づけられているとどれだけ感じられるかにかかっているだろう。二つの相反する動機は、党派的な争いから派生した普遍的善を主張する説で統合される。マルクス主義アダム・スミス、正統な宗教はみなこうしたパターンを有している。



 こうした「登攀の有効範囲」を観念的な範型とみなすべきだろうか。こうした上昇が活発で調和を保ったシンボルに含まれるとき、作家の作品は最大限の共鳴をもつと結論できるだろうか。初期の哲学者たちは、格言や箴言を本来巨大な聖堂のように豊かにそびえていた古来の知恵が断片的に遺ったのだと言ったものだが、同じように、個々人の表現にも「登攀全体」のある部分が働いているのだと見なせるのだろうか。神秘的な高揚そのものは言語に絶するが、こうした諸動機の幸福な同時性にこそ、その言語における類似物があらわれているのだろうか。同様に、神秘的懈怠は、幸福な結びつきが壊れたとき、超越されたはずの動機が燃え残りの燠としてくすぶっているときに起こるのではないだろうか。

*1:

※こうした批判的方法をあらわす言葉として、「ジョイスする」という動詞を提案したい。「ジョイスする」ということで意味されるのは、発見を目的として、こうした変換を慎重かつ体系的に導くということである。それはなにも証明できないこともあるが、批判的予感をもたらすこともある(或いは、こうした無意識の地口によって間違って発展させた予感を正確に判断させる)。しかし、こうした技巧を用いることは、社会的に受け入れ可能な表現の背後に潜む「禁じられた」語を暴露する以上の広がりをもっている。例えば、二十年前ある批評家は、エリオットの「プルーフロックPrufrock」を実験的に「ジョイス化し」、そこに含まれるモチーフを「純粋なる聖職の身pure-frock」で「堅固なるものを証明prove-rock」する未来を謎めいた形で象徴化していると、うまくいかないこともない程度にまで解釈したのだった。この問題は『象徴』においてさらに議論の必要がある。『文学形式の哲学』の、特に、51−66,258−271,369−378でも扱っている。