ブラッドリー『仮象と実在』 185

潜在的な存在とはなにか。

 

 どちらも「潜在的な存在」に属するだろうが、この語句の意味を考えることに進もう。「潜在的」「隠れた」「発生期の」という語は、「実質上の」「傾向」などと加えて、あまりに多く使われている。ある種のものが存在するという意味合いで用いられている。そして我々が知るべきなのか、実際に知っているのかはともかく、それらのものが存在しないことは確かである。これらの言葉がある種の哲学者たちの助けとなっていることは、過大評価することが困難だろう。しかしそれはここでの我々の仕事ではない。潜在的な存在とは諸条件の集まりを意味し、そのある部分は空間や時間のある地点に現前し、他の部分は観念的にとどまっている。一般的に、それらの諸条件を完成するために、どれだけのものが欠けているのか明確に見て取ることなく使われている。そして全体は、ある地点において存在するものとして語られ、そう見なされているが、現実には諸要素の部分が存在しているだけである。こうした誤用は、明らかに擁護しがたい。

 

 「潜在的な存在」とは、次のような意味で適切に適用することができる。それは、いまだ完全に、あるいはその固有の性格であらわれてはいないが、なにかがいかにしてかある時点においてすでにあらわれていることを意味している。後にこの使用を許すような肯定的条件を示そうと思うが、まず、それがどこで承認しがたいものとなるのか指摘した方がいいだろう。その存在が現実のものであっても、所与の事実がいまでは消え去ってしまっている場合、潜在的な存在については語らない。現在あらわれている諸条件の部分が因果的に残りの部分も生みだすに違いない。そしてそれが生じるためには、まったく異なるものがつけくわわらねばならない。しかし、多くのものが付け加わると、最初にあらわれているものの個別性が完全に破壊される、あるいは圧倒され、沈められて――「潜在的存在」には当てはまらなくなる。ある人間が貝の体積の上に住むことで死んだとする。しかし、それゆえ、あらゆる貝は人間の潜在的な死をあらわし、そうした死はあらゆる貝類にすでにあらわれていると語ることは行き過ぎだろう。というのも、それとは異なる多大な条件がその結果には関わっているはずで、最終的に、条件と結果とは偶然によって結びついているからである。より極端な誤用の例を持ちだすことで、なおはっきりと理解できるだろう。詩人は一片のパンを食べることで、叙情詩を生むことができたかもしれない。しかし、詩人の存在がすでに実質上、食物の一片にあり、何らかの偶然によって詩人を形成したのだと考えられるだろうか。

 

 こうしたばかばかしさは、この語を適切に使うべきことを示唆する。現前する要素が残りのものを生みだすことができると考えられるところでは、採用することができる。それは自らの持つ性格を完全に失うことはなしにその結果をもたらさねばならない。別の言葉で言えば、個物は、その過程の間連続的でなければならない。そして結末は、そのほとんどにおいて、始まりと見合ったものでなければならない。我々の原則には二つの側面がある。というのも明らかに、外的な条件のある量以上が持ち込まれると、始まりと終わりの理想的な同一性が破壊されてしまうからである。その場合、明らかに、結果そのものは始まりにはなく、いかなる合理的な意味においてもそこにあらわれることはできないことになる。後に鶏となる、ごく一般的な卵の例は、潜在的な存在に見合った適用例である。他方において、あらゆる人間が何の区別もなく、潜在的に猩紅熱だというのは、少なくとも不正確の境界線上にあるだろう。現在すでに体調を崩しうると主張することは明らかにばかげている。端的に、潜在的存在は、「発達」や「進化」が適切な意味を保っているときにのみ使うことができる。そして、進化によって意味されているのは、私には理解できないいわゆる「哲学の体系」によって擁護されているようなでたらめな用い方ではない。

 

 それゆえ、ある種の条件のもとでは、潜在的存在という観念は適用されうる。しかし、同時に、完全な真理と正確さのもとでは適用され得ないと付け加えねばならない。というのも、なんらかの進化をするためには、外的な条件が入ってこなければならない。そして、結局のところ、それら異質なものに制限を設けることは不可能である。本当の原因は常に全体的な原因でなければならず、全体的な原因は宇宙を取り入れるまでは決して完全たり得ない。(1)それは単に思弁上の純粋化ではなく、実際経験上の難点である。後に、身体と魂について考察するときにそれにであうことになろう(第二十三章)。現にそこにあるからといって、厳密な意味でそれがこれ以後もあるだろうと主張することは決してできない。そして、それが主張できないところでは、潜在的存在は部分的に不正確である。それは多かれ少なかれ曖昧に、多かれ少なかれ寛容に適用されざるを得ない。端的に言って、我々は二つの危険の間にいる。なんらか限定されたものについて、関係をまったく拒否するなら――その関係は必然的にある部分は外的であり、それゆえ変わりうるものだが――そのものについての考察は不十分であり、空虚なものとなろう。しかし、そうでなければ、単にそこにあるだけのものを認めることになろう。

 

 

*1

 

 そして、一度この道筋に入り込むと、あらゆる境界をせわしなく超えていくことになる。述語の主語は無限に拡張し続けることを余儀なくされ、最終的にはまったく異なったなにかのなかに消え去ってしまう。それゆえ、潜在的な存在を使う際には、我々はいわばある傾きの上にいる。我々は次のように進める、「Aは予想される条件のもとでは、その性質はBへと発展するだろう。それゆえ、このことから、私はあえてそれをすでにBだという」そして、Aは別の結果Cとなることも可能であるから、それゆえ、Cはこのことを考え合わせるとすでに述語である主張される。そしてCは非常に狭い範囲のことではあるが、Aによって生みだされるのであるから、結果的には、Aそのものが完全に消失してしまうかもしれない。

 

 われわれはそれゆえ、潜在的存在はある程度妥協を含むことを認めねばならない。事実、その使用は、非常に厳密な原理によって定義することはできない。その語がなにを意味しようとするのか、常に多かれ少なかれ含まざるを得ないものはなにかを心にとめ、実際にはそれを使いやすいように、安全に採用することができる。しかし、最終的には、混乱と危険のもとになるものが広範囲にわたって残ることになろう。書き手がごく自然にその一節に頼っていると感じていればいるほど、少なくともそれを避けようと試みてしかるべきもっともな理由があるだろう。

*1:

(1)そして、それは不可能である。第六章、第十八章を参照。