ケネス・バーク『動機の修辞学』 64

...   5.ホプキンスにおける高揚感と懈怠

 

 ジェラルド・マンリー・ホプキンスの詩を考えると、次のような段階が見て取れる。

 

 1.早熟で官能的な感覚的イメージがある。例えば、カレッジで賞を取った詩には、光、花、宝石、色彩がちりばめられ、ほとんど感覚の乱舞と言っていい。「光の針が/輝かしい傷を白みがかった深紅色に広げ」・・・「薔薇のつぼみは・・・熱さにあえぎながら花咲き/散る」・・・「珊瑚礁、貝、真珠に飾られた/大洋深くの奇妙で珍しい宝物」・・・「優美なオニキスの王冠をつみ取る/上機嫌な浮かれ者」・・・「滅多に騒ぎのない海で/溺れた者たちの流すメロディー」・・・「最後には深く甘美な眠りにつき、悲嘆もそこで終わる」。

 

 2.イエズス会に参加したとき、彼は詩を棄てた。詩を自分の使命と相反するものとして扱った。『若き芸術家の肖像』のスティーブンとは正反対の選択をしたのである。感覚からの転換は、聖職者の禁欲に合った行為に思われた。

 

 3.しかし、ある先輩から、<ドイツ号>の難破のために生命を落とした修道女たちの追悼の詩をつくるべきだと示唆され、新たな動機が生まれる。突然、拒んでいたはずの自分の才能を受け入れられるようになった。

 

 神秘的な高揚とその詩での表現にとって、この三つ目の段階は重要だと思われる。真に超越された動機は、途絶えるのではなく、変化するのである。引かれるのではなく、新たな組み合わせのなかに加えられる。つまり、<抑圧されるのではなく>、異なった風に<表現される>。その「本性」が「飾られる」のである。

 

 ホプキンスは、ノートを自然の対象の詳細な観察で埋めることができた。というのも、彼はそこに神から発した本質を見た、或いは見たと考えていたので、経験的実在的な研究が正確になればなるほど、対象が神の現前を示すという確信を深めることができたからである。自然は、観察者と神とをつなぐキリスト教的架橋となることができた。もし彼が、主体と対象とのシェリング風の同一化によって、自然という場面の個物に行為者として加わることができれば、そして、(スコトゥス風の<個別原理>を観念論的に解釈することで)個々の自然物と神とを同一視できれば、自己と自然と神との幸福な交感が得られることだろう。

 

 こうしたことから、感覚的イメージが再び彼の前に開かれ、熱心にそれを使うことになった。以前は禁欲のために自身に禁じていたものを、<より大いなる神の栄光のために>たっぷりと使うことができるのである。

 

 こうした動機の変化には非常に複雑な可能性が存在する。五人の修道女が死んだ難破について書くことで、彼はまた、別の種類の難破、彼自身の道徳的過失についても両義的に述べることができる。難破という事実が神の刈り入れとして扱われることで、詩は間接的に彼の罪を気高いものとする。つまり、ここには三種類の難破がある。事実としての難破、彼自身の堕落、英雄的な修道女の神による収穫である。そして、この称揚、修道女の宗教的受難を讃えることによこしまな肉欲が混じっていることを彼は告白している。

 

 恐らく「隼」はもっとも純粋な称揚の詩であろう。つらさのしるしもある(特に「耕していく」だけの「労苦」、「倒れ苦しみ真っ赤な傷となる」「青白い燃えさし」)。しかし、揚々たる気分があまりにも大きく、全体に行きわたっているので、落ち込みがちの瞬間も、なにか上昇しているエレベーターのなかでものを落とすような具合である。また、「まだらで」、「ごっちゃになった美」といった言葉も、白と黒の二元論的な闘争ではなく、黒を救いだす幸福な合併に行き当たったことを示していると思われる。キリストに擬された鳥が「まだらな夜明けに引きつけられる鷹」と表現され、脱我的な隼の飛行を通じて主題が姿をあらわしている。

 

 目的という観念を普遍化してみよう(神のしるしがあらゆる生物に見られるように)。個人と普遍的な意図とを同一視しよう。結果は爽快である。しかし、同一視がうまくいかない場合、残されるのは酷くはみだした自我、重く病んだ自己である。登攀の感覚は、うまくいっている間は活気にあふれたものだが、衰弱した懈怠が始まり、神と同一視される自然と自己との高揚した同一化が崩壊すると、そこには自己だけが残されることとなる。「私は苦悩であり、胸が焼けつくようだ」・・・「神のもっとも深い判決は/私にとって苦いものとなろう、私が味わったのは私自身だった」・・・「精神の自己発酵は、酷く酸っぱい生地にしかならない」・・・「自己、自己・・・哀れな者よ」。※

 

*1

 

 「彼女の美徳を黒く染めかえようpitch」とイアーゴーは言う。語の響きについて考えつくしたホプキンスが事物の切り離された姿、その自己を「ピッチ」という語であらわした事実をどう考えるべきだろうか。彼はまたそれを動詞としても使っている。人間の自己は他の生物より「より黒く染まりがち」である。失意のうちに書かれた後期の詩のなかには、「黒く塗りつぶされた過去が悲しみで黒く塗りつぶされる」とある。明らかに、この語は当初から両義的な意味合いをもっていた。高揚の時期が消え去ったあとの自己の挫折を密かに意味していたのである。

*1:※これはまだ出版されていない「ジェラルド・マンリー・ホプキンスの詩における超越」の骨子で、著者のジュディス・ベイリーは数年前私とともにホプキンスを研究した。大学生としてはひときわ優れたこの論文は、ベニントン・カレッジの図書館にファイルされてある。